side ティー

side ティー


 自分はどこで生まれ、何のために生きているのだろう?

 虎人族の女性――ティーはそのことを知ることなく、幼少時代を過ごしてきた。


 ティーにとってもっとも古い記憶は、とある町の路地で横たわっていたことである。


 正確な年齢はわからない。おそらく十歳くらいだったと思う。

 その時、ティーは町の路地でボロボロの服を着て倒れており、疲労と飢餓から身体を動かす気力もなかった。


(……わたしはだれ……どうして、ここにいるの……?)


 ティー……当時、名も無き虎人の少女には、そこに至るまでの記憶がなかった。

 察するに、どこかで奴隷労働を強いられていたのを逃げてきたのだろう。


 ジェイド王国では亜人差別が激しかった。

 大陸南方の亜人国から獣人がさらわれ、奴隷として酷使されるのは珍しいことではない。逃げ出した奴隷が道端で野垂死にするのもまた、よくある光景である。


 半死半生の少女は衰弱しきっており、おそらく、放っておけば二日と保たずに息絶えたことだろう。


(……わたし、しぬの? なんのため、うまれてきたの……?)


 虎人の少女は思う。

 自分は何のために生まれてきたのか。ただ苦しみ、死ぬためだけに生きてきたのか。

 何も知らない、記憶を持たない少女でも……そんな自分が哀れで虚しい存在であることは理解できた。


 だが……そんな虎人の少女に手を差し伸べる者が現れた。


「あー、あー!」


「あら、どうしたの? カイム?」


 誰かの声が聞こえた。

 横たわっていた虎人の少女が顔を上げると……そこには母親らしき女性に抱かれた赤ん坊の姿がある。

 何かの病気だろうか。紫色のアザを顔や手足に浮かべた赤ん坊が、どこか必死な様子で虎人の少女に小さな手を伸ばしていた。


「獣人族の女の子ね? その子のことが気になるの?」


「あーっ! うーっ!」


「そうなのね? 珍しいわねえ、カイムがこんなに興味を示すだなんて」


「どうされましたか、奥様?」


 赤ん坊を抱く女性に連れの男……使用人らしき服を着た男性が声をかける。おそらく、従者か護衛だろう。


「そちらの女の子を連れて帰るわ。この子の世話役にするの」


「はあ、よろしいのですか? 汚らしい獣人ですよ?」


「構わないわ。連れて帰ってちょうだい。食事を与えて、怪我の手当てもして……それに使用人としての教育もお願いできるかしら?」


「……承知いたしました」


「が……う……」


 不承不承といったふうに、従者の男が虎人の少女を抱きかかえた。


 その後、少女は「ティー」という名前を与えられてハルスベルク伯爵家の使用人となる。

 名前の由来は、初めて覚えた仕事が『お茶ティー汲み』だったというつまらない理由だった。


 あとから知ることになるのだが……その日、カイムと母親であるサーシャ・ハルスベルクは近くの町に買い物に来ていたらしい。

 珍しく体調が良かった妻を夫であるケヴィン・ハルスベルクが連れ出したのだが……どうしても『呪い子』だった息子を連れて行くことを譲らず、親子四人と付き人の執事で出かけることになったのだ。

 夫や娘と別行動をとっている時にカイムが倒れていた虎人の少女に興味を示し、将来的に使用人にすることを見越してサーシャが雇い入れたのである。


「私はきっと、あまり長くは生きられないから。代わりに、この子と一緒にいてあげてちょうだいね?」


 屋敷のメイドとなったティーに、サーシャはよくそんなことを言ったものである。


 当然、赤ん坊だったカイムはティーが拾われた日のことを覚えていない。

 ティーが自分に尽くしていることを母親への義理だと思っているようだが……事実は異なっている。


 ティーがカイムに尽くすのは、カイムがティーを拾ってくれた張本人だからだ。

 カイムがいなければ、サーシャも浮浪者同然の獣人の少女など放っておいたことだろう。


 ティーはサーシャに対して大きな恩を感じているが……それ以上の恩義と愛情を、カイムに対して抱いていたのである。



     〇          〇          〇



 カイム・ハルスベルクが領地を出て行った。

 その知らせは、ハルスベルク伯爵家で働いている使用人にも知らせられた。


 もちろん、『毒の女王』の力を引き継いだことや、父親を倒していったことなどは知られていない。

 真実を知っているケヴィン・ハルスベルクはいまだに昏倒している。荷物が消えてもぬけの殻になった小屋の状態から、出ていったのだろうと推察されただけである。


「がう……何ということですの! カイム様が領地を出て行ってしまっただなんて……!」


 カイムがいなくなったという話を聞いて、ティーは唇を裂けるほどに強く噛みしめた。


 カイムが出奔したことについては驚きはしない。

 母親であるサーシャが死んで、この領地にはカイムを虐げる人間ばかりになっている。成長したカイムがいずれ領地を出て行くことは、ティーも予想していた。


 ティーが驚いているのは、カイムが独りで出て行ったこと。

 自分を置いて行ってしまったことである。


(カイム様、どうして私を連れてってくれなかったんですの……!? まさか、御一人で旅に出るだなんて……ヒドイですわ!)


