第10話

 厚みのある灰色の雲が空をおおっていた。今にも雪が降ってきそうで憂鬱ゆううつになる。勘弁して欲しい。夏も辛かったがこの時期の聞き込みもかなりキツイ。

 寒さでかじかむ手を擦り合わせ、どんよりとした曇り空を見上げながら雪が降ってこないことを祈った。山口のように神が存在するとは思っていないが、何故かこんな時は神頼みをしてしまう。我ながら調子が良過ぎて苦笑する。

 住宅街の中央に置かれた公園に目を向けると、枝を横へ広げるように伸ばした木々が冬の寒さをしのいでいた。よく見るとすべて桜の木だった。春になればたくさんの花を咲かせ公園を桜色に染めるのだろうが、葉もない枝だけの今の姿は寒々しく淋しげに見える。

「寒いな」

「冬だからな」

 田村は素っ気なく言うと次の聞き込み先へさっさと歩いていく。

「お前は相変わらずだな」俺は両腕をさすりながらゆっくりと息を吐く。口から吐き出された白い息は大気に溶けて一瞬で消えてしまった。「早く春が来ないかな」

 体をブルッと震わせ、こっちを見て立ち止まっている田村の許へ足早に向かう。

 聞き込みを始める前に立ち寄った佐伯美奈の家は、巨大な竹林に囲まれた予想以上に辺鄙へんぴな場所にあった。もともと彼女の両親が買った家で、交通事故で両親が亡くなるまで家族で暮らしていたという。両親の死後、双子は馨の許に引き取られたが、大学卒業を機に美奈は再びあの家に住むようになったそうだ。

 壁が黒く焦げ、ところどころ焼け落ちた家の残骸。その周りに規制線が張られ、風が吹くたびブルブルと黄色のテープが音を立てて揺れている。

 俺は無残に変わり果てた家を見つめ、改めて犯人の逮捕を誓った。それと同時に厳しい捜査になることを覚悟した。

「あんな場所じゃあ、近所付き合いもなかなかできないよな。今まで聞き込みに回った家の人たちも彼女に興味は持っていたようだけどさ」

 危惧きぐした通り、いくつかの家に聞き込みに回ったが事件当日の不審者情報はおろか、彼女についての情報も得ることはできなかった。

 美奈は近隣の住人との係り合いを避けるように暮らしていたようだ。

「その為にあの場所を選んだって感じだな」

 田村がぽつりと呟く。

 次の聞き込み先のインターホンを鳴らしながら、「おいおい、人付き合いが苦手っていうレベルじゃねぇな。気難しい人だったのか?」と俺は田村に尋ねた。

「さぁな。俺に訊くな」

「演奏とか聴いて判らねぇの?」

「演奏を聴く限りだと気難しい感じは受けないな。だが実際どうかは判らないだろ」

 無茶を言うなとばかりに田村は俺を睨んだ。

「まぁ、確かに」

 スピーカーから若い女性の声で応答があった。事件について話が聞きたいと伝えるとドアが開き、不安げな顔をした女性が出てきた。毎回のことだが田村がメモ役に徹するので必然的に俺が聞き役になる。お前も人付き合い苦手だよな。刑事としてどうよ、それ。

「愛知県警の望月です。彼は田村といいます」

 警察手帳をかざしながら名乗ると女性は、はぁ、と小さく頷いた。

「佐伯美奈さんの事件について情報を集めています。お手数ですがご協力お願いします」

「でも私、亡くなった方とは交流ありませんでしたから情報と言われても」

「亡くなった佐伯美奈さんについてはご存じでしたか?」

「そりゃあ、ここ一帯では有名でしたから。でもコンサートなどで家にあまりいなかったようですし、ご近所付き合いもしてなかったようですよ。彼女、人嫌いだそうですから」

 薄着のまま外に出てきた彼女は寒そうに腕をさすりながら答えた。申し訳ないと思いつつ、質問を続けていく。

「事件当日、この付近で不審な人物や車を見かけませんでしたか?」

「いいえ。昨日は外出しませんでしたから」

 またか。

 彼女に気づかれないように俺は小さく吐息をつく。この寒さの為か外出する人が少なく、不審者情報がなかなか集まらないでいたのだ。

「では、佐伯さんの家に出入りしていた方をご存じありませんか?」

 彼女は、ああ、と頷いて、「近所の女子大生が時々家に出入りしていたようですよ」と言った。

「名前は判りますか?」

「名前までは。この先のアパートに住んでいる方で、すごく可愛らしい女性ですよ」

 ――水島のことだ。どうやらここ一帯の住人は彼を女性と間違えているようだった。あの容姿だから間違えるのも仕方ないが、男としてはあまり喜ばしいことではないだろう。だが今ここで訂正するのも気が引け、結局、そのまま礼を言って聞き込みを終えた。彼女はホッとした表情で軽く頭を下げ、足早に家の中に入っていった。

 この日、美奈に関しての情報を得ることはできなかった。

「――収穫なし、か」

 自販機から出てきたばかりの缶コーヒーを両手で包み込むように握りながら、俺は呟いた。かじかんだ掌にじんわりと熱が伝わる。

 あの現場でしかも深夜の犯行ともなれば、もありなん、といった感じではあったが、まさかここまでとは思わなかった。

「立地の悪さと時期の悪さが重なったな」

 田村はそう言って缶コーヒーのプルタブを開けた。ほのかなコーヒーの香りが鼻孔びこうに届く。

「にしても手ごたえがなさ過ぎだ。いくら寒いとはいえ、聞き込んだ先のほとんどの主婦が家にこもってたってのはどうよ。主婦ってもっと忙しいんじゃないのか?」

「知るか。ただ何軒かの玄関先に食材宅配サービスの箱が置いてあったぞ」

「何それ? なんでそんなのお前が知ってんだよ」

「同じ箱を配達員が配っていた。お前、見てなかったのか?」

 見てない。そんな余裕はない。お前はメモ取るだけだから見えるよな。

「てことは昨日もその業者、来てたんじゃないか?」

「ああ。さっき訊いてきた」

「あ、なんだ。急に走り出したのはそれか。てっきりトイレに行ったのかと思ってた」

 田村に睨まれた。

「悪い。で、どうだった?」

 田村は肩を竦め、「毎日この時間帯に配達に来ているそうだが、不審な人物だけでなく外を出歩く人自体見なかったらしい」

「……どんだけ寒がりな住人だよ」

 俺は思わず声を上げる。

「戻ろう。時間だ」

 田村は缶コーヒーを飲み干すときびすを返した。

 俺は空を仰ぐ。何層にも重なった雲がすべてを隠し、月も星も一切ない暗闇が広がっている。悲しくなるほど何もない真っ暗な空に言いようのない不安が込み上げる。今ここで雪が降ってきたとしたら喜んで受け入れることができそうだったが、暗闇の空は何も生み出すことはなかった。

 その空の下では、整然と立ち並ぶ家々から漏れる明かりと街灯の明かりが、街を暗闇から守るように明るく照らしていた。

「――そうだな」

 俺は暗闇の空の下、歩き出した。

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