第29話

 てつくような寒さの中を走り抜け、本部に駆け込む。壁に寄りかかり、呼吸を整えながら建物内の暖かさにホッとする。冷え切った指先からじんわりとしびれるような感覚が全身に広がるのを感じながら、俺はゆっくりと息をついた。

 刑事部の部屋に入ると机に突っ伏して寝ている田村の姿が目に入る。他の課の人間の姿もちらほらとあり、皆忙しなく仕事をしていた。

「店に行ったんじゃなかったのか」

 OMBRAGEで飲みたいというから県警まで車に乗せてきたのに。

 俺はコートを脱ぎ、椅子に腰を下ろすと大きく息をついた。寒さのせいで肩にかなり力を入れていたらしく、肩がこって気怠さが増している。両肩をほぐしながら目の前の山積みされた書類に目を向け、思わず机に倒れ込む。早速、やる気ががれてしまった。

「しんどいな」

 コーヒーでも飲むか、と机から顔を上げると隣の田村がむっくりと上体じょうたいを起こした。

「行ったさ。考え事をしていたら終電がなくなってた」

 そう言って大きな欠伸あくびをする。

「なんだ、起きてたのか」筋肉痛になりかけた上体じょうたいを起こし、「タクシーで帰ればいいだろ」

「面倒」

「こんなところで寝るくらいなら家に帰った方がいいんじゃねぇの? 俺なんか、くったくたなのに」

「お前はな」

「あっ、そうだ。お前、疲れてる訳ないよな」

 車を運転したのも自転車を漕いだのも俺だ。田村は、ふふんと鼻であしらう。

「コノヤロ、憎ったらしい顔しやがって」

 田村をひと睨みし、一番上に積まれている書類に手を伸ばす。気を取り直して書類を広げると、「大変そうだな」と田村が横から声をかけてきた。

「手伝ってくれるか?」

 助けをうように田村に顔を向けると「嫌だ」と即答された。

「溜め込むお前が悪い」

「そういう奴だよな、お前って」

 少しでも期待した俺がバカだった。コーヒーを淹れに席を立った田村に「俺のも」と声をかけ、書類に取りかかる。

 先日、南区で起こった殺人事件の報告書だった。これか。俺は思わず目を細めた。

 両親を殺害して逃亡した双葉慎吾。市内のホテルに潜伏せんぷくしていたところを逮捕したのは俺たちだった。その時、彼は悪びれた様子もなく「俺は悪くない」と言い放ったのを今でも覚えている。

 市内の公立高校に通う、ごく一般的な高校生だった双葉慎吾。学校関係者や彼の友人たちも「どうして彼がこんな恐ろしいことを」と戸惑いの色を浮かべていた。

 多くの報道陣が学校や現場周辺につめかけ、連日のようにこの事件を取り上げた。

 どの報道も、その残虐性、そして悲劇的な部分を強調し、現代の若者が抱える闇に焦点を置いているものがほとんどだった。学術的に検証されていないのにも係わらず、少年犯罪が起こるたびに〈若者論〉を声高こわだかに主張する大人たち。〈若者〉とひとくくりにして論ずる乱暴さにも呆れるが、言うだけ言って終わりという無責任さに腹ただしさを覚える。  

 自分たちの理解できないものは〈異常なもの〉として片づけ、自分と彼らは〈違うもの〉と区別して安心したいのだろうが、そんなことはない。皆〈同じ〉だ。

 双葉慎吾も、モンスターでもなんでもない普通の少年だった。

 取調官である藤堂と陣内に、慎吾は両親を殺害したことは認めたが動機については「話したくありません」とかたくなに口を閉ざした。その後、彼がインターネットの掲示板に書き込みをしていたことが彼のパソコン履歴から判明した。

 ――あるサイトの掲示板にあなたは書き込みをしていましたね。進学についての書き込みです。あなたは大学進学を志望していたのですね。

「……はい」

 ――県内の大学ですか?

「いえ、東京です」

 ――進学を決めた理由を伺ってもいいですか?

「……就職に有利だって言うし、みんなが行くから自分もって最初は考えてました」

 ――ということは、あなたの中で徐々に志望理由が明確になっていったということですか?

「……」

 ――よければ話していただけますか?

「言いたくない」

 ――そうですか。では、話を変えましょう。どうしてホテルに泊まったりしたのですか? 逃げようと思えば遠くに逃げられたでしょう。

「贅沢してやろうと思って。もう、できなくなるから」

 ――贅沢はできましたか?

「あんな部屋に泊まったの初めてだった。ざまぁみろだ」

 ――それは誰に対しての言葉ですか? ご両親に対してですか?

「……別に。関係ない。ただ、おめでたい奴らに……幸せな奴らに、言ってやっただけだ。そんなこと聞くな。イラつくっ」

 ――解りました。けれど、あなたは幸せではなかったのですか? ご両親との関係は良好だったと近隣の方々から伺いましたが。

「俺は……違う。そうじゃ、なかった」

 ――どういう意味ですか?

「……」

 ――ご両親とうまくいっていなかったということですか?

「……俺は、愛されてなんて、なかった」

 ――大丈夫ですか? 少し休みを取りましょうか?

「平気。……もう、大丈夫」

 ――また気分が悪くなった時は言って下さい。では話を続けます。あなたは何故、ご両親から愛されていないと思ったのですか?

「俺があんなに頼んだのに……あいつら全く取り合ってくれなかった。俺は真剣だったのに。泣いて説得もしたのに。奨学金についてだって説明したのにっ。なのに、あいつら!」

 ――東京で生活をするとなれば、学費は奨学金でまかなえたとしても家賃やその他の生活費も別で必要になりますよね。

「アルバイトをして稼ぐつもりでした」

 ――ですが、それでは学業がおろそかになってしまいますよね。

「それは……仕送りを少ししてもらって」

 ――工場を閉鎖することになっていたのは知っていましたか?

「親父の糖尿病が悪化して続けられなくなったって」

 ――そうですか。では、ご両親が学資ローンの申し込みにいくつかの銀行を回っていたことは知っていましたか?

「……知りません」

 ――それでは、申し込みをすべて断られていたことも知らなかったのですね。

「……え?」

 ――家にあった学資ローンのパンフレットから銀行の担当者に話を伺ったところ、あなたの家がかなり困窮こんきゅうしていたことが判りました。捜査の為、家の経済状況を調べさせてもらいました。ご両親には多額の負債がありました。

「そんな……それなら、どうして俺に」

 ――やはり、知らなかったようですね。あなたに心配させまいと隠していたのでしょう。

「……そんな」

 ――最後の最後まで、ご両親はあなたを進学させる為に頑張ったんですよ。それでも、どうすることもできなかった。彼らも辛かったと思いますよ。

「そんな! じゃあ、俺は……」

 ――あなたは、ご両親に愛されていたんですよ。

「嘘だ! そんなことっ……信じない! 嘘だよな?! そんな、嘘だと言ってくれ!」

 ――あなたは、どうしてそこまで進学にこだわったのですか? 勉強がしたかったのなら他にも方法はあったはずですよ?

「わ、からない。……工場を継ぎたいと思ったんだ。俺の代で終わりかって親父が前に淋しそうに言ってたから。だから俺がもっと大きな工場にして、楽させてやろうと……」

 双葉慎吾の慟哭どうこくが、廊下でやり取りを聞いていた俺の耳に届いた。

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