第12話 一つの終わり
尻尾の色がとても悪い。初めて見る反応だがこれは明らかに落ち込んでいる。私の言葉で勘違いさせたことに気づき、少し慌てながら訂正した。
「ええと、悪い意味ではないからそんなに落ち込まないで」
「…………そうか。息が止まるかと思った」
小さく息を吐いたティタニアスの後ろから覗く尾も濃紺の色に戻っていく。恥ずかしい時は人間が赤面するように赤紫になり、逆につらい時は血の気が引いて尻尾の色が薄くなるようだ。やはりとても分かりやすい。
「ごめんなさい。その、つまり……貴方が私と出会った日に言ってくれたでしょう? 想い合ったら婚姻を前提に交際をしたいって」
「……ああ、そう言った。だから俺は貴女と時を重ね、親しくなろうとしている」
「けれどニア。……触れたい、というのはきっと友人に抱く感情ではないわ」
今はいないが私にも友人は居た。話をするのが楽しくて、会うことを楽しみにしていた友人だ。手を取り合って喜んだこともある。親しい友人には自然と触れられるもの。わざわざ触れたいとは考えない。
私とティタニアスは確かに友人で、互いに親しみや好意を持っている。触れたくないのではなく触れたくても戒めなくてはならないというのは――それはきっと、友人以上の感情があるからだ。
「……俺たちは本来なら生まれてすぐ出会って、共に成長していくはずだった。自然に親しくなり、自然に関係を構築できるはずだったんだ。俺は……失くした二十年以上の時を取り戻さなければ、と思っている」
子供のころから共に育てば幼い頃は友愛を育み、成長と共にそれが恋心に変わっていく。今までの竜はそうであったし、私達もそうなるはずだった。それが出来なかったのは妖精女王の気まぐれによるものだ。
ティタニアスだけが私を探し、想いながら長い時を過ごした。私は彼のことを知らないまま同じ時間を生きていた。その間には大きな感情の差があるはずだと彼が言う。
「オフィリアとの正しい距離が分からない。俺にとって貴女はずっと求めていた番だが貴女にとって俺は出会ったばかりの一体の妖精だ。せめて十年は……歩み寄る時間が必要だと思っている」
それは流石に長すぎやしないだろうか。しかしそれだけ彼の私へ向ける感情――好意だけではなく執着なども含めた様々な思いが強い、ということでもあるのだろう。ティタニアスはそれを感じさせないように穏やかに笑っていただけで。
「俺は番の存在だけを頼りに生きてきた。俺にはオフィリアが必要だが、オフィリアにとってはそうでもないはずだから……俺も、貴女にとって必要な存在になりたかったんだ」
「……私にも貴方が必要よ、ニア」
「ああ。そう言われて抑えられなくなりそうだった。……俺はオフィリアが欲しい。けれど傷つけたくないのも、大事にしたいのも本当だ。……俺はどうするのが正しいんだ?」
彼は呟くように問いかけて焔の目を瞼の中に隠し、俯いてしまった。その問い掛けは私に向けられたものだろうか。それとも彼自身に向けられたものだろうか。
(正しい答えなんて分からないけれど……)
その答えは私たちが一緒に探っていくべきものだ。私はティタニアスとの間にあるバスケットを横に置き、彼の目の前に膝を進める。これで私たちの間にあった小さな隔たりは一つなくなった。
「貴方は私に自分の性質を抑える必要はないと言ったわ。……貴方もそうするべきではないかしら。苦しいのでしょう?」
「……しかし、俺は竜だ。生まれ持った力に責任を持つべきだろう。俺が自由に振舞えば傷つく者が増える。オフィリアも傷つけかねない」
「……ニア。目を開けて、私を見て」
ゆっくりと目を開いた彼は驚いたようにほんの少し体を揺らした。私が傍に来ていることは気づいていただろうけれど下から顔を覗き込んでいることは意外だったのかもしれない。そんな彼に微笑みかける。
「触れられることを忌避している訳ではないのよね」
「……ああ。だがまだ触れられないとは思っている」
「私はそうは思わないわ」
固く結ばれたティタニアスの両手の上に己の手を重ねた。ひやりと感じる冷たい体温は竜が持つ元々の熱なのか、それとも彼の心境によるものなのか判断できない。私はまだ、それを知らない。今日初めて触れたのだから当たり前だ。
