第20話 堕落



「愛しのオフィリアよ! 顔を見せてくれないか!」



 ダンッと床を叩く音がした。これは今まで聞いてきた音とは別の種類の感情が発散されているのだろう、と思う。何せ音の原因である尻尾の色は赤紫どころか濃紺よりも少し暗い色に染まっているのだから。



「……オフィリア。彼だろうか」


「ええ、お声を聞く限りセンブルク殿下ね」



 ティタニスから離れて立ち上がり、窓を開けてバルコニーへ出た。一応、客人の姿を確認する。乗ってきたであろう馬から降りた銀髪紫瞳の青年は遠目から見ても間違いなくこの国の第二王子に見えた。

 貴族間の来訪というのはまず、先触れを出すのが礼儀だ。何の知らせもなく邸宅へ押しかけるのはマナー違反である。そして我が家は勿論、彼の来訪を知らされてはいない。



「堕落の気配がするな」



 背後の声に振り返ると銀の仮面をつけたティタニアスが居た。下のセンブルクを見ながら不機嫌そうに尾を上下に振っている。それにしても今、耳慣れない言葉があった。



「堕落って……?」


「人間を恨み、人間を害する性質を持つようになった元妖精だ。肉体も失っていることが多い。……おそらくあれは中に潜り込んでいる」



 妖精と人間は共存共栄する存在である。妖精は人を導き、手助けをする。人間は妖精が作れないものを生み出す。また、人間の正の感情は妖精に力を与えるものでもある。

 人間が正しく生きていれば妖精と正しい関係を築ける。しかし、人間が誤った道を進めば妖精に悪い影響をもたらすこともある。そうして人間の負の感情に染まった妖精は元の性質を失って「堕落」と呼ばれるようになり、それは人間を誑かす存在になってしまう。……人間が妖精崩れと呼んでいる存在は、本当に居たようだ。御伽噺ではなかった。



「オフィリア、隣の男は誰だ! まさか、私以外の恋人を作ったのか……!?」


「いえ、殿下。私達が恋人であったことなどございませんが」


「オフィリア、無駄だ。堕落に憑かれた人間に正常な思考はできない。それもあれは随分と……染まっているように見える」



 センブルクの様子がおかしいのはその堕落してしまった妖精の仕業ということだ。彼自身に抗えないことであるなら、それはただ不幸であっただけなので致し方がない。

 まだ私に対し「裏切ったのか」やら「私はまだ愛している」やらいろいろと叫んでいるがあれは彼の意思ではないのだろう。こうなってくるとさすがに同情してしまう。



「……堕落のせいだとしても聞くに堪えないな。少し、試してくる」


「ニア……!?」



 ティタニアスがバルコニーから飛び降りた。私もそれを追いかけて思わず手すりから身を乗り出してしまう。ふわりと地面に降り立った彼は迷いない足取りでセンブルクに近づき、その襟首をつかんで自分の仮面に手をかけた。

 竜としての自分を嫌い、私以外にその目を見られることや怯えられることを恐れる彼がそんな行動に出たことに驚く。ティタニアスが仮面を外し、センブルクの瞳を覗き込んだ次の瞬間。センブルクの体から黒い靄のようなものが飛び出していった。


(今のは……いえ、それよりも下へ急がなくては)


 貴婦人としては失格だろうが構わない。家の中を駆けて階下へと急ぐ。大声で叫ぶ声が聞こえたのだろう、玄関ホールでルディスと鉢合わせた。何人かの使用人も不安そうに外の様子を窺っている。



「ニアが仮面を外しているからルディスはここで待っていて。私が様子を見に行くわ」


「……わかりました。お気をつけて」



 竜の目を見て恐れを頂かないのは番だけ。ルディスの足が止まったことを確認し、扉を開けて外へ出た。ティタニアスの足元にセンブルクが倒れ込んでいるのが見え、少々慌てながら駆け寄る。