「ああ、そんなことよりも旦那様が急に寝込んでしまった。アーネットお嬢様も部屋に籠っていることだし、改めて仕事の割り振りを……」


「結構ですわ! 私はここを辞めさせていただきますのっ!」


 仕事を振ろうとする執事長に、ティーは強く吐き捨ててスカートを翻した。

 こんな事をしていられない。一刻も早くカイムを追いかけなくてはならない。


「ま、待て! 勝手なことは許しませんよ!?」


 さっさと立ち去ろうとするティーに、執事長が慌てて言い募る。


 執事長は獣人であることを理由にティーのことを嫌っていたが……その能力については認めざるを得なかった。

 獣人は人間と比べて体力や腕力に優っている。優秀な労働力として奴隷にされることが多いのはこのためである。

 ティーは一人で五人分の労働をしていた。急に辞められたら、屋敷の仕事が立ちいかなくなってしまう。


「あの『呪い子』を追いかけるつもりですか!? 貴女は伯爵家の使用人です。拾ってやった恩を忘れて、身勝手なことをしないでもらいたい!」


「ガウウウ……私を拾ったのはカイム様ですわ! そして、使用人にしてくれたのはサーシャ奥様ですの! 貴方や旦那様に恩義など一欠片だってありませんわ!」


「なあっ!? だ、だったらどうして、あの『呪い子』が追い出された時についていかなかったのですか!?」


 一年前、保護者である母親を喪ったことでカイムは屋敷を追い出された。

 当然、ついていこうとするティーであったが……「『呪い子』と一緒に行くのなら、給料は支払いませんよ。屋敷のメイドはクビにします!」と目の前の執事長に脅され、カイムについていくことを断念したのである。


「どうせ金や職を失うのが怖かったのでしょう!? つまらない意地を張るのはやめなさい! この屋敷にいれば、薄汚い獣人である貴女も安定した暮らしができるのですよ。あんな出来損ないに忠義立てして、どんな得があるのというのですか!?」


「一年前、私がついていかなかったのは、いつかカイム様と旅に出るための資金を貯めるためですわ! カイム様をないがしろにするクズしかいない屋敷なんて、どうだっていいですのっ!」


 カイムは『呪い子』。ティーは虎人の獣人。

 どちらも恵まれた生まれではない。この国では職を得ることすら難しく、ハルスベルク伯爵領を出て行けば、暮らしていくのもままならなくなるだろう。

 ティーが一年前、屋敷を追放されるカイムについていかなかったのは、使用人として働いて金を貯めて、いつかカイムと出て行くための資金にするためだった。


 カイムとの将来を考え、泣く泣く一人追放されるカイムを見送ったのである。


「それよりも……貴方の方こそ、カイム様を『出来損ない』などと呼んでタダで済むと思っているのですか!? カイム様はサーシャ奥様のご子息なのですよ!?」


「フンッ……あんな旦那様に見捨てられた『呪い子』のことなどどうでもいい! あのクズは生まれるべきではなかった。アレさえいなければ奥様だってきっと…………あべしっ!?」


「ガウッ! 鉄拳制裁ですわ!」


 ティーは目の前の執事長の顔面を殴り飛ばした。

 人間よりも遥かに強力な腕力を持つ獣人。その中でも戦闘に関しては竜人、獅子人に並んでトップクラスの力を持つ虎人の拳が執事長の顔面に突き刺さる。


「これ以上、カイム様を侮辱するのは許しませんわ! 屋敷を辞める以上、私はもう我慢なんてしませんの!」


 ティーが執事長をはじめとした無礼な使用人を許していたのは、屋敷を辞めさせられて資金源を無くすのを避けるためである。

 屋敷を辞める決意を固めた以上、もはや我慢の必要はなかった。


「わ、私のこんなことをしてタダで済むと……へぶっ!?」


「知りませんの! そして……さようなら、お世話になりましたっ!」


 ティーの回し蹴りが炸裂した。メイド服のスカートから伸びてきた足が執事長の側頭部を刈る。

 凄まじい蹴撃を受け……執事長は派手に床を転がりながら気を失った。


「フンッ! カイム様を馬鹿にするからこうなるんですっ! さて……こんなことはしていられません。カイム様、ティーがすぐにお傍に参りますわ!」


 それまでの鬱憤を晴らして満足したティーは、すぐさま荷物をまとめて屋敷を後にした。


「本当は他の使用人も全員ぶちのめしたいところですけど……時間がないので見逃してやるのです! せいぜい、私がやっていた仕事を押しつけられて困るがいいのですわ!」


 執事長が怪我をしてしばらく働けなくなり、一番の労働力だったティーを失ったことで屋敷の仕事は大きく滞ることになった。


 さらに……アーネットがいなくなったことによる捜索隊の派遣により、さらに伯爵家の家臣は天地をひっくり返したような大混乱に陥ることになる。


 虎人のメイドの意図しないところで、カイムに無礼を働いた者達に天罰が降ったのだが……そのことをティーが知ることは、未来永劫なかったのだった。


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