第17話 侵食

 二つの影が、地面に倒れ伏していた。


 Hatchetハチェットがその二つの影を見下ろし、警戒と達成感をないまぜにした感情を湛えていた。


「……やった……?」


 見下ろす影は、青年と少女のアバター。

 天才ハッカーのZilchジルチ-Zillionジリオンと、チーターのLiselotteリーゼロッテ-Lichtensteinリヒテンシュタイン


 彼ら二人のステータスを表すウィンドウは、どちらも戦闘不能を指していた。

 戦闘不能になってから60秒後、リスポーン地点への自動転送が開始され、二人のアバターが白い粒子となって風に運ばれていく。


「……やった……!」


 今度こそ、確信をもってHatchetハチェットが囁く。

 リスポーンしたならば、一定時間のデスペナルティが付与される。

 経験値の1%の喪失。100秒間の全ステータス低下のデバフ。そして――10分間のテレポート機能一時停止。


 一時停止されたテレポート機能を無理矢理使用するチートがあるかは分からないが、とにかくこれでLiselotteリーゼロッテが展開していたログアウト不可エリアから脱したはずだ。


 Hatchetハチェットがログアウトのコマンドを選び、10秒のカウントダウンが始まった。

 誤ってログアウトを選んだ際に、キャンセルができるよう設けられた猶予である。カウントダウンがあと5秒まで迫った時、異変が起こる。


 ――ヴゥゥン……。


 リスポーンされたはずの残影が、テレポートの演出と共に確固たる姿を形作っていく。


「っ……!」


 すっかり安堵していたHatchetハチェットが、そちらに向かって体を構える。


「お願い……早く……!」


 ログアウトの秒数が3秒、2秒と緩慢に感じられる。

 そして1秒まで迫った瞬間、完全に復元されたアバターがこちらに手を伸ばし、エンターを押す動作を行った。


 そのエンターと共に、Hatchetハチェットの耳に機械音声が流れる。


『ログアウトに失敗しました。Error Code 000188: Logout Failed / The logout process encountered an unexpected error on the server side.』


 先程聞いた覚えのあるアナウンスと共に、ログアウトのカウントダウンが消滅した。


「……まだ、わたしと戦うつもり?」


 Hatchetハチェットが冷たい声で、復元されたアバターに向かって発言する。


 そのアバターは青年の姿。

 Zilchジルチ-Zillionジリオンのものだった。


 Hatchetハチェットの態度とは正反対に、Zilchジルチは宥めるような、努めて柔い声で話しかける。


「引き留めてすまない。

 これ以上戦うつもりはないが、訊きたいことが二、三あって戻ってきた」

「どうやって戻ってきたの? まさか、テレポートを使用できるチートでもあるの?」


 Hatchetハチェットの揶揄じみた質問に、Zilchジルチが素直に回答する。


「テレポートを強制Forceで使用できるチートはない。

 ただ、ネットゲームの多くではロールバック機能がある。それをハックして俺のプレイヤーキャラクターだけに適用した」


 ネットゲームなどのデータを集積・処理するサービスは、データベースのトランザクションの記録を一定時間保持するようにしている事が多い。

 重篤なバグやサーバのダウン等、問題が発生した際には、その問題が起こる直前までデータを戻すロールバックが行われる。


 正式なロールバックは、当然、運営の手によって行われる。

 だがZilchジルチは、ロールバック用に準備された運営コマンドを割り出し、そのコマンドを誤作動させるセキュリティホールを突いた。

 サーバ全体をロールバックさせるようなものは流石に権限パーミッション上不可能であったが、GMゲームマスターが特定個人を救済する際に使うような特定プレイヤー用のロールバックコマンドは作動できた。


 そのコマンドを戦闘不能後に打ちこむことで、Zilchジルチは戦闘不能前の状態へと巻き戻ロールバックされたのだ。


「ロールバック」という単語だけで、ヴェインに長じているHatchetハチェットには通じた。

 Hatchetハチェットは一旦の納得をして、Zilchジルチの話を促す。


「それで、わたしに訊きたいことって?」

「再度の確認になるが、現界蝕者ファルシフィエルがヴェイン上で戦闘不能になれば、現実世界の自分も死ぬという事でいいんだな?」


 念を押すZilchジルチに、Hatchetハチェットが首肯する。


「ええ、そうよ」

「それならば、俺はお前からFact.leeファクトリーを奪わない」

「……へ?」


 Zilchジルチから、戦いの発端となったアイテムの放棄を宣言され、Hatchetハチェットの目が丸くなる。


「……Fact.leeファクトリーのことを諦めるの?」

「お前からFact.leeファクトリーを奪おうとすれば、無関係の人命を損なう事になる。

 俺はそれを避けたい。だが、諦めるのはお前の持っているFact.leeファクトリーを奪う事だけだ」


 Zilchジルチは真剣な目でHatchetハチェットを見据えた。


Fact.leeファクトリーの出処は知らないか?