「ニア! センブルク殿下は……」


「ひとまず堕落は抜けた。……どれほどの影響が残っているかは分からないが」



 再び銀の仮面をつけたティタニアスが深い息を吐く。その尻尾はすっかり力を失くしてしな垂れていた。……やはり、その目を恐れられることは彼にとって大きな負担なのだ。

 問題のセンブルクは呻きながら体を起こす。そんな彼の前に膝をつき、声をかけた。堕落の妖精がもたらす影響についてはよく分からないが無事なのだろうか。



「センブルク殿下、ご無事ですか?」


「ここは一体……貴女はもしかしてオフィリアか? その羽は……?」



 私を見る紫の瞳は虚ろだがその淀みのようなものは確かに減っているように見えた。私が誰か判別できるのに、私が妖精であることは忘れてしまっている。意識の混濁、記憶も曖昧だ。これが堕落の妖精による影響なのだろうか。



「……なんと美しい。オフィリア、貴女ほど美しい女性を見たことがない。貴女が私の婚約者であることをとても嬉しく思……っ」



 背後で弾けた音と震えた地面に思わず肩が跳ねた。私だけではなくセンブルクも同じで、彼が乗ってきた馬などは嘶きを残して走り去っていく。恐る恐る振り向くと、地面がえぐれるほど強く叩かれた跡が残っていた。それをやったであろう尻尾は真っ黒に変色している。



「オフィリアと婚姻するのは俺だ。……貴方は彼女との約束を放棄したのだろうが」



 元から低い声がさらに低い。地鳴りのように響く、唸り声にも似た音が混じっている。ティタニアスが怒った姿は初めて見た。燃える瞳が見えなくてもそれは十二分に伝わってくる。センブルクの顔色が悪いのは堕落の影響なのか、それともティタニアスの怒りのせいなのか。



「……その姿は……竜……」


「……確かに俺はそう呼ばれている」


「そう、か……。いえ、大変失礼いたしました」



 センブルクが立ち上がる。妖精の前でいつまでも膝をついていられないと思ったのだろう。そして同じく膝をついていた私に手を差し伸べる。見上げたセンブルクの表情が今まで見たことのない、苦渋に満ちたものになっていて驚いた。

 ただ、隣からも手を差し出されていたため、そちらの手を借りて立ち上がる。……私が手を取るべきなのは隣の竜ただ一人だからだ。



「オフィリア、様。……私は貴女と婚約を解消したのでしょうか」


「ええ、センブルク殿下。六年ほど前に婚約解消となりました」


「……左様でございますか。妙なことを申し上げました。記憶が少々、曖昧でして……そう、ですか。このように美しい御方と婚約解消だなんて……ああ……」



 とてつもなく後悔をしているような顔だがその後悔は相手に対し失礼を働いたこと、というより私の容姿が好みなので婚約が解消されているのが惜しい、という気持ちに感じられた。……正気に戻ってもそのあたりの性格は変わらないようだ。同情がすうっと引いていく。



「ここは……ジファール家の御屋敷ですか。何故私はここに……」


「殿下には堕落……いえ、妖精崩れが憑いていたようです。意識を操られていたのかと」


「なんと……」



 暫く話して、彼にはここ数年の記憶がほとんどないことが分かった。一体いつから堕落がついてしまったのか、判別はできない。意識を乗っ取られる前から居たのは確実だとティタニアスが断言したため、本当に随分長い間彼は堕落の影響を受けていたことになる。



「私は貴女を愛し、そして貴女にも愛されていたような気がするのですが……」


「いえ、そのようなことは一度もございませんでしたが……それも妖精崩れの影響でしょうね」


「はは……そのようで」



 センブルクが嘘を吐いていることは目を見れば分かる。同じ力を持つティタニアスにも伝わったのだろう。不機嫌そうに地面を叩く音が響いてくる。

 彼が私を愛したことも、私が彼を愛したこともない。私たちの間にあったのは貴族としての利益の繋がりだけだった。



「後日、正式なお詫びをさせてください」


「いえ、結構です。殿下は妖精崩れに憑かれていただけですから」


「ララダナクの輝きたる妖精に対し、失礼を働いた。詫びが出来なければ私の首を差し出すしかないでしょう。……どうか、謝罪だけは受け取っていただけませんか」


「……ええ。分かりました」



 王族である彼が膝をつきながら頭を下げる姿を見て、これは正しく関係を結び直すための提案なのだと悟った。彼は二度と私との婚姻関係を望まない。これまでの非礼も全て認めて謝罪し、一からやり直したいということだ。

