第20話 千歳と蒼井

 目を覚まして真っ先に目に飛び込んできたのは真っ白の天井だった。

 首を捻ればカーテンが見えた。カーテンの色は薄いピンク色。

 一先ず、身体を起こす。

 それから自身の格好と周囲をもう一度確認する。


 上着はカッターシャツ。どうやら制服のままだ。

 そして、俺が寝ていたのはベッドのようだ。このベッドには見覚えがる。

 同様に清潔感のある床の木目のタイルにも見覚えがあった。

 周囲の確認が済んだところで、ベッドから降りる。

 そして、カーテンをずらせばそこには白衣を着た妙齢の眼鏡をかけたポニーテールの女性がいた。


「あ、目覚めたんですね」


 ニコニコと笑顔で俺に話しかけてくる女性、それは養護教諭の月代先生だった。

 これで確信した。やっぱり俺は保健室にいるようだ。


「気分はどうですか?」


 俺の方に歩み寄りながら、月代先生は朗らかに問いかける。


「問題ありません。あの、何で俺は保健室で寝てたんですか?」

「私にも分かりませんよ。突然運ばれてきたんですから。でも、話を聞いた限りだと下駄箱の前の廊下で倒れてたみたいですよ。脈拍、呼吸共に正常だったので、寝不足じゃないかなぁと思います。若いからって睡眠をおろそかにしてはいけませんよ」


 メッ、と人差し指で小さな×を作る月代先生。

 大人の女性の包容力を感じさせる穏やかな話し声に、時折見せるさっきのような可愛らしい仕草。

 流石は我が学園の人気ナンバーワン教師である。俺も少しドキッとしてしまった。


「一応、覚えているところまででいいので何があったかだけ聞いてもいいですか?」

「あ、はい」


 月代先生に問われたことに答えようと思い、倒れる前のことを思い出す。


 確か、黄島と先生が言い合いしているところを見かけて、それで、黒沼先輩に出会って……うん? そっから、どうしたんだっけ?