 使用した経験のある現界蝕者ファルシフィエルなら、どこでどう手に入れたか、知っているか?」


 Zilchジルチから問い質され、Hatchetハチェットが頭を振る。


「直接は手に入れてないわ。

 わたしがFact.leeファクトリーを手に入れたきっかけは、まだVヴェインアイドルにもなっていない時のことよ。

 誰かも分からないプレイヤーから突然トレードを申しこまれて、断ろうとしてもエラーで『はい』しか押せなかったの。

 そのトレードで、こちらから何も差し出さずにいたら、向こうが無償でFact.leeファクトリーを出してきたのよ」

「……そのプレイヤーの名前は、覚えてるか?」

「覚えてもないわ。そのプレイヤーの名前欄、何もなかったもの」


 ほとんど手がかりのない答えを差し出すHatchetハチェット

 Zilchジルチは見るからに落胆し、彼女に対して深く頭を下げた。


「……迷惑をかけた身の上で、わざわざ答えてくれて申し訳ない。ありがとう。

 訊きたかった事はそれだけだ。あとはもう、ログアウトの妨害も何もしない」

「え? ……いいの?」


 数多のチーターを倒してきたハッカーが、殊勝に自身を見逃そうとする事態に、Hatchetハチェットが面食らう。

 ぽかんとするHatchetハチェットに、Zilchジルチが何かに気づいたように眉を上げた。


「……そうだな。俺がここにいるとログアウトするのも不安だろうな。

 今度こそ、俺はここから去る。この件の詫びといっては何だが、またチーターに会ったら、個人Whisperチャットで呼んでくれれば――」


 ZilchジルチHatchetハチェットを安心させようと何やら言い募っている所を見て、彼女がぷっと笑い出した。


「ふふっ、あなた、そんな性格で殺人鬼殺しキラーオブキラーズとか名乗ってるの?」


 Hatchetハチェットに笑われ、Zilchジルチが少し顔をしかめて否定する。


「名乗っていない。いつの間にか、そう呼ばれていただけだ」

「ふーん、そう。随分とお優しい殺し屋もいたものね。

 わたし、ハッカーに会ったのは2人目だけど、ハッカーっていうのはみんな親切なものなのかしら?」

「……単なる偶然だろう」


 つい、と顔を反らすZilchジルチに、Hatchetハチェットが近寄った。


Fact.leeファクトリー、欲しいんでしょ?」

「そうだ。だが、お前からは奪わない。そう言ったはずだ」


 笑われてつっけんどんにZilchジルチが反発すると、彼の目の前にウィンドウが開いた。

 トレードウィンドウだ。


「……大金は持ってないぞ」

「わたしにFact.leeファクトリーを渡された時と同じ値段でいいわよ」

「人を殺そうという人間には、渡せないものじゃなかったのか?」

「あなた、人を殺せるような性格じゃなさそうだもの」

「会ったばかりの人間を信用するのか?」

「わたし、人を見る目はあるつもりだから」


 謎に発生した押し問答に、Hatchetハチェットが言葉で押し切る。


「それに、そうやって問題点を突きつける事で、Fact.leeファクトリーの所有者であるわたしに『お前それで良いのか?』って確認しているんでしょ?

