ほはば
██
ほはば
みくるはずんずん先をいく。
「まってよぉ」
わたしはせいいっぱい歩幅を上げてついていこうとする。
「ごめんね。ついね」
みくるは振り返って天使のような笑顔を返す。5メーター先から。
みくるは可愛い。くりくりの天然パーマと張り付いたような笑窪が印象的な男の子。わたしと同い年だけど、わたしよりきっと長生きしてしまう男の子。歩幅の大きい男の子。
みくるの歩幅は1メーター50センチ。
わたしより長生きなのも、歩幅が大きいのも、男の子だからではない。そもそも長生きなのはたいてい女性の方だし、今の時代歩幅が1メートルを超える女性は少なくない。
みくるは笑顔で待ってくれている。
歩幅。それは移動の単位。基本的には距離で表され、記録上世界最長の歩幅は約160光年。カノープスを横切る世界で唯一の超長距離宇宙航行路でのシャトルの移動、通称ハイパースペースジャンプがこれにあたる。
なんのことやらと思うだろうか。では小学校の物理からやりなおそう。
ある空間点からある空間点への移動が瞬時に行われることを瞬間移動と呼ぶ。瞬時というのは1秒を10の17乗に分割したプランク時間に等しい。歩幅というのは、物理学的には、このプランク時間に移動する距離を指す。また正確には、観測者の1tPにつき移動した被観測者の移動時空間距離を指す。つまり厳密には時間の流れ方の違いも計測するのだ。
通俗的には語源通り、一歩を進むのに移動する距離と時間の長さを歩幅という。
みくるは歩幅が人よりだいぶ大きい。
2000年以前の成人の平均歩幅は約70センチで、2000年以降徐々に伸びて90センチ。歩幅の大きい人はゲームでフレームレートが落ちたみたいに、傍目からカクカクして見えるのだけれど、みくるはその度合も強い。どれだけ混雑していても雑踏の中のみくるを見つけ出す自信がわたしにはある。多分わたし以外でもそれは同じことだけれど。
カクカクする理由は時間の流れ方の違いだ。
みくるはわたしよりも時間がゆっくり流れる。ちょうどゾウの一生とネズミの一生が心拍数と主観時間の観点では同じ長さでも、客観時間では長寿と短命になってしまうのと同じように。だから、みくるは心持ち早くしゃべるし、わたしは心持ちゆっくりしゃべる。そうやってわたしたちは時間の長さをつじつま合わせするのだ。
「中学の批評の時間に『スパイダーバース』ってアニメの批評したでしょ」
「あったね。そんなの」
カクカクする右手でみくるがコーヒーを持ち上げる。コーヒーはミクルと同調して同じ歩幅でカクカクする。
「わたしね、あれで『批評性はありません』って書いてセンセイに怒られたの」
「そんなことあったね」
「だって歩幅が違うのはいま私たちにとって当たり前でしょ。同じ画面に別のfpsを持った人物が映るのなんて不思議でもなんでも無いの」
「それをアニメーションに起こしたのが凄いんだよ。アニメだけは2000年以降もずっと同一フレーム単位を保ち続けたのに、そのルールを破ったから凄いんだ」
「いまさらガンダムを批評する意味がないのと一緒よ。あんなのは映像革命なんかじゃないわ。だって2000年以来ずっとテレビでは映像革命が起こりっぱなしじゃない」
「それもそうなのかな」
みくるはきっとテレビはテレビ、アニメはアニメで別の基準が必要だと思っている。現に不服そうに頬を膨らませてコーヒーに口づけしている。
「むしろわたしはね、フレームレートが溶け合う瞬間を見たかったの」
「フレームレートが溶け合う?」
「勝手な期待だけどね。せっかくfpsが異なる人物をアニメーションさせたんだから、君とコーヒーが同調するみたいに、人と人が同調するアニメにしてほしかった。そんなファンタジーを見たかったのよ」
人同士の歩幅の同調は起こらないというのが現在の科学の見解だし、そうした事例は殆どない。
「君は2000年生まれで、世界の歩幅が一緒だった時代を知らない。ぼくもそうだ。でも年寄りみたいなことを言うんだね」
「年寄りって何よ」
「いや、ごめん言い方がね。でもどうして」
みくるは心底不思議そうだった。みくるはずんずん先をいく。彼はほとんど彼より歩幅の大きい人にあったことはないだろう。だから、おいていかれる側の気持ちを知らないのだ。
「そうね。どうしてだろう」
だからといって、みくるに、おいていかれる側の気持ちを味わってほしいわけじゃない。わたしは多分、彼にずっと追いつけないことをわたし以外のせいにしたいのだ。どこかで怠慢やってる神様のちょっとのいたずらで、わたしたちはきっと平行に歩めるのだと思わせてほしい。
けれどそんな無責任な気分を彼に伝える気はしなかった。
わたしたちはわたしたちの仕方で、すこしずつ心の歩幅を合わせてきた。だからこそそんな淡い期待は今までの努力に対して冒涜的に映るだろう。わたしにも彼にも。
ほはば ██ @tomatome
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