 どうにもよく思い出せない。

 仕方ないので、月代先生には分かる部分だけ話した。


「そうですか。それじゃ、教室に戻っていいですよ。あ、君をここに連れてきてくれたのは美藤君だから、美藤君にはお礼を言った方がいいですよ」

「分かりました。ありがとうございました」


 月代先生に頭を下げてから保健室を後にする。

 保健室を出る間際に時計を確認したが、既に午後の二時だった。昼休みの終わりが午後の一時過ぎだから、およそ一時間程度俺は寝ていたことになる。

 記憶が曖昧なことに疑問を感じつつ、授業中の教室に入る。

 授業担当の先生には俺が保健室にいたことは伝わっていたようで、特に何事もなく教室に入れた。

 だが、教室内の啓二と花恋の席が不自然に空いていることが少し気になった。


 放課後になり、俺は席を立つ。

 向かうは啓二の席だ。お礼はきちんと伝えなくてはならない。

 ちなみに、啓二と花恋はいつの間にか教室に戻って来ていた。いつ戻って来たかはよく分からないが、戻って来たなら特に問題はないだろう。


「啓二、昼休みはありがとな」

「あ、春陽。う、うん。大丈夫だった?」

「おう。それにしても、昼休みに何があったか思い出せないんだよな。啓二は何か知ってるのか?」

「えっと、ごめん。僕もあんまり知らなくて……下駄箱の前に行ったら春陽が倒れてたからびっくりしたんだよね」

「そっか。まあ、何にしても助かった。本当にありがとう」


 啓二の顔は何かを誤魔化そうとしているようにも見えたが、気にしないことにした。

 啓二に改めてお礼を告げて、鞄を取りに自分の席へ戻ろうとする。

 だが、その俺を啓二が引き留めた。


「ちょっと待って!」

「ん? どうした?」

「あのさ、このあと花恋と一緒に黄島さんに会いにいこうと思ってるんだ。だから、春陽も付いてこない?」


 啓二の誘いに対して、俺は少しだけ考え込む素振りをしてから首を横に振った。


「悪いな、今日はちょっと行きたい場所があるから遠慮しとく。黄島に合うなら、よろしく伝えといてくれ」

「本当にいいの?」

「おう。それじゃ、またな」


 念押しするように問いかける啓二に返事をしてから、自分の席に戻る。

 そして、鞄を持って教室を後にした。



***



 教室を後にした俺が来た場所は生徒会室だった。

 一昨日、半ば喧嘩別れのような状態になってしまった蒼井に会うためである。

 部屋の扉をノックすると、直ぐに「どうぞ」と返事が返って来た。


「おっす」

「……千歳君?」


 軽く手を挙げて、部屋に入る。

 蒼井は生徒会室の掃除をしていたのか、机の上には布巾があった。

 来訪者が俺であることに気付いた蒼井は息を吐いてから布巾を手に取り、机の上を拭き始める。


「考え直してくれたの?」


 視線はこちらに向けずに蒼井が問いかける。

 やはり一昨日のことをしっかりと覚えているようだ。


「悪いけど、やっぱり花恋は諦めるつもりでいる」

「……そう」


 どこか寂しげな表情で机を拭く手を止める蒼井。

 変わらず彼女がこちらに視線を向けることは無い。


 この間は聞けなかったけど、やっぱり違和感がある。

 どうして蒼井が俺の花恋への恋を応援するのだろうか。今日はそれを聞きに来た。


「なあ、なんで蒼井はそんなに俺のことを応援するんだ?」

「素敵な恋をしている人を応援したいと思うことはおかしいかしら?」

「別におかしくないと思うけどよ、蒼井は花恋の友達だろ。普通、花恋のことを応援するんじゃないのか?」


 俺は花恋の思いを直接聞いたわけではないが、それでも花恋が啓二に好意を抱いていることは容易に予想が出来る。

 そして、その傾向はこの数か月でより顕著に見られるようになった。

 それなのに、蒼井が俺を応援していることが不思議で仕方ない。蒼井が啓二のことを狙っていて、花恋が邪魔だと思っているなら俺を応援する理由にも納得だが、それは無いだろう。


 俺の質問を聞いた蒼井が顔を上げる。それに伴って透き通るような空色の瞳が真っすぐ俺を射抜く。


「千歳君はさ、花恋のことはよく見えてるわよね」

「ん? ああ、まあ」

「でも、それ以外の人はちゃんと見えてないのよ」

「いや、見えてるぞ」

「花恋を通じて、ね」


 蒼井の言葉に思わず詰まる。

 そういえばこの間も黄島に似たようなことを注意された気がする。

 花恋を通して人を見るな、だったな。


「千歳君にとって私も黄島さんも花恋の友達。そう思ってるでしょ?」


 否定は出来なかった。

 実際、俺はそう思っていた。今がどうかと言われれば黄島は違うかもしれないが、蒼井についてはまだ花恋の友達というのが一番しっくりくる。


「千歳君は花恋と私が仲良くなってなかったら、きっと私なんかに話しかけないわよね」


 これも否定できなかった。

 黙る俺を見て、蒼井がフッと息を吐く。そして、僅かに視線を下げた。


 どうしてそんな反応をするのだろう。

 蒼井は花恋関係なく俺と仲良くしたかったとでもいうのだろうか。


「蒼井は違うのか?」

「どうかしら。でも、きっと花恋がいなかったら私とあなたは知り合っていないと思うわ。私に話しかける勇気なんてないもの」


 自嘲気味に笑みをこぼす蒼井。

 その表情は憂いを感じさせるものだった。


「……本当、自分のことばかりで嫌になるわ」


 蒼井はそう言ってから、再び顔を上げた。


「一昨日のことは忘れて。あなたがどう生きるかはあなたの自由よ。あなたが花恋を諦めて、花恋と距離を置くようになっても私にそれを止める権利なんて無いわ」


 微笑みながら蒼井はそう言った。そして、直ぐに生徒会室の掃除を再開した。

 窓から差し込む夕日が作る影のせいで、蒼井の表情はよく見えない。ただ、キュッと固く結ばれた口だけはよく見えた。


 結局、蒼井は俺の問いには答えていない。

 ただ、蒼井の表情だけが俺の頭の中をぐるぐると回っていく。

 分からないことだらけの中で、分かることは俺がやりたいことだけだった。


「蒼井、これ」


 蒼井の前にスマホを差し出す。その画面にはいつかと同じで、俺の連絡先が乗っていた。


「これは……」

「蒼井の言っていることは殆ど間違ってない。でも、俺と蒼井は知り合ったんだ。だから、これからは花恋とか抜きにして仲良くなりたいと俺は思う」


 それは一昨日言えなかった言葉だった。

 花恋を諦めると決めたからこそ、花恋抜きで蒼井と関わっていく。

 花恋を諦めることは俺にとって新しい人生を歩むことと言い換えてもいいのだから。


「千歳君……」


 俺の言葉に蒼井が目を見開く。それから、真剣な表情になり俺のスマホを手に取った。


「校内では電源を切らないとダメじゃない。校則違反よ」


 生徒会長らしく蒼井はそう言った。


「え……? あ、いや、それはそう! それはそうだけど、今はよくない?」

「私は生徒会長なのよ。流石に見逃すわけにはいかないわ。だから、これは没収します」

「まじかよ」


 俺のスマホをポケットに入れる蒼井。

 何ということでしょう。仲良くなろうという俺の思いは校則違反というルールの前にあっさりと風に吹かれて飛んで行ってしまった。

 まあ、蒼井が正しいんだけどね。


「返して欲しい?」


 肩を落とす俺に蒼井が問いかける。


「そりゃ、まあ」

「なら、校則違反の罰として奉仕作業をしてもらおうかしら」

「奉仕作業?」

「ええ。一緒に生徒会室を掃除してくれる?」


 蒼井が問いかける。

 日の当たり方が変わったせいか、それとも別の理由があるのか、蒼井の表情はさっきよりずっと明るく見えた。


「分かった」


 蒼井が微笑む。

 その笑みを見て、心がスッと軽くなる。

 その理由の中には花恋の友達が元気になったからというものが少なからずある。

 黄島の時だってそうだった。

 だけど、それ以外の思いが無いと言えばきっと噓になる。


 その思いにちゃんと目を向けなきゃいけない。

 目の前の空色の髪を揺らし、「……よかった」と呟く少女を見て、心からそう思った。

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