澄花と司 編

司は澄花に好かれている

ひとつ疑問に思ったことがあるだろうか。


自室のベッドに横になり、そのままいつものように眠りに着いて、そうして朝を迎えて初めて感じる違和感を。


自分しかいないベッドで寝ているはずなのに、隣から静かに寝音が聴こえてくる。


ベッドが沈み、布団の中に知らない空洞が生まれ、薬指に包まる温かな存在を自覚する、そんな異質感を変に思わないだろうか。


目を閉じているせいか、より敏感になった嗅覚が教えてくれる花の香り。


ふわりと覗かせて鼻腔をくすぐる魅惑的な匂いに耐えきれず、俺はようやく朝を迎えた。




「なんでいる……?」




目覚めてすぐ、第一声がそれだった。


小さい吐息を立てて、俺の隣で寝ている澄花。


その異常感に堪らずツッコんでしまった。




「すぅ―……すぅ―……」




そんな俺の声などつゆ知らず、澄花は穏やかな表情で寝音を立てている。


安心しきったように無防備で、横向きになって小さく包まる様子はまるで赤ん坊のよう。


間近で見続けていても、一向に起きる気配はなかった。




「おい、なんで俺の部屋で寝てんだよ。メイド服で布団被ったら毛糸が纏わりつくだろ……」




肩を揺らして目覚めを促すが、覚醒までには至らない。


「ん……」という声と共に澄花が仰向けになり、再び深い眠りに着いてしまった。


普段は起こされる側なのに今の立場は真逆。どうしたものかと俺は悩んでしまう。




「このまま……ってわけにはいかない、か」




時計を見ると、もう卯の刻を終えようかという時刻。


給仕中であるはずの彼女がこうして現を抜かしていては、他の使用人に足元をすくわれてしまうのではと心配になる。




「…………」




そうだ、このままではきっと澄花が不幸を受ける。それはとても心配だ。


これは澄花のためを想ってのこと、決して欲に負けたわけではない。


客観的に見ても問題ないといえる。だから、大丈夫だ。




「…………澄花、起きないと悪戯しちゃうよ?」




できるだけ近づいて、隣で寝ている彼女の耳元にそう囁く。


一瞬ピクリと動いた気がしたが、多分気のせいだ。俺は気づいていないふりをする。


そして火照った耳元へ右手を添え、彼女の体温を感じながら、ゆっくりと顔を近づけていく。


僅かに力の籠る眉から緊張が伝わってくるが、俺は気づいていないふりを続行する。


固く結ばれた唇を捉え、ゆっくりと、でも確実に近づく。


そして――――――








「…………ぅん?」




困惑したのか、澄花は少しずつ目を開ける。


温かくも甘美な味を受けるはずが、口元に触れるものの正体に彼女は違和感を覚えたのだろう。




「やっぱり寝てなかったか」




人差し指を離し、俺は悪戯な笑みを浮かべる。


顔を近づけるふりをして、さり気なく人差し指を唇の添えたところ、それがものの見事に成功。


澄花は騙されたことにすら気づかず、指先を味わうように唇で挟みながら甘噛みをしてしまっていたのだ。




「最低」




こちらをじっと睨みながら悔しさを露わにする澄花。


怒らせてしまったかと一瞬狼狽えるも、その間に彼女は再び目を瞑って無防備を曝け出す。


片目を僅かに開けて、こちらを伺うように寝音を立て始めた。




「ったく……、分かったよ」




ため息混じりに了承するが、何も本気で嫌がっているわけではない。


むしろその逆、不貞腐れながらに甘えてくる彼女に惹かれてしまう自分がいる。


何度この瞬間を迎えたか分からない。でも、確実に以前よりも彼女を好きになっているのだと心が教えてくれる。


抱きしめたくなる足早な気持ちをどうにか抑え、俺は澄花の要求に応じた。




「これで許してくれる?」


「…………許す」




そう言うと、澄花は瞳を開かせる。


目と鼻の先で交わる視線に取り憑かれ、思わず魅入ってしまう。


しかし我慢。今はひとつだけ、彼女に訊きたいことが。




「ーーーで、なんで俺の隣で寝てたの? こんなこと今までなかったのに」




俺が尋ねると、澄花は両指をもじもじさせて呟く。




「だって……朝だから早く起こさなきゃと思って司の部屋に行ったら、司がまだ寝てたんだもん。すごい気持ちよさそうな寝顔だったから、いま起こしたら司に悪いし、だったら添い寝しようかなって……」


「いや添い寝って……、起こしたくないなら少し時間を置いて来ればよかったのに。ほら、朝は忙しないから他にもやることがあるだろうし」




使用人の給仕内容を熟知しているわけではないが、朝の獅童邸内は平時に比べて慌ただしい印象を受ける。


起こしてもらっている手前こんなことを言える身分ではないけど、俺に時間を使うよりも他の給仕を済ませた方が能率的なのではないかと思うほどに大変さが伝わってくる。


なのに俺が目覚めるまでずっと待ち続けるだなんて、どうしてそんな非効率なことを――――――




「あれ? そういえば、俺が目覚める時って必ず澄花が部屋にいる気がする」




当たり前になっていて気づかなかったが、いざ振り返ってみると、澄花は俺が起床する瞬間を示し合わせたようにベッド横で迎えるようにして立っていることが常だった。


その疑問を投げかけると、澄花は気まずそうに目を逸らして答える。




「そ、その……ずっと寝顔を眺めて、た……、司がかっこよかったから……」


「な―――……!?」




何だこの可愛い生き物は!?