私の言葉のせいか、それとも触れられたせいか、私を見つめる彼の尾はその戸惑いを表すように不規則に揺れ動いていた。
「友人として親愛を育むのは確かに悪くないのだけど……それでは足りないわ」
「……足りない?」
「恋に時間は関係ないのですって。……なら私たちはきっともう、お互いに恋をしているのよ」
押さえ込むかのように己の手を掴んでいる指を一つずつ、解いていく。抵抗なくあっさりと指は離れ、開いた手の平が空を向く。その上に自分の手を置き、焔の瞳を見つめた。言葉に嘘がないことは目を見れば必ず伝わる。
触れたいと思われても不快ではない。むしろそうしてほしいと感じる。手を取ってほしいし、抱きしめてほしい。これはもう、友人に抱く感情ではないはずだ。
「だからお友達をやめましょう。……私たちはこれから、恋人としての愛情を育むべきではないかしら」
ティタニアスの向こう側で橙色のファクルの花が舞っている。その花の色が一部、赤く染まり始めていた。橙から赤に変わりゆく花々の変化する姿はティタニアスの瞳を彷彿とさせ美しいのだが、それを起こしているのは落ち着きのない赤紫の尻尾である。その光景の美しさに対する感動ではなく彼への愛おしさが胸に広がった。
「……それは、まだ早くないだろうか」
「早くないわ。むしろ十年なんて長すぎるわよ。……私も貴方も、もうお互いを友人だなんて思えていないのだから」
互いを友人だと思えなくなった時点で私たちの友人関係は終わりだ。想い合ったら婚姻を前提として交際する、そのために友人から始めるのだと出会った日に決めた通りである。
触れているティタニアスの手が温かくなってきた。むしろ少し熱いくらいだ。竜は私よりも体温が高いのかもしれない。
「……この感情が恋だとするなら俺は、最初からオフィリアを友として見れていなかった」
どこか困ったように、けれど柔らかくティタニアスが笑う。それを目にしただけで胸が甘く締め付けられる。私はやはり、彼の笑顔に弱い。その表情に見惚れていると私の手が本当に弱い力で握られた。あまりにも優しい、いつでも抜け出せるほどに小さな力だ。
「俺は……オフィリアが欲しい」
体の芯に響くような心地よい低音の声。揺らめく炎のような熱のある瞳。それらに込められた強い愛情は、家族が私に向けるそれとは明らかに違う。この言葉は愛の告白であると、私にはそう感じられた。……けれどそれなら、言ってほしい言葉がある。
「……そういう時は愛している、と言うものではないかしら」
「ああ、そうか。そうだな。……愛している、オフィリア。ありがとう」
ティタニアスは私の手をそっと持ち上げるとそこに額をつけ、祈りでも捧げるようにその言葉を口にした。そう言うように誘導したのは私なのだが、急に恥ずかしくなってくる。なんだか体が熱くてしかたない。
「……私も愛しているわ、ニア」
胸の中で暴れる感情が歓喜なのか羞恥なのかよく分からない。心臓の鼓動が耳の中でのたうち回るように響く。ほんの少し震えた声で私の答えを聞いたティタニアスはゆっくり顔を上げ、じっとこちらを見つめてきた。
「……赤いな」
「……貴方の尻尾も赤いわ」
「……本当だ。道理で熱いと思った」
後方に視線を向けて自分の尾を確認したティタニアスがふっと笑った。今までで一番赤みの差した尾と違って彼の顔色は平常通りである。その尾は落ち着きなく振れていつの間にか真っ赤に染まった花々を浮かび上がらせていた。
「オフィリアの心臓の鼓動も聞こえる」
「……自分でも分かっていることを口にされると恥ずかしいのだけど。妖精にも心臓があるのね」
自分の心臓が激しく主張していることは自分が一番よく分かっている。話題を変えようとそんなことを口にした。
私は妖精だという。それでも人間と同じように心臓があり、血潮が流れる体であるようだ。人間の医者が見ても特に違和感を覚えないのだから妖精と人間の体のつくりは似ているのかもしれない。
「ああ。俺たちも生物だからな。……俺の音は聞こえないか?」
「私は貴方ほど耳が良くないみたい。この距離では聞こえないわ」