 ジファールもララダナクの貴族であり国民なのだ。いつまでも王族とのわだかまりを持っておくのは良いことだとは思えない。……私の存在が生んだ歪をここで正せるのならば受けるべきだろう。一応、今までの非礼は堕落の仕業であって彼の意思ではなかったことなのだから。



「ありがとうございます、オフィリア様。…………しかし私の馬は……」


「あちらの方角で音がする。動かずじっとしているようなので探しに行けばいい」


「はは……ありがとうございます。では、また後日……」



 唸り声混じりの助言を受けてセンブルクが去っていった。それをある程度見送ってから機嫌の悪いティタニアスを見上げる。

 銀の仮面の奥は見えないが、おそらく目が合った。彼がその面を外すと、申し訳なさそうに眉が下がっている顔が現れる。



「すまない。……自分でも何故こんなに腹立たしいのか分からないが、まさか尻尾が貴方の家の庭をこのようにしてしまうとは……しっかり直しておく」



 竜の尻尾は自分の意思で動かせるものではない。彼はとても優しい性格をしているし、怒っている姿も見たことがなかった。しかし怒らせるとその尾は地面を割る程強く反応してしまうようだ。



「ニアは案外、嫉妬深いのね」


「嫉妬……。そう、だな。貴女が他の誰かの伴侶になる想像をすると腹立たしいのは、そのせいだろう。それで貴方の家を壊してしまうかもしれないと思うと……」



 ティタニアスのしょげていた尻尾がさらに申し訳なさそうに丸まってしまった。庭の地面を割ったくらいなら地面を掘り返して均せば済むが、家の床ならそうもいかないだろう。それが分かっているから彼はとても落ち込んでいる。



「俺は……オフィリアの家に入らない方がいいのではないだろうか。貴女の家を壊してしまったら申し訳が立たない」


「……ねぇ、ニア。結婚して、私が貴方の家で一緒に暮らすようになれば解決するのではなくて? 同じベッドで眠るのが怖いなら、何か方法を考えてみましょう」



 ティタニアスの赤い瞳が私を見下ろした。ピンと立った尻尾が彼の驚きを表している。そして迷うように彼の尾が揺れて、暫くの後頷いた。



「そうだな……貴女が眠っている時に俺がベッドを使わなければ潰してしまう心配もない、か」



 その呟きに内心で苦笑いをする。新婚の夫婦が同じベッドで眠らないとはいかがなものだろうか。しかしこれは彼が私を大事に思う故、そして知識の偏りによる提案である。……道のりはまだまだ、長い。



「……まずは一度、家に来てみないか? オフィリアが暮らせるものになっているか、確認してほしい」


「ええ、分かったわ。今度、遊びに行かせてね」



 柔らかく微笑んだ彼が銀の仮面を身に付けた。やはり、優しくて温かいその笑顔が愛おしくなる。これを見られるのはその目に怯えない私だけなのだと思うと、その特別さが嬉しくなってしまった。……私にも独占欲はあるようだ。

 そう思いながら振り返るとそこにはいつの間にか家族が揃っていた。いつも通り微笑んでいるのはリリアンナだけで、ルディスは何故か微妙な顔をしていて、クロードは苦笑を零している。どこから聞いていたのだろう。少なくともティタニアスが純粋すぎるところは伝わっていそうだが。



「妖精の結婚はどうすればいいのかな」


「……婚姻を結ぶ二体だけで行うものだ」


「そうか。……なら、その後にお祝いの宴をニア君を含めた家族だけでさせてもらえたら嬉しいよ」



 どうやらそういうことになるらしい。微笑んだまま歩み寄ってきたリリアンナに、地面に座ったことで汚れた服を着替えてきなさいと言われそういえばセンブルクの様子を確認するためにスカートを汚してしまったのだと思いだした。



「オフィリア。……頑張りなさい。ここまで初心な殿方はそういないでしょう」


「ええ、お母様。……努力致します」



 こっそりと耳打ちされた言葉に頷いた。両親が健在の間に孫が生まれるかどうか怪しいくらいにも思えたけれど、意外とここまでの道のりが短かったことを思えばどうにかなりそうだ。……しかしそれも私の行動次第、だろうけれど。


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