 これが悪人なら、四の五の言わずにトレードの『はい』を押してFact.leeファクトリーを持ってとんずらしてるわ」


 Hatchetハチェットがそう主張し、Zilchジルチは観念したように深くため息を吐いた。


「……後悔したとしても、返すつもりはない」

「返したところで、わたしはもう使わないもの」


 Zilchジルチがトレードウィンドウの「はい」を押し、Hatchetハチェット所有物インベントリからFact.leeファクトリーが消失する。

 彼の手元に、16進数と思しき表記が一面に書かれた紙が渡った。


「……情報にFact.leeファクトリー。二度も貰い受けて、恩に着る。

 だが、あいにく礼を尽くす時間がない。すまないが、ここで去らせてもらう」

「大丈夫よ。わたしも、色々と用事があるからね」


 Hatchetハチェットが手を振り、Zilchジルチは軽く会釈する。

 それで互いにログアウトのコマンドを打ち、今度こそ無事にヴェインから現実世界へと帰るのだった。


     *   *   *


 Hatchetハチェット/夜桜よざくらが現実世界へと帰還し、スマリで時刻を確認する。

 ヴェインにいた時間は20分ほどだった。


 夜桜がいるのは芋里鍾乳洞の近くの林道。静かな木々の葉擦れの音が響いている。

 その静けさ。もしや既にクラス交流会は別の場所へ向かっているのではと不安に駆られたが、直後に鍾乳洞の出口からぞろぞろと同級生たちが出てきた。


「――来たのは小学生以来だけど、案外楽しいもんだなー!」

「ライトアップとか、前は無かったもんね」


 口々に感想を漏らしつつ、20人あまりの同級生が出口でわだかまる。

 置き去りにされなかった事に胸を撫で下ろし、夜桜が彼らのもとへ駆け寄った。


「おかえりなさい、鍾乳洞はどうだった……?」


 夜桜が恐る恐る呼びかけると、群衆の中にいた青井あおい真凛まりんが笑顔で返す。


「キレイだったよ!

