第8話
俺たちは少し離れた場所から山口と篠原たちのやり取りを見ていたが、話を聞く限りでは彼が嘘をついているようには見えなかった。もちろん山口の当日の行動と彼と被害者との関係も調べることになるが、彼は事件とは関係なさそうに思えた。それよりも――
「神様ねぇ」
笹島が呟いた。いい歳して何言ってんだ、と言いたげだ。
「存在しないってことが解っただけでもよかったじゃないか」
篠原は立ち上がり、興味なさそうに言うと大きく伸びをした。期待していたほど情報が得られなかったこともあり、少々ご機嫌斜めだ。
「若さんは相変わらずですね」
顎に手を当てながらニヤニヤしている若林に向かって俺は言った。
「女の子、大好きだから」
「でもその女が犯人かもしれないんですよね。もっと特徴があれば聞き込みも楽なんだけどな」
「犯人かどうかはまだ判らないさ。限りなくクロに近くてもな。あと〈容姿端麗な女〉ってのも結構な特徴じゃないか。頑張って行ってこい」
「うっす。ところで里見さんは?」
「今こっちに向かっているそうだ。夜の会議には間に合うだろう」
法事で北海道の実家に帰郷中の捜査一課で唯一の女性刑事である里見は、同期の若林と――最初は年下だと思っていたが――コンビを組んでいた。かなりの美人なのに若林は女性として見ていないらしい。さすがに公私の
ふと目をやると、田村が無表情でこっちを見ている。早く捜査に行くぞ、という無言の圧力をかけているのだ。解ってるよ。睨むな。
「じゃあ、行ってきます」
田村と部屋から出ようとした時、女性警官がちょうど部屋に入ってきて危うくぶつかりそうになる。慌てて避けると、彼女は俺たちに軽く一礼してから篠原たちに声をかけた。
「佐伯美奈さんのご家族の方がお見えになりました」
心なしか彼女の頬が赤く染まっているように見えた。
「ああ、入ってもらって」
祖母である佐伯馨が緑署に来ることになっていたのだ。笹島と話をしていた篠原がそう声をかけると、女性警官は頷いて部屋から出ていった。入れ替わるように部屋に入ってきた人物に、誰もが――いや、田村はいつもの無表情のままだったが――息を呑んだ。
陶器のような艶やかな白い肌。長く伸ばした前髪から覗く、憂いを帯びた漆黒の瞳とバラのつぼみのような小さな唇。
――〈聖女〉とは、この少女のことをいうのかもしれない。
目の前に
あどけなさの残る可憐な美少女は俺たちに向かって小さく一礼して顔を上げると、何かに気づいたようにこっちに向かって駆け寄ってきた。
「刑事さんだったんですね。あの時はありがとうございました。あの、僕のこと覚えていますか?」
顔を引きつらせた若林に美少女が声をかけた。
驚いたのは俺だけではないはずだ。篠原や笹島があんぐりと口を開けて呆けているのだから。人並の感情表現を持たない田村は別として。
いやいや、今問題にするべきはそんなことではない。俺は若林たちに視線を戻した。すると美少女改め、美少年は再び憂い顔になり、「あの、姉の事件についてなんですが……」と口を開いた。
俺は彼の言葉に違和感を覚える。いや、もっと早くに気づくべきだった。佐伯美奈には失踪している双子の妹と祖母しか家族はいないはずだ。それに、美奈は世間一般でいう美人の部類には入るが、彼とはまるで次元が違う。
もちろん篠原たちも気づいていたようで、彼を長椅子に座らせるとそのことについて尋ねた。
「姉とは父親が同じなんです。僕は認知されていないので戸籍上は他人ですが。失礼しました。僕は、水島透といいます」
そう言って、水島は緊張をほぐすように大きく深呼吸をした。
俺は横目で隣に立つ若林を見る。若林は困惑した様子で水島たちのやり取りを眺めていた。
――まさか若さん、男もありですか。
俺の戸惑いに気づいたのか、呆れ顔の若林は俺の頭を軽く小突いた。
「そんな趣味はない」
「じゃあ、ナンパしちゃったんですか?」
