第23話

 ようやく東の空が白み始め、長い夜が終わりを告げようとしていた。張り込みを始めて今日で四日目。

 田原の話では、捜査本部は依然として加賀の足取りを掴めていないそうだ。昨日の捜査会議で、デスクから怒声を浴びせられるひと幕もあったらしい。その話を聞いて猪又は眉をひそめた。

 常に冷静でいなければならないデスクが、頭ごなしに怒鳴りつけるのはどうかと思う。司令塔が自らの手で士気を落としてどうする。

 それに比べると篠原警部はよくできた指揮官だったと思う。性格はどうあれ、迷いのない指示と的確な判断力を持ち合わせており、自分たち捜査員を上手く統率していた。時には手綱たずなを締めることもしたが頭ごなしに部下を怒鳴り散らすことは一度もなかった。

 寝ていない頭でぼんやりとそんな事を考えていると、隣の夏目が急に叫び声を上げた。猪又はその声に驚き、慌てて体を起こす。

「な、なんだよ急に! 静かにしろ!」辺りを見回しながら、「加賀の姿でも見つけたのか?」

 猪又の問いかけを無視し、夏目はものすごい形相ぎょうそうで猪又の肩を掴んだ。

「あたしはバカだ!」

「何を今更……睨むなよ、悪かったって」

 朝からなんでそんなにテンション高いんだよ。覚醒かくせいしきれていない頭をきながら欠伸あくびをすると、夏目が猪又の体を強引に引き寄せた。

「加賀、あの家に既にいるんじゃないか?!」

「……な、に?」

 夏目は猪又の体を強く揺すり、「だから! 加賀は事件後すぐにこの家に逃げ込んだんじゃないか?!」と早口にまくし立てた。

「ばかなっ!」

 猪又は夏目の手を払い除ける。

「いいから聞け!」夏目は動揺する猪又に声を張り上げた。「加賀は寺田を殺したあと会社を飛び出した。そして走ったんだ、ここまで! 奴の会社からここまで六キロ弱だ。走れない距離じゃない。鉄道会社の監視カメラに加賀の姿が映ってなかったのも、タクシーを利用した形跡がなかったのも、これで納得がいく!」

「だが、この周辺の店から回収した監視カメラの画像にも加賀の姿は映っていなかったじゃないか」

 猪又は反論する。

「加賀はこの街を熟知している。路地裏、住宅街を走り抜けたのかもしれない。突発的な犯行をしたあとにもかかわらず、指紋を拭き取り、わざわざ監視カメラを逃れる為にトイレの窓から抜け出すほど頭が回る奴だぞ!」夏目はあわれむような目で猪又を見ると、「前に言ったはずだ。深入りするなって」

 猪又は夏目を睨みつけた。夏目はそれを真正面から受け止める。睨み合いの末、先に目をらしたのは猪又だった。

「……確かに、俺はあの人にばあちゃんの面影を重ねたこともあった。あの人の気持ちを踏みにじった加賀を赦せないという気持ちもある。けど俺は、刑事として、あの人が嘘をついているとは」

「加賀は、まだキミに真実を話していない可能性もあるじゃないか」

 夏目がぼそりと言う。猪又は唇を噛み、キミの家を見つめた。

「猪又、二階堂警部に連絡して。あたし、彼女の家に行って確認してくるから」

 夏目が車から降りようとするのを猪又が制した。

「待て、俺が行く」

 夏目が無言で猪又を見据みすえる。きっと自分のことを呆れているのだろう。構うもんか。猪又は夏目に、「俺が行く。俺に行かせてくれ」と再度頼み込んだ。夏目は大きな溜め息をつき、「……解った。いつもの時間になったらお前が行け」と承諾した。

「ありがとう」

「ふん、礼なんかいらんわ」

 夏目はふいっと顔を背けた。猪又は彼女の気遣いに感謝する。

 もしかしたらキミの目の前で――と覚悟はしていたつもりだった。それなのに、いざその時がきてみると情けないことに動悸どうきがなかなか治まらない。刑事としての自分の至らなさに腹が立つ。

 まだ、あの家に加賀がいるとは限らないじゃないか。そう思いながらも、やはりあの家に加賀はいるのではないか、と思い始めている自分がいる。

 捜査本部でも加賀は未だ市内に潜伏せんぷくしているとみて、昨日から関係者宅や市内の宿泊施設、ネットカフェなどを重点的に捜索していた。それなのに夏目に言われるまで気づかなかったのは、いつの間にか自分の中でキミを除外していたのだろう。もしかしたら無意識に気づかないふりをしていたのかもしれない。

