第11話 提案
「オフィリア、中へ入ろう。その方が綺麗に見える」
さて、どこへ腰を落ち着けようか。そんなことを考えていたらティタニアスに花畑の中へと誘われた。中から見られれば確かに美しいだろうが、花畑の中に踏み入れば茎や根を踏んで傷つけてしまう。さすがにそれは、できない。
「そんなことをしたら花が傷ついてしまうでしょう?」
「ファクルの花なら問題ない。根がない上に丈夫だからな。……それに、この通りだ」
ティタニアスが一歩、ファクルと呼ばれた花の群れに足を踏み入れた。するとそこにあった花はふわりと舞い上がりティタニアスの体を避けながらゆっくりと落下していく。どうやらこの花は綿毛のように軽いものであるらしい。
こんなに軽いものが風に攫われることなく一か所に、それも視界を埋め尽くすほど大量にとどまっているのが不思議でならない。
「花を傷つけることはないから安心して景色を楽しんでくれ」
「……それなら……」
恐る恐る私も一歩、ファクルの群集の中へと入ってみた。私の動きによって起こされる風のおかげか花は私を避けて浮かび上がる。ほっと安心しながら少し先を行くティタニアスの後をついて行った。
機嫌よく揺れる彼の尾によって多めに巻き上げられるファクルが頭上からゆらりゆらりと雪のように降ってくる。その光景は美しいけれど、それよりも花を大量に飛ばしてしまう濃紺の尻尾が愛らしくてたまらない。
(花の下の地面は白いのね……まるで雲の上を歩いているみたい)
靴から伝わってくる感触は柔らかい。雲の上など歩いたことはないけれど、歩けるとするならばこのような感覚だろう。
私にとって初めての妖精界。人間の常識が通用しない、不思議な場所。私も元々はこちらの生まれらしいが記憶にないのだから何もかもが新鮮だ。心に生命の息吹が注がれるようで体がとても軽い。
「このあたりでいいか。……オフィリア、歩き続けて疲れていないか?」
「大丈夫よ。もっと歩いてもよかったくらい」
揺れる尻尾で舞い上がる花々を眺めているのはとても愉快だった。疲れなど全く感じていない。これが新しい場所を訪れることを糧とする風の妖精の性質だとするならどこまででもこの足で歩いて行けそうな気がする。
「そうか、よかった。……貴女は普通の妖精とは違う育ち方をしているからな。俺も分からないことが多い。身体が辛い時は教えてくれ」
「……私が歩けなくなったらニア抱えて運んでくれるのかしら?」
「………………それはまだ早い」
予想通りの答えが返っていて可笑しいような、少し寂しいような。そう思いながらその場でくつろぐための準備を始めた。座る場所を作るべくバスケットの中から敷物を取り出して広げたけれど、地面は土ではなく白いふかふかしたものであるので必要はなかっただろうか。
「……あら。綺麗に避けて降ってくるのね」
「この花は
敷物を広げた際に舞った花は布の上を避けて他の場所へと落ちていった。本当に不思議な花に興味が湧いて手を伸ばしてみたがするりと逃げられてしまう。ファクルの周りに見えない壁でもあるかのように触れることができない。この性質のおかげで花畑に踏み入っても傷つけずに済んだのだろう。
「ニア、昼食にしましょう? 料理人が美味しいスコーンを焼いてくれたから」
「……スコーンという食べ物なのか。楽しみだな」
ティタニアスは私の向かい側に腰を下ろした。間にバスケットを挟んでいるので間違っても触れられない距離である。隣に座ってくれた方が嬉しいのだけれど、彼は硬派の堅物なので仕方がない。
「これはチーズ、これはベーコンが入っているわね。色々な種類を作ってくれたみたい」
妖精の友人と食べるつもりだと伝えたからだろうか。料理人は張り切ってくれたようだ。飽きがこないよう、塩気の強いものから甘いものまで様々な味をそろえてくれている。私もティタニアスには色々と楽しんでほしいのでこの気遣いはありがたい。
「……違うものなのにすべてスコーンという名なのか?」
「そうよ。チーズのスコーン、ベーコンのスコーン、はちみつのスコーン……そういえば妖精は普段何を食べているの?」
「人間でいうところの果実を食べる者が多いな。先ほど花の妖精に世界樹の種を渡されただろう? あれも食べられる」
果実や木の実、キノコなどが妖精の主な食事であり、それらを直接口にするため料理の概念はないらしい。だから人間の料理を嗜好品として楽しむ者達が出てくる。
料理に興味を持って人間の真似をした妖精はいままで何人かいたが――妖精の世界のものは人間の世界にあるものと性質が違う。出来上がったものはとても食べられるようなものではなかった。そして料理をすることは諦め、人間の食べ物が欲しいなら人間の世界で彼らの手伝いをし、対価として貰うのが常識になったという。
ティタニアスはバスケットの中からベーコン入りのスコーンを取り出して一口齧り、一瞬動きを止めてからすぐに二口、三口と食べ始めた。どうやらお気に召したようだ。
「人間の食べ物は不思議だな。……舌が喜んでいる気がする」