「違う。男たちに絡まれていたのを助けただけだ」
そう言って若林は大きな溜め息をついた。
「……間違えたんですか? 女の子と」
若林は唇をすぼめ、「そうなの。俺の人生最大の汚点だ」と情けない声を出した。
若林は壁に寄りかかりながら、篠原と水島のやり取りを遠巻きに眺めていた。
「……通報もせずに逃げ出したりして……すみませんでした」
水島は深々と頭を下げた。
山口の車の前に飛び出してきたのは彼だった。それについては、彼が部屋に入ってきた時から誰もが気づいていたことでもある。
――水島透。市内の大学に通う学生で現場の近所に住んでいるという。
「ここ最近、姉の様子がおかしかったんです。それであの夜、僕……」
「美奈さんの様子がおかしかったというのは?」
「一週間くらい前から急に……何かひどく悩んでいる様子でした。理由を訊いても答えてくれなくて。それで余計に心配になって」
「何か思い当たることはありませんか?」
水島は首を振る。
「僕もその時期は忙しくて姉とあまり会っていなかったので。……すみません」
「そうですか。では、事件当夜について詳しく訊かせて下さい」
篠原がそう言うと、緊張した面持ちで水島は頷いた。
「あなたは何時頃、佐伯さんの家に行かれたのですか?」
「午後十時五十分頃だと思います。姉の家から歩いて十分ほどの所にあるバイト先から帰る途中、家のリビングの電気がついていたのが気になって……」
なるほど。だから深夜の訪問なのか。
若林は納得しながら、水島の手許をじっと見ていた。さっきからずっと、膝の上に置かれた左手親指のつけ根辺りを右手親指で擦り続けている。落ち着かないからか、それとも癖なのか。
「それでどうしましたか?」
「あ、はい。呼び鈴を鳴らしても応答はありませんでした。不安になって、僕は家に上がって」現場の状況を思い出したのか、水島は苦しげに顔を歪めた。「リビングのドアを開けると、姉が……」
「すると、玄関のドアには鍵がかかってなかったんですね?」
「……いえ、かかってました。あの、郵便受けの内側に隠してある予備の鍵を使って」
「あなたは佐伯さんの家の鍵を持っていなかったんですか?」
「はい。姉のいる時にしか行かないので必要ないと断ったんです。それで、予備の鍵を」
水島は苦しげに答えた。
「予備の鍵はいつものように郵便受けの中にあったんですね?」
「はい」
「そうですか。――失礼しました、続けて下さい」
篠原は唇に人差し指を当てながら低く唸った。
「慌てて、倒れている姉のもとへ……姉は頭から血を流していて……僕は」水島は呻いた。「助けもせずに……」
水島は前屈みになり、膝の上に組んだ両手に頭を乗せた。体が微かに震えている。
「大丈夫ですか?」
「は、い。すみません」
水島はその体勢のまま
「リビングに入った時、石油ストーブがどこに置かれていたか覚えていますか?」
水島はゆっくりと上体を起こした。そして眉間に深い皺を寄せ、記憶を辿る。
「姉はいつもストーブを窓際に置いていました。カーテンがあるから危ないと注意したら、ピアノが窓際にあるからここに置かないと寒いのよ、と姉は言っていました。……すみません、
水島は申し訳なさそうに答えると、再び親指のつけ根の辺りを擦り出す。
「他に何か気づいたことはありませんか?」
水島は力なく首を振る。
「そうですか。――家を飛び出したあなたは、車と接触しそうになったんですね?」
「……はい。あの、運転手の方は」
「無事ですよ」
水島は安心したように表情を和らげ、「そうですか。……よかった」と呟いた。
若林は山口の顔を思い出す。もし彼が、飛び出してきたのが男だと知ったらどんな反応をするだろう。それを考えると思わず
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