 カラフルなライトであちこち照らされてたから、暗くてコワいとかはなかった。

 もしかしたら、夜桜さんでも楽しめてたかもしれないけど……まあ、ムリはいけないよね」

「あはは……気を遣わせちゃってごめんなさい」


 苦笑いして、夜桜が頭を掻く。

 すっかり忘れていた。鍾乳洞に行かずにヴェインへ潜る方便で、自分は「暗いところが苦手」という事にしたのだった。


 真凛と他愛ない会話をする中で、夜桜は気になる事が一つ。


「そういえば……あの人だかりは何か知ってる?」

「ああ、アレねぇ」


 真凛が苦笑して、人だかりを指さす。


「あの中心に、零一くんがいるの」

「……遊木ゆうきさんが?」

「そうそう。もう大人気よ。

 鍾乳洞に来る前はもうちょっと物静かな性格だと思ったんだけど、いったん話し始めるとスイッチが入ったみたいに面白い話をしてくれて、とっても楽しい人だったわ」


 そう語る真凛の証言を裏づけるように、人だかりの中の声が漏れ聞こえる。


「――零一くん! 来週は楽しいバーベキューにしような!」

「鍾乳洞ってホントにライブ会場みたいに音響くのね! 遊木さんとカラオケ行くの超楽しみ!」

「遊木くんの知識量は凄いよ! 僕と一緒にクイズ部に入って高校生クイズ選手権目指さないか!?」


 聞こえるだけでも、零一が相当に慕われている事が知れる。


「え……な、何があったの?」


 夜桜が困惑しながら人だかりに駆け寄り、その中心部に零一を見つける。

 人だかりの隙間から零一の様子を見ると、目を丸くして夜桜に負けず劣らず困惑しているようだった。


 周囲から注がれる話題の洪水の渦中にあって、零一の迷う視線が夜桜の目を捉えた。

 それを助け船とするように、零一が人だかりを割って夜桜へと歩み寄る。


「夜桜さん、その……散策中、何かあったりしなかったか?」

「特になにもなかったけど――わたしは、遊木さんに何があったかの方が気になるな」

「いやその――あまり覚えてない」


 釈然としない零一の態度。彼の緊張を感じとると、夜桜の胸中からいつも通りの献身が湧き出る。


「遊木さん、鍾乳洞で話を聞けなくて残念だけど、これから色々話してくれると嬉しいな」


 零一は、夜桜の言葉で緊張がほぐれた様子で、自然な微笑が浮かんできた。


「あまり大した話はできないが……夜桜さんがそう言ってくれると、俺としても嬉しい」


 零一の気分が上向いた事を確認し、夜桜の心も弾んだ。

 二人の相好そうごうが崩れる様を見て、周囲にいる同級生から自然と温かな視線が集中する。


「――遊木さんと夜桜さんって、入学した頃から結構仲良いよね」


 お節介な女子生徒が、上がる口角を手で隠しながら指摘した。


「え、いや……その……」

「あの……そういうつもりじゃ……」


 互いに口ごもる零一と夜桜に、同級生たちがどっと歓声で湧く。

 ぬくまる雰囲気にこそばゆさを感じ、零一は話題を切るようにスケジュールを促した。


「……駐車場でたむろしていると他の人に迷惑だろうし、次の目的地に移った方がいいんじゃないか?」


 交流会の発起人であるしまに同意を求める視線を送り、島がそれを受けて大きくうなずいた。


「そうだね、零一くんの言う通りだ。

 それじゃ、またみんなタクシーに乗って、次の目的地である早見ダム行こうか」


 同級生たちは「はーい」と和やかに受け入れ、各自がスマリで自動運転のタクシーを呼び出していく。

 零一もまたアプリを立ち上げ、タクシーを呼び出そうとしているようだった。タクシーアプリを起動した直後、「学生の無料利用には認証情報が必要です」の案内が全面に出現する。


 夜桜は彼の横に行き、耳打ちをする。


「――このクラス交流会の最後の目的地って、知ってる?

「いや……知らない」

「あの、今は遊木さんとわたしは別の班になってるけど、

 最後の目的地に着いたら、遊木さんと一緒の班に混じってもいいかな?」

「別に、何も問題はない」


 零一からの返答を受け、夜桜が小指で鉤をつくる。

 空中と指切りをしながら、ささやかな契りを願った。


「破ってもいい約束。でも叶えて欲しい約束ね」


 零一もまた夜桜に倣い、指を絡ませずに指を切る。


「ああ。破るつもりはない」


     *   *   *


 芋里鍾乳洞を離れた後、田質でんしち町のあちこちの観光地を自動運転のタクシーで回る。

 早見はやみダムや紫銀しぎん滝を見て回った後、最後の目的地である照縫てりぬい公園に着いたのは日没の直後であった。


 照縫てりぬい公園は桜が名所であり、今の時期は花見の頃合いである。

 植えられた木々は薄紅色の化粧を厚くし、公園の歩道の両側には出店が立ち並んでいた。


 もうすぐ夜になろうという夕方18時30分前、門限のある一部の同級生は帰宅している者もいた。


「それじゃ零一! またな!」

「ああ、また」


 鍾乳洞の一件ですっかり仲良くなったらしい男子生徒と別れ、零一の班に一人の空きが出る。


 零一本人は、鍾乳洞で何があったかは全く知らない。

 何しろ、あそこにいた大部分の時間を、ヴェインでの騒動に費やしたのだ。現実世界の零一の振る舞いは、ハッキングAIであるPragmaプラグマに任せっきりだった。


 Pragmaプラグマをダウングレードして新調したばかりの状況である。自分自身の行動をトレースするFunctionファンクション:Doppelgängerデルタには不備が生じていた。

 零一の行動に対する学習モデルに不足があるのだ。クラウドに保存していたバックアップにはハッキングAIとしての必要最低限しか存在していなかった。零一の行動への学習モデルは使用していく内に自然復旧する為に省いていたが、その慢心が今日の一件で致命的な致命傷をもたらしたのだ。


 不足した学習モデルを外部のモデルで補完したのだろう。多く引用される優秀な人格者のモデルから補完したが故に、恐らく鍾乳洞での零一は完璧超人として振る舞っていたに違いない。