 夏目の言う通りだ。自分は――

「おかしい」夏目が短く呟いた。「猪又、時計を見ろ」

 腕時計を確認すると時計の針は午前七時二十分を指していた。

「……いつもなら、とっくに玄関の掃き掃除をしているはずなのに」

 猪又は顔を上げ、不安げにキミの家を見つめる。この三日間、彼女の生活サイクルが狂ったことはなかった。

「何かあったのか?」

 夏目の呟きにキミの持病のことが頭を過ぎる。彼女も同じだったらしく、同時に車から飛び出した。

 キミの家の呼び鈴を押すが応答がない。慌てて門に手をかけると、「加賀!」と夏目の叫び声がした。反射的に夏目の視線を追うと、そこに顔を引きらせた加賀が立っていた。

 加賀は一歩、二歩と後ずさり、背を向けて走り出そうとした。

「これ以上、ばあちゃんの気持ちを踏みにじるな!」

 猪又が叫ぶと加賀の体がびくりと反応した。顔を歪めながら加賀は猪又を見返す。

「……お前らに何が解る!」

「猪又! 加賀の身柄確保、頼んだぞ!」

 夏目は門を勢いよく開けて玄関へと駆け込んでいく。それを見た加賀が猪又に駆け寄り腕を掴んだ。

「待ってくれ! ばあちゃんは関係ない! 心臓が、心臓に持病があるんだ! 言わないでくれ! 頼むっ!」

 必死の形相ぎょうそうの加賀に猪又は「そうじゃない。呼び鈴を押しても応答がないんだ」と言うと加賀は顔を強張らせ、慌てて玄関へ駆けていった。猪又もあとを追って玄関へ向かうと、夏目がキミの名前を呼びながら玄関のドアを叩いていた。

「猪又、庭へ回れ!」

 夏目が叫ぶと、まっ先に加賀が庭へ走り込んでいった。

「身柄確保しろって言っただろ!」

 夏目の怒声が飛ぶ。

「解ってるよ!」

 わずかに遅れて庭へ駆けつけると、窓ガラスに手をついた加賀が叫んだ。

「ばあちゃん!」

 カーテンの隙間すきまから家の中をのぞくと、苦しそうに顔を歪めたキミが胸の辺りを掴んで部屋の中央で倒れていた。

「どけ!」

 猪又はすぐ横にある花壇のレンガを掴むと窓ガラスを叩き割った。すかさず手を入れ、クレセントを解錠かいじょうする。ガラスの破片が皮膚を傷つけ、いくつもの糸状の傷から血がにじみ出てきた。その傷だらけの手を抜き取り、窓を勢いよく開けると部屋の中に飛び込んだ。そのあとを加賀も続く。

「い、のさ、ん。ゆ……き」

 猪又たちに気づいたキミが苦しそうに声を絞り出した。

「薬はどこですか?!」

 キミに駆け寄り、猪又が尋ねる。

 狭心症きょうしんしょうのキミはニトログリセリンを処方されていた。キミは震える手でテーブルを指差す。薬入れが置いてある。

「も……う、の、んだ」

 キミは苦しそうに胸を押さえながら、すぐに治まるから大丈夫だと言った。だが、どう見ても薬が効いているようには見えない。

 猪又が不安に思っていると、さっきまで携帯で救急車の手配をしていた夏目が、「ニトロを飲んで二十分は経っているはずだ。薬が効いていないとなると急性心筋梗塞きゅうせいしんきんこうそくを起こしている可能性が高い」と外の様子に気を配りながら言った。加賀の顔がみるみる青ざめていく。

「ばあちゃん、ごめん! 俺がもっと早く来ていれば」

 加賀がキミの手を取ると、「ゆ、きは、悪くな、い」と荒い息づかいをしながらキミは加賀に笑いかける。苦痛の中、精一杯の笑顔をつくるキミに加賀は声をつまらせ泣き崩れた。

 遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。その音は徐々に大きくなり、こっちに近づいてくる。

「宮川さん、すぐ救急車が来ますからもう少しだけ我慢して下さい!」

 早く、早く来てくれ。猪又は祈る思いでキミを励まし続けた。

「ゆ、き……な、くな」キミは震える手で加賀の頭を撫で、猪又にゆっくりと顔を向けた。「い、の……たさん、あ、りが、とう」

「しゃべらないで。もうすぐですよ。頑張って」

 サイレンが止んだ。車の止まる音が聞こえ、夏目に案内されて救急隊員が姿を現した。迅速な動きで担架たんかにキミを乗せ、救急車に搬入する。

 ホッと胸を撫で下ろしていると夏目が猪又の背中を思い切り叩いた。

「しっかりしろ! お前は車で来い。あたしと加賀は救急車に乗る」

「解った」

 キミの家の前にはたくさんの野次馬が集まっていた。その中には昨日の朝、キミに挨拶をしていた小学生たちの姿やキミと談笑をしていた若い母親の姿もあった。皆、不安な顔をして救急車を見つめている。

 猪又は野次馬の間をすり抜け、夏目のスカイラインに乗り込んだ。

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