第7話
「おい、どうした?」
笹島が声をかけると、その警察官――どうやら交通課長のようだ――は顔を引き
講堂内が騒然となる。笹島に至っては「なっ」と声を上げ、その場に固まってしまった。
俺は田村と顔を見合わせる。もしそれが事実なら、その飛び出してきた女が事件に係わっている可能性が極めて高い。初動捜査時にその運転手にも話を訊いたはずだ。これは初動捜査を行った機動捜査隊と所轄署の失態と言われても仕方がない。
「なんで、今頃そんなことを言い出したんだ!」
笹島は顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げた。
「それが運転手は……その、人間とは思わなかったから黙っていたと言っていて」
今度は捜査員たちの間に「大丈夫なのか、そいつ」という空気が漂う。
「その運転手は薬でもやっていたのか?」
篠原が呆れたように尋ねると、「いいえ、前はありません。事故当時、飲酒していなかったのも確認しています。まして薬をやっていたのなら、うちの部下が見逃すはずありません」と交通課長はキッパリと否定した。
うちに落ち度はない、と言い張る交通課長を笹島は忌々しそうに睨みつけた。
「まだ署内にいるのか?」
篠原が尋ねる。
「はい。うちで待たせています」
「じゃあ、連れてきてくれないか」
篠原は頭を
講堂から出ていく交通課長を目で追っていると、「若、望月、田村ちょっと来い」と篠原に呼ばれた。
「望月たち地取りだろ。他の地取りの奴らはもう外に行っちまったから無線で知らせるとして、お前らだけでも当事者の話を聞いてその女について現場で聞き込んできてくれ」
「はい」
しばらくして刑事課の部屋に現れた山口は、居心地悪そうに長椅子に座るとキョロキョロと不安げに辺りを見回した。そして篠原と目つきの鋭い笹島が向かいに座ると顔を強張らせ、「す、すみませんでした!」と勢いよく頭を下げた。
「あの、女のこと黙ってたからここに連れてこられたんですよね?」
山口はおそるおそる顔を上げる。
「ええ。あなたにその女性のことを伺いたくて、こちらに来て頂いたんですよ」
篠原が穏やかな口調でそう言うと山口は頬を引き攣らせた。
「さっき、交通課のおまわりさんに飛び出してきた女の話をしたら、ものすごい勢いで怒鳴られたんですよ。偉い人まで出てくるし。あの、もしかして俺このまま逮捕されるんですか?」
お前が悪いんだろ、と言うように笹島は山口を睨んだが篠原は、「はは、逮捕はしませんよ。安心して下さい」と笑って否定した。しかし、山口はまだ不安そうに顔を強張らせていた。業を煮やした笹島が口を開きかけたのを篠原が制した。
「それにしても納車されたばかりなのに災難でしたね。車は大丈夫でしたか?」
篠原が尋ねると、「修理にかなり時間がかかるそうです。アレを手に入れる為に今まで頑張ってきたのに……」と山口は力なく答えた。
「車、いいですよね。私も車が好きでしてね。よく休日に乗り回してますよ」
篠原の車好きは本部でも有名だ。よく小林と愛車の話で盛り上がっているが、内容が専門的すぎて俺には何を言っているのかさっぱり解らない。
「そうなんですか? 何に乗ってるんですか?」
山口は引き攣った頬をわずかに
「RX‐7です」
「ああ、格好いいですよね。でも維持費、かなりかかりますよね?」
「ふっ」篠原は鼻で笑い、「この手の車に乗るのなら、それは織り込みずみのことでしょう? それでも難癖をつけるなら乗らなければいい」
「す、すみません」
山口はビクリと肩を震わせた。篠原を怒らせてしまったと思ったのだろう。
「まぁ、確かにこの車ほど燃費が悪く、メンテナンスを頻繁に必要とする車はないですね」篠原はニコリと微笑む。「でも気持ちいいですよ、本物のスポーツカーは。ロータリーについては言うまでもないですが、あの排気音は
気持ち良さそうに愛車について語る篠原に、笹島が咳払いをした。
「おっと、すみません。関係のない話を長々と申し訳ない」
そうは言うが、篠原に悪びれた様子はない。
「いえ、勉強になりました。刑事さん、本当に車が好きなんですね」
「ええ、その中でもFDは最高です。色々乗りましたが、あれを超えるものはないですね」
篠原が満足そうに言うと山口は羨ましそうに笑った。
篠原と山口が打ち解けているその隣で、笹島はずっと不機嫌そうにしていた。何、呑気に車の話なんかしているんだ、と思っているのだろう。山口の突然の証言のお陰で所轄署は面目を潰されたのだから、苛立つ笹島の気持ちも解らなくもない。
「さて。お手数ですが、事故当日のあなたの行動についてもお訊きしたいので、もう少しお付き合い下さい」
篠原の言葉に山口は急に顔色を変えた。
「俺、何もしてないですよ! 車で通っただけだし、殺された女性だって知らないし!」
自分が疑われているのではないかと山口は思ったらしく、興奮しながら長椅子から立ち上がった。
「落ち着いて下さい。あなたを疑っている訳ではありません。すべての関係者の方にお訊きしていることなのでご理解下さい」
「な、なんだぁ。脅かさないで下さいよ」
山口はホッとしたように長椅子に腰を下ろした。そして、だいぶ緊張もほぐれてきたのか
ディーラーから車を受け取ると嬉しさのあまり何軒かの友人宅に自慢して周り、その後、午後十時半頃まで緑区に住む会社の同僚と食事をしてから、東郷町に住む彼女の家に行く為にあの道を通ったのだという。初めて通った道だったらしく、竹林の脇に一軒だけぽつんと建つ佐伯美奈の家を不気味に思ったそうだ。その直後、女が飛び出してきて事故を起こしたらしい。
「その女性は、どこから飛び出してきたか覚えていますか?」
「事件のあった家の方からです。運転席側から突然飛び出してきたから、間違いないです」
自信満々に話す山口に篠原が無言で頷いた。
「飛び出してきたのはどんな女性でしたか?」
「それが、すっごく綺麗な女だったんですよ! 容姿端麗、眉目秀麗、八方美人、なんかこんな言葉ありましたよね。そんな感じです。あっ、でも
山口は興奮気味に
言いたいことは理解できる。いくつか用法が違うけれど。しかし誰もそれについて突っ込みはしなかった。
「判ってますよ」篠原は頷く。「何か他に特徴はありませんでしたか?」
「特徴、ですか? 一瞬だったしな。えーと、背は低かったと思います。あと髪は短かったかな。ジーンズを穿いていてTシャツ……だったような」
山口は頭を少し傾け、記憶を辿りながらぽつりぽつりと答える。どうも意識はすべて顔にいっていたようだ。
「では、その女性がどの方向へ逃げていったか覚えていますか?」
「えー、車のことで頭がいっぱいだったからなぁ。それに車から降りて辺りを見回したけど、もう影も形もなかったし。だから幽霊かと思ったんですけどね」
山口は肩を
幽霊って。篠原もさすがに苦笑いを浮かべている。その後もいくつか質問を続けたが、彼からはそれ以上の情報を引き出すことはできなかった。
「ありがとうございました。事故は災難でしたが怪我がなくて幸いでしたね。また何か思い出した時は報せて下さい」
山口は、やっと帰れる、と大きく息をついて立ち上がると、「ほんっと、災難っすよ。やっぱり神様なんていないんですね」と言って部屋から出ていった。
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