俺が寝ている間、澄花はずっと俺に見惚れていたというのか!?


ああ、どうして俺は寝てしまっていたのか。彼女と見つめ合う機会なんて早々ないのに……




「そんなまじまじ見ないでよ……、恥ずかしい……」




澄花にそう言われ、脳内の阿鼻叫喚に惑わされながらも上体を起こす。


ごめんと謝罪するのが精一杯で、まともに目が合わせられなくなってしまった。


でも、それは仕方ないだろうと自らに言い聞かせる。


俺が寝ているベッドの隣で添い寝をし、噓をつくことなく本心から恥じらっている澄花。


彼女がこんなに素直になるだなんて、少し前の自分だったら到底信じられない事実だった。




「もう起きる……」




そう言うと、澄花は足早に立ち上がって背を向ける。


彼女が眠っていた箇所には残滓のように残り香が舞っていた。




「スカートに毛糸ついてる」


「うるさい、いちいち言われなくても知ってるから」




俺がさり気なく指摘すると、背中越しの彼女は拗ねながらも返事をする。


メイド服についた毛糸を丹念に取り払い、次いで長い髪をゴム紐で束ねる様子。


次第に隠れていたうなじが露わになり、いつもと違う一面を垣間見てしまうが、見てはいけないものを見てしまった気がして俺は再び目を背ける。




そうして訪れる沈黙の時。布の擦れる音が彼女のいる方から聴こえてくるだけだった。




「…………」




恥ずかしさと気まずさが同時にやって来て、俺はベッドの上で身を竦めることしかできない。


それが嫌だというわけではない。背中がこそばゆくなって、少しだけ気持ちが上の空になってしまうような感覚だ。


嬉しいのは間違いない。でも、その理由として一つだけまだ腑に落ちない点が、くすぐったくも身をよじらせてくる。


まるで澄花が俺に気づいてほしいことが残っているかのように、いつまでも淡い残り香が存在を醸し出していた。




「ーーーまだ、分からないの?」




静寂を押し出す澄花の言葉。


それを聴いて初めて、俺はようやく腑に落ちる。


俺が振り向くと、澄花は背中を向けたまま、でも少しだけいじらしそうに視線を送っていた。




「タメ口……」




いつもと違う、敬語を使わない彼女。


しかし、二人でいる時ですら砕けた口調を拒否していた彼女なのに、これはどういった心境の変化なのだろうか。




「いいのかよ、またバレて家出なんてシャレにならないぞ」


「あ、あの時はバレるのが怖かったから……もちろん今もまだ怖い」




そこまで答えると、澄花は「けど」と付け加えながら、こちらへと表情を見せる。


ポニーテールな髪型を覗かせ、上目遣いに笑みを綻ばせながら、彼女は言葉を送った。




「ーーーけど、守ってくれるんでしょ?」




悪戯な口調で話す澄花はとても楽しそうに挑発する。


その姿に見惚れ、また心が揺れる。




「あ、いま私に見惚れてたでしょ。顔赤いもん」


「う、うるせーよ……! 別にそんなんじゃ……」


「ふふっ、そんなんじゃないならどうなの? 教えてよ、一昨日みたいにまたキスで……ね?」




狼狽える俺を気に入ったのか、澄花はニヤニヤを止めない。


沸騰しそうなほどに赤い頬を上手く隠し、細く通った指先を自らの口元に押し当てていた。


その勢いに気圧され、俺は思わず気後れしてしまう。


這うようにして顔を近づけてくる澄花によって、ベッドの上で尻もちをついた体勢のまま、俺は究極の選択を強いられていた。




「……ま、別にどっちでも構わないけどね」




そう言い残し、澄花は離れていく。


上体を起こして再び立ち上がると、改まって述べた。




「もう決めたの。司の隣にいるなら対等で在りたい。守られてばかりは嫌だから、私も変わろうって思えた」




はっきりとした口調で告げられた言葉を経て数秒、俺はようやく頷く。


「そっか」と付け加え、健気に表情を綻ばせる彼女を見続けていた。




「なに? 文句なら受け付けないけど?」


「そんなこと言わないって。ちょっと驚いただけで他意はないから」




守るべき存在だったはずの彼女は、今ではむしろ頼もしいとすら思えてくる。


まるで憑き物がとれたような、そして柵から吹っ切れたような、そんな嘘偽りのない笑顔を向けてくれる。


それがとても嬉しくて、これからの未来が待ち遠しくて、だけど今この瞬間が名残惜しく思えて仕方ない。




「―――好きだよ、澄花」




その言葉を聞いて面映くしている澄花。


これが幸せな気持ちなのだと改めて噛み締め、俺はそんな赤面する彼女に魅入っていた。

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