 しばらく同級生と過ごす内は、その人格者モデルの零一と実際の零一との擦り合わせが必要になってくるだろう。

 この先の苦労を思い、零一の口からため息が吐かれる。


 そのため息に、一人の女子生徒が反応した。


「――もしかして、色々連れ回されて疲れちゃった?」


 下から発せられた声に目を向けると、こちらを見上げる夜桜の目と合った。


 彼女の目を見て、零一の脳裏に「約束」がよぎる。

 零一は右手を少し掲げ、小指で鉤を形作った。


「いや、疲れてはいない。予定は大丈夫だ」

「そっか。それはとっても良かった」


 2人が小指の形で通じ合う中、零一の班の一員であるしまが、指を抜きに話を始める。


「あれ、夜桜さん、元の班は?」

「他の人たちはもう帰っちゃったから、寂しくて合流しようかなって」

「いいよいいよ! ちょうどこっちの班も一人抜けたから」


 零一の班に夜桜が加入すると同時に、島が胸に秘めていた提案を取り出した。


「そういえばさ、零一くんはポッポ焼きって知ってる?」

「知っている。新潟県だと、祭りの出店に黒糖パンが出るんだろう」

「よく知ってるね! アレ結構旨いんだよ。せっかくだし買って食べようよ」


 島の先導で班が動き、零一も倣ってついて行こうとする。

 しかし、腕に抵抗を覚えて立ち止まった。


 袖を引っ張る感覚。細やかな引き留めに応え、零一が振り返る。


 零一の服の袖をつかんでいたのは小さな指。

 夜桜が、零一を立ち止まらせていた。


「あの、遊木さん、LINKリンクの連絡先を交換しない?」

「え? ああ……別に良いが」


 夜桜と零一が互いのスマリをかざし、ピピッ、と電子音が鳴る。

 LINKリンクの連絡先を交換する為のアクションである。あとは拡張A現実Rで表示されるウィンドウのOKボタンを押せば、交換は完了だ。


 ウィンドウに表示されるのは、交換対象のプロフィール名。そこに表示される名前は――。


夜桜よざくら……満開まんかい?」


『ユーザー「夜桜満開」と連絡先を交換しますか?』の表示を眺め、零一が一人つぶやく。

 そういえば、夜桜の下の名前を知ってはいなかった。


 夜桜満開。およそ人名として読み下せない四文字をそのまま読む零一に、夜桜がくすりと笑った。


「そういえば、遊木さんはわたしのフルネームって知らないんだっけ?」

「その……すまない、初めて知った」


 良くしてくれる相手の名前の無知を恥じ入り、零一が頭を下げる。

 夜桜は手を振って、明るく受け入れてくれた。


「別にいいよ。わたしもちゃんと自己紹介してなかったし、知らなくっても仕方ないよ」

「気遣ってくれて、ありがとう。

『夜桜』という苗字にぴったりの、綺麗な名前だな。満開まんかい……でいいのか?」

「ううん。初めてわたしの名前を知った人はみんなそう読むけど、実は違うんだ」

「そうなのか。そうなると……どう読むんだ?」


 呼び方を訊ねると、夜桜は少しもったいぶって話を回す。


「わたしの名前ね、お母さんがつけてくれたんだ。

 お母さんからの、とっても素敵なプレゼント。わたしも、わたしの名前が大好きなの」


 自分を抱きしめるように腕を回し、夜桜が目を伏せる。


 ざあ、と花嵐からんが吹き、地面に散った花弁が舞い上がった。

 視線がその花弁の軌跡を辿り、林立する桜の万朶ばんだに花隠れする。

 桜たちは枝を伸ばし、花を誇り、かそけき輝きを夜空に浮かべていた。


 夜の桜にはなが満ち開く。彼女の名を表すような美しい風景に、零一が息を呑む。


夜桜よざくら満開みはる

 満開まんかいと書いて、満開みはる。それがわたしの名前」


 満面の笑みで自分の名前を開き、夜桜が笑いかけた。

 零一もまた呼応し、微笑を浮かべる。


「本当に、良い名前だな。……夜桜よざくら満開みはるさん」


 LINKリンクのOKボタンを押し、零一の記憶と記録にその名前が刻まれた。


     *   *   *


 照縫公園で同級生たちと花見をし、屋台を見て回り、ベンチでたこ焼きやベビーカステラを分け合い食べ合い、夜の20時になる直前で交流会の解散と相成った。


 一人でタクシーに乗り、広く思える空間に一抹の寂しさを覚えながら帰路に着く。

 揺れる社内の中で、零一が窓の外の漆黒を見つめながら今日を振り返った。


「――疲れる一日だった」


 クラス交流会に、Fact.leeファクトリーの争奪戦。


「だが、充実していた」


 バッティングした時はどうなるかと肝を冷やしたが、終わってみれば遥かに実りのある一日だった。

 人を殺す事もなくFact.leeファクトリーを手に入れ、クラス交流会も表面上は何事もなく終える事ができた。