「そうか。オフィリアと同じくらい早く大きく鳴っているんだが……この距離で聞こえないなら耳をつけないと分からないかもしれないな」
わざわざ申告しなくてもいいことを堂々と教えてくれる。同じくらいだと言うのだから、ティタニアスも私と似たような心境でいるのだろう。
お互いの愛を確認して友人から恋人へ変わった。地に足がつかないような浮ついた心地と高揚感、羞恥心、期待感。様々な感情が混ざり合って体中を熱のように駆け巡っている。……きっと同じなのだ。
「……抱きしめたら聞こえると思う」
「……私は構わないけれど」
「…………だが、恋仲になったばかりなので早いと思う。やはり、こういうものには順序がある」
とても真面目な表情で、とても真剣に、心の底からそう思っていることを揺らめく炎の瞳が伝えてくる。これがティタニアスという妖精なのだ。私は、そんな堅物で真面目な彼が愛おしい。
「そうね。なら、痺れを切らしたら私から抱き着くことにするわ」
「……からかっているだろう、オフィリア」
「ええ、半分はそう。でも半分は本気よ。ニアならあと五年は早いって言いそうだもの」
五年は冗談がティタニアスの感覚に任せていると先が長そうだと思っているのは事実だ。傷付けないようにと距離を置こうとする彼に、大丈夫だと歩み寄るのは私の役目だろう。
「そんなことはない。三年くらいは早いかもしれないが」
「……それは遅いと思うわ」
けれどこれがティタニアスなのだろう。ただ、彼は触れ合うことを嫌っている訳ではない。私を傷付けそうでそれが怖いだけだ。ならば私から触れて、これくらいで傷つくことはないのだと一つずつ教えていくしかない。彼が置く距離を、時間を、私が飛び越えてみせよう。
「ねぇニア、近々お祭りがあるの。妖精の感謝祭で、人間の街だけれど一日中音楽が流れているらしいわ。そこで一曲、私と踊ってくださらない?」
ララダナクの繁栄は妖精の存在のおかげだ。その妖精たちに感謝を捧げるための祭りで、あらゆる料理が無料で振舞われ、彼らが紛れて祭りを楽しんでも分からないようにするため顔を隠す面をつけ、妖精の仮装をするのがしきたりである。
そういう祭りだからこそティタニアスと出かけられるだろう。彼が羽や尾を隠す必要はない。……瞳は隠してもらわなければならないだろうが。
「……踊りか。俺はそういうものをしたことがない」
「いいのよ、形なんて決まっていないから。……親しくなりたい異性や恋人と踊るのが人間の文化なの。私はニアと踊りたいわ」
「ああ……貴女にそう誘われたら断れないな。だが……俺は本当に、貴女以外と関わったことがないので妖精たちの踊りも見たことがない。少し教えてほしい」
「ええ。それはもちろん。食後の運動にしましょうか」
軽食に持ってきたスコーンを食べ終えてからしばらくの間ティタニアスに簡単なダンスを教えた。身体能力が高いだけあって呑み込みがいいので苦労することもない。
ここには音楽がないから正式なダンスとは言えないけれど、赤から紫へと変わった花が舞う中で踊るのは幻想的で美しく、とても楽しかった。
「オフィリア、そろそろいい時間だ。貴女の迎えがくるだろう」
「あら……もうそんな時間なのね。名残惜しいけれど帰りましょうか」
楽しくて時間を忘れていた。あれからファクルの色は青、黄緑、黄色と移り変わり、今は白い輝きを見せている。この場所の美しさを語れば、家族はきっと喜んでくれるだろう。
敷物を片付けて軽くなったバスケットをティタニアスが持つ。帰り道は袖を掴ませてほしい、とは頼んだけれど。
「……もう手を取るのは早くないでしょう?」
「ああ、そうだな。……これは早くない」
差し出された手に己のものを重ねる。熱いと感じるその手の温度を心地よく感じた。歩き出した私たちの背後では、揺れるティタニアスの尾によって花が巻き上げられているのだろうと想像して笑いが零れる。
その日、私は友人から始まった番の竜と恋人になった。……しかし伴侶になるまではまだまだ時間が要りそうだ。
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