応援コメント

理由」への応援コメント

  •  前回に引き続き、文章についてコメントさせていただきたいと思います。
     今回は原文を引用した後、→「 」で修正案を示す際に、変更箇所を見やすくするために【 】を用いました。

    「俺は根に持ってしまうタイプの人間だということは誰よりも知っているのだが今回ではっきりできた」
    →「俺は根に持ってしまうタイプの人間だということは【、】【俺自身が】誰よりも知っているのだが【、】今回ではっきり【した】」
     最初の「俺は」に対応する述語は「人間だ」であり、これらを含めてより大きな主語節「……ということは」が形成されている状況なので、そのままだと「知っている」に対応する動作主が何か分かりづらくなります。そのため、ここでは「俺自身が」と明記するのが良いでしょう。

    「もうこいつとは縁という縁を切ってやると。」
    →「もうこいつとは縁という縁を切って【やる。】」
     原文末尾の「と」は引用で、素直に読むなら、直前の動詞「はっきりできた(→はっきりした)」に対応することになります。ですが、「もうこいつとは縁と縁を切っているとはっきりした」では意味が通りません。この場合、原文の末尾から「と」を削れば問題解決です。

    「思い出したら腹が立ってしまうが嫌な事は一年たっても覚えているので仕方なく機嫌が悪い」
    →「思い出したら腹が立ってしまうが【、】嫌な事は一年たっても【忘れられない】ので【、】【仕方がない】」
     英語の場合、rememberは「覚えている」と「忘れない」のどちらにも訳せますが、今回の場合は「思い出したら腹が立ってしまう」とあり、「思い出したくない」という文脈なので、「覚えている」よりも「忘れない」のニュアンスの方が近いと思います。修正案では、さらに可能の助詞「られる」を付けて「忘れられない」としました。
     原文末尾の「機嫌が悪い」は、「(思い出したら)腹が立ってしまう」の部分と情報が重複しているので、修正案では不要と判断しました。

    「その昨日言われた言葉があったから無性に怒りが洪水している」
    →「【昨日】【そんなことを言われてから】【、】【 】怒りが洪水している」
     直前に「ベースってさ、地味だし……」という台詞があり、これが強調されているので、「その昨日」ではなく「そんなことを」が適切です。「言われた言葉があった」は同じ漢字が使われていることからお分かりのように、部分的に情報が重複しているので、シンプルに「言われた」だけで良いです。「昨日そんなことを言われてから」で、動作の時間的な起点を表します。原文には「無性に」とありますが、理由ははっきりしているので、これは削るのが良いと思います。

    「ならあんたのゲームだって将来なんも役に立たなくないと思ったがここで言ってしまうと同じ土俵に上がてしまい俺自身でつまらない人間ですとレッテルを張ることになるので我慢した」
    →「ならあんたのゲームだって【、】将来なんの役にも立たなくない【? 】と思ったが【、】【そんなことを】言ってしまうと同じ土俵に【上がって】しまい【、】【俺はつまらない人間です】と【宣言しているようなものになる】ので我慢した」
     原文「なんの役にも立たなくない」だと単なる否定文になってしまい、意味合いがずれますが、「?」を付ければ解決です。Web小説では守られていないことも多いルールですが、「!」「?」の直後、 」が来ないなら、文中であっても1文字分の空白を作ることになっています。

    「しかし今日の言葉で我慢していた感情が一気に放出された」
    →「しかし今日の言葉で【、】我慢していた感情が一気に放出された」

    「自分自身で怒りを何とかしようと努力したが寧ろ逆効果になった」
    →「【俺は】怒りを何とかしようと努力してきたが【、】寧ろ逆効果になった」

    「法がなければ一発ぶん殴りたいとさえ思ってしまった理由は当たり前のように涼しい顔を続けているからだ」
    →「法がなければ一発ぶん殴りたいとさえ【思った。】【やつが】当たり前のように涼しい顔を続けて【いた】からだ」
     修正案「やつが」は僕が勝手に考えたものです。日向さんが逸志さんを指して使う三人称が決まっているなら、そちらを使ってください。

    「そして俺がとった行動はひたすらに相手にしないということだった」
    →「【 】俺がとった行動は【、】ひたすらに相手にしないということだった」
     順接の接続詞「そして」は入れても間違いにはなりませんが、くどい印象や回りくどい印象になるので、削れるときは削るように心掛けた方が良いです(これは小泉十三氏の『「頭がいい人」と言われる文章の書き方』という本に書いてあったことです)。

    「まだ自分の事を弄っても多少なりとは水に流せていたが、自分の大好きな事になると話が変わってくるらしい」
    →「【俺自身】の事を【多少弄られるだけなら】水に【流せた】が、【俺が】大好きな事になると話が変わってくる【 】」
     「弄る」の動作主が逸志さんである都合で、原文のように「自分」と書くと誰のことか分かりにくくなるので、はっきりさせるために「俺」と書いた方が良いと思います。ネットによると「水に流す」は「過去の出来事や問題を忘れてしまう、またはそれを許すという意味」とのことで、「禍根や怒りをきれいさっぱり忘れる」という意味合いでしょうから、「多少」と付けると矛盾します。文意を汲み取るなら、「多少」は「弄る/弄られる」の部分に付けるのが正確だと判断しました。

    「いつかこの怒りがなくなったら普通に話してみようか」
    →「【ただ、】いつかこの怒りが【収まったら】【、】【また】普通に話してみようか【とは思っている】」
     直前の文で、「俺が大好きな事を弄られると水に流せない(=怒りが収まらない)」という話をしていたので、まずは逆接の接続詞を置きます。とはいえ、「だが」、「しかし」などではニュアンスが強くなりすぎるので、修正案では「ただ」を用いました。本文は一人称による語りなので、独白をそのまま書いても良いのですが、今回はまだ怒りが収まっていない状況で、「怒りがなくなったら(→収まったら)」と仮定しているわけですから、「普通に話してみようか」ではなく、「普通に話してみようかと思っている」と、構想の話だというのが分かりやすい書き方に落ち着かせるのが良いと思います。

     最後に、本文に修正案を反映させたものをまとめて載せておきます。


    ――――
     今日という今日は頭にきた。それはこないだの事が原因だとはっきりと分かっている。俺は根に持ってしまうタイプの人間だということは、俺自身が誰よりも知っているのだが、今回ではっきりした。もうこいつとは縁という縁を切ってやる。思い出したら腹が立ってしまうが、嫌な事は一年たっても忘れられないので、仕方がない。

    「ベースてさ、地味だし。役に立たないよね。」

     昨日そんなことを言われてから、怒りが洪水している。ならあんたのゲームだって、将来なんの役にも立たなくない? と思ったが、そんなことを言ってしまうと同じ土俵に上がってしまい、俺はつまらない人間ですと宣言しているようなものになるので我慢した。しかし今日の言葉で、我慢していた感情が一気に放出された。俺は怒りを何とかしようと努力してきたが、寧ろ逆効果になった。法がなければ一発ぶん殴りたいとさえ思った。やつが当たり前のように涼しい顔を続けていたからだ。俺がとった行動は、ひたすらに相手にしないということだった。俺自身の事を多少弄られるだけなら水に流せたが、俺が大好きな事になると話が変わってくる。ただ、いつかこの怒りが収まったら、また普通に話してみようかとは思っている。
    ――――


     長文失礼しました。
     このコメント自体に誤字脱字があったらすみません。
     前回言い忘れましたが、ご要望やご質問があれば遠慮なくおっしゃってください。