 しかし――。


現界蝕者ファルシフィエルをヴェイン上で殺せば――現実世界でも殺される」


 言って脳裏に思い浮かべるのは、かつて襲ってきたFlareフレア-Sunbringerサンブリンガーの影。

 彼はFact.leeファクトリーを使用し、現界蝕者ファルシフィエルとなった。

 そのヴェイン上の彼を殺したのは――。


「…………」


 零一が手のひらを広げ、目線を落とす。

 正真正銘の人殺し。背筋を節足動物が這い登るような嫌悪感が、遅効性の自覚として苛んだ。


 相手の所業が何であれ、このような感情を抱くのか。

 言ってみれば復讐の予行練習とも言うべきか。この罪悪感をこれからも抱くのだと知り、街灯一つもない無明の夜闇に心情を揺蕩たゆたわせた。


 沈痛な思いに浸る零一の耳に、LINKリンクの能天気な通知音が鳴る。


「……?」


 スマリを起こして通知欄を見ると、「夜桜満開」の四文字が零一の瞳孔を照らした。


LINKリンクの交換ありがとうございます。とても嬉しかったし、今日の出来事も全部楽しかったです。月曜日はまたよろしくお願いします』


 零一の夜闇に、一つのあかりがともる。

 返信の内容を未読状態のまま考えている内に、タクシーがアパートの前で停車した。


 零一の座席のドアが開き、スマリで学生無料の清算を済ます。タクシーのモーター音を背に、零一はアパートの敷地を縦断して居候先の107号室へと向かった。


 その途中。村雲むらくもがミチバシリ運輸の荷物を前に困惑している様を見て、零一が駆け寄った。


「それ、俺の荷物ですか?」

「いや、オレ宛ての荷物みたいなんだが……心当たりがないんだ」


 首をひねる村雲に、零一の頭に疑念が浮かぶ。


「送り付け詐欺ですかね」

「そうかもしれない。

 だから、受け取り拒否をしようとしてるんだが……口頭で言ってもロボットが聞かないんだ」


 脳内マイクロチップ「インプラント・サーキット」。スマリと連携して多種多様なサービスに認証情報を渡せるようになる精密機器。

 だが、その機器を使用していない村雲は、ロボットの受け取り認証と上手く付き合えていないようだった。


「役所に声紋登録はしているんですか?」

「しているはずなんだが……民間のサービスと食い合わせが悪いとかはあるのかな?」

村雲清むらくもしん様、受け取りをお願いいたします』

「いや、ちゃんと村雲さんの名前を呼んでいるなら認証は通っているはず。ならなんで拒否ができないのか――」


 零一がその先を言い淀む。


 危険性。零一が抱える夜闇から這い出てくる悪寒が、Pragmaプラグマに秘密裏に分析を走らせた。

 無線の発信。不相応な通信量。その通信の内容を解読するより前に、零一の第六感が叫ぶ。


「村雲さん、すみません!」

「えっ!?」


 零一は許可を取る時間も惜しみ、ロボットが所持している荷物を蹴り飛ばした。

 刹那。


 ドンッ!


 荷物から閃光があふれると共に、爆発音が空間を割る。


「な、何だっ!?」


 村雲から驚愕の声が上がる。

 荷物の残骸がアパートの敷地で煙をくすぶらせていた。


「……零一くんが咄嗟に蹴ってくれなかったら、大ケガになっていたかもしれないな。

 ありがとう。でも、どうやって中身が爆発物だってわかったんだ?」

「いや、俺も知らなかったです。ただ、嫌な予感がして……」


 燃焼の痕を見せる段ボールを見つめ、零一の第六感がとある単語を思い浮かべる。


 曇天の黒シュヴァルツヴォルケン


 青井真凛を襲い、零一のPragmaプラグマを燃やしたFlareフレア-Sunbringerサンブリンガー

 Fact.leeファクトリーの強奪を図った、《リーゼロッテ》-Lichtensteinリヒテンシュタイン


 彼らは同じギルドに所属し、そして彼らはFact.leeファクトリーを求める行動を取っている。

 現界蝕者ファルシフィエルに至る鍵。そして、現界蝕者ファルシフィエルとなった人間はヴェインから現実へとスキルを反映させられる――。


 段ボールから覗く電子機器を見て、その手法にFlareフレアとの類似性を認めた零一が、確信に近い推測を抱く。


 これは警告。

 度々彼らの妨害をしてきた零一Zilchへの復讐の狼煙。


 現実世界へと侵食したヴェイン上の悪意。

 零一は、そのギルドへの敵対を明確に意識した。

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キル・ヴァーチャル・キル @NEVAR-evol

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