そんな彼の背後でぱたぱたと揺れる尻尾が起こす風が橙色の花々を浮かび上がらせている光景が目に入る。敷物の上に落ちることのない花は同じ場所に落下しようとしてはティタニアスの起こす風で何度も上に飛ばされて、綺麗というよりは視覚の中にあるものすべてが可愛らしくて愛おしい。
「……料理は幼い頃にほんの少し経験したきりだけれど……教わってみるわ」
料理とは使用人の仕事だ。貴族がやることではない。幼い頃に厨房で楽しく料理をさせてもらった記憶は薄っすらとあるのだが、それも王族との婚約が決まったあたりで禁止された。
けれど、ティタニアスがこんな風に喜ぶ姿を見せられたら――私の手でそうさせたいという欲求が生まれてしまった。それに、私なら人間の世界で買い物もできる。妖精の中で唯一人間の料理を作れる存在になれるかもしれない。
「何故だ? オフィリアの家にはこういうものを作るための人間がいるんだろう?」
「だって、ニアが嬉しそうに食べているんだもの。私が料理を覚えればいつか家を出て妖精の世界へ行ったとしても、また食べさせてあげられるじゃない?」
「……俺のためか……?」
「ええ。貴方に喜んでほしいから」
私もバスケットから一つスコーンを取り出して食べる。これははちみつが入ったものであるらしい。ほろりとした食感に舌の上に広がる優しい甘さがたまらない。我が家の料理人の腕は確かだ。……今から学んでこれに追いつけるとまでは思っていないが、せめていくつかの料理が作れるようになりたい。
社交界から退くことを決めた日の夜。私はやるべきこともやりたいことも分からなくなってしまっていた。けれど、今は違う。やりたいことができた。
(ニアが喜んでくれるならなんでもやってみたいわ。帰ったらお父様とお母様に厨房へ入る許可を頂かなければ)
そんな私の言葉の真意を図りかねたかのように濃紺の尻尾が大きく触れたり、急に止まったりと変わった動きをしているのが目に入ってくる。隣に座りたいと思ったけれど正面に座ってもらえてよかったのかもしれない。表情だけはやはりいつも通りなので尾の動きがなければティタニアスの感情が揺れ動いていることに気づけない可能性がある。
「……そういえば、花の妖精に声をかけられる前に何か言い掛けなかったか?」
話題を変えようとしたのだろう。それを言われて私もこちらの世界に入る前のことを思い出した。目の前でティタニアスの姿が急に消えて、とても不安になったことを。
「……手に触れるのはまだ早いのよね?」
「そうだな、まだ早いと思う」
「なら、帰りは貴方の服の袖でも裾でもいいのだけれど……どこかを掴んでもいいかしら」
ティタニアスが固まった。時間が止まってしまったのかと錯覚しそうなくらいピタリと止まってしまっている。頼りの尻尾も動かないため、何を思っているのか予想もできない。
「嫌ならいいの。……ただ、貴方の姿が見えなくなった時にとても不安になって……」
「……そうなのか?」
「ええ。貴方がいなくなってしまったら嫌だと思ってしまったの。……私はこの先もずっと、貴方と過ごしたいわ」
それは紛れもない私の本心だ。彼の存在は私の中でとても大きなものになっていて、それは失うことなど考えられない程で。ティタニアスがいなくなってしまったらと思うと目の前が真っ暗になる。想像したくもない。
「……オフィリア……俺は……貴女に必要な存在だろうか」
「ええ、勿論。かけがえのない存在よ。とても大事な…………ニア?」
ふいに身を乗り出したティタニアスが、バスケットにぶつかったところでその動きを止めてゆっくりと元の位置に戻り、左手で自分の右手を押えるように掴んだ。落ち着きなく揺れる尻尾が落ち込むように萎れたり、忙しなく振れたり、動揺しているように見える。
「……俺は時々、どうしようもなくオフィリアに触れたくなることがある。今も貴女の体を抱き寄せそうになった」
まだ早いと何度も拒絶されるから大人しく引き下がっていたというのに、ティタニアスにはそういう気持ちがあったらしい。まだ触れ合えるような距離感ではないというのは私の勘違いであったということなのか。
しかしそれなら何故、頑なに「まだ早い」と拒絶するのだろう。
「俺は力の強い竜だから、俺がそうしたら貴女は拒絶できないだろう。……無理強いして貴方を傷付けたり、貴女に嫌われたりしたくない」
「……私は嫌ではない、けれど……」
「……それも冗談、か……?」
どうやら私が何度もからかったせいでティタニアスは私が「まだ早いか」と問いかける言葉も冗談として捉えていたようだ。たしかにからかう気持ちも半分あったので否定できない。……彼との距離が詰まらないのは私のせいでもあった訳だ。冗談交じりではきっと、伝わらないままになってしまう。
「ニア、私達……お友達をやめましょう」
焔の瞳が大きく見開かれ、血の気が引いたように色が薄くなった紫の尾がぱたりと敷物の上に落ちた。
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