5.5話 妖精姫の弟
ルディス=ジファールにとってオフィリアは心から敬愛する姉である。
昔から自分にできないことを簡単にやってのける姉に憧れていた。妖精が見えたり、人の嘘を見抜いたり、天気の予想を外したことがなかったり、楽器を持たせれば人の心を奪う演奏ができ、物の良し悪しを見分ける観察眼もあって。その背丈を追い抜いたのは十年以上前なのに、いまだその背中を追い続けているように感じている。
ルディスから見たオフィリアは素晴らしい人だ。才能にあふれているが驕りがなく、貴族として正しくあろうと振舞う気品にあふれた貴婦人。……だからこそ、そんな姉が嗤われることが悔しくて仕方がなかった。
輝くシャンデリア。鮮やかなドレス群。立食用に並べられた料理。あふれる笑顔と笑い声。いつもの通りの社交パーティーで、ルディスは一人佇み会場をぼんやりと眺めている。結婚相手を探したり、友人を作ったり、交流を深める場であることは理解していたがそんな気分にはなれないのだ。
「お聞きしましたよ、ルディス卿。オフィリア嬢が療養に入られたと……お可哀相に。もう社交の場でお会いすることはできないのでしょうか」
一人の青年が笑顔で話しかけてきた。たしか、子爵家の令息だったはずだ。暫く前の夜会でオフィリアをしつこく外へと誘っていた記憶がある。こういう輩に声をかけられるのが嫌なのか、いつからかパーティーが始まってしばらくするとオフィリアは会場から姿を消すようになったのだ。
ルディスは彼女が消えたことに気づくといつも彼女を探して回った。よからぬ輩に何か悪さをされているのではと心配して気が気でなかったから。けれどどこを探しても見つからず、オフィリアは終了時刻が訪れるとどこからともなく現れる。……衣服に何の乱れもない姉の姿にほっとして共に帰宅する、というのが常態化していた。
だが、今回からオフィリアは社交パーティーに参加せずルディスのみが訪れている。もう社交の場には出ないと言ったオフィリアの意思を尊重し、彼女が社交場に出なくても済むよう「オフィリアは病を患って療養に入った」という話を広めた。それを信じるかどうかは別として、そういう設定になっているのだから他の貴族もその前提で話をする。貴族とはそういうものだ。
姉を探して会場の外に出ることがないせいかいつもより話しかけられたが、まともな会話が出来たのは数人のみ。大抵はオフィリアについて何かしら含む物言いをしてくるせいで既に気疲れしている。
「……ええ。おそらく姉はもうこういった場へ足を運ぶことはないでしょう」
「それは残念です。とてもお美しい御方でしたからね、いらっしゃるだけで場が華やいでいたというのに」
お前たちの醜悪な嗤い話が盛り上がっていただけだろう。という言葉を飲み込んでルディスは笑った。オフィリアはもう二十代半ばだというのにその姿はまるでまだ大人に成りきらない少女のように見えるのだ。幼げな容姿とは違い芯の通った大人の女性である彼女の独特の雰囲気に魅せられる男が多いことも、結婚はできなくても“欲しい”男がいることも知っている。
(こいつも姉上に
一夜の恋などという呼称で欲を貪る行為が横行しているのは暗黙の了解だが、勿論それを迎合する者ばかりではない。結婚もできず、子を産めないオフィリアがそういう相手に望まれやすいのは少し考えれば分かることだ。
しかし彼女の性格を考えればそんな話を受けるはずがない。にべもなく断られた男達が腹いせとばかりに彼女を「はぐれ妖精姫」と揶揄する。いくら美しい容姿を持っていても決して貴族の女性と認められないオフィリアを嘲笑うことで、その美貌への嫉妬の留飲を下げる女もいる。
(おかげで付き合う相手を選びやすい。姉上の話をしてくる奴にまともなのはいない)
その子爵令息の顔に付き合う価値無しと心の中で判を押し、適当に会話を切り上げて去った。姉がパーティーから抜け出す気持ちがよく分かる。人の悪意に辟易としたのだろう。
少しでも綺麗な空気を吸いたいとテラスに出た。暫く夜風に当たっていると、小柄な女性がそっと近づいてくる。
珍しくもない赤茶の髪色で、化粧が不得手なのか地味な印象を受ける女性だ。ルディスの記憶にない顔なので初対面だとは思うが、覚えていないだけかもしれない。下手なことはできないと声をかけられるまでは気づかぬふりをすることにした。
「お初にお目にかかります、ルディス卿。私はタラン伯爵家のシャティと申します」
「……初めまして、シャティ嬢。何か御用ですか?」
「オフィリア嬢が療養に入られたと聞きまして……」
ああ、またか。そう思いながら笑みを張り付けて肯定すると、シャティという娘はとても落ち込んだような顔になる。……そこに笑みが浮かんでいないのが意外だ。オフィリアの話をしてくる者は大抵、姉は病を得て療養をすることになったと言えば嘲笑うように口元を歪めるものなのだが。
「私、以前オフィリア嬢に助けていただいたことがございまして……その、いつもお礼を申し上げようと思っておりましたがパーティーでお会いすることができないまま……オフィリア嬢の容態はそんなに悪いのでしょうか」
「いえ、そこまでは……」
落ち着いた深い茶の瞳が薄っすらと涙の膜を張っているように見えてつい、慌てて否定した。まさか姉の心配をしてくる人間がいるとは思っていなかったために動揺してしまったが、彼女が本当にオフィリアのことを思っているかは分からない。
(僕には姉上のような、嘘を見抜く力がないから……この令嬢は本当に姉上を心配しているのか?)
気遣うような言動で心を開かせ、オフィリアの状況を聞き出そうとしている可能性も否めない。人間の悪意に触れすぎたのだろう。人の善意が信じられなくなってしまっている。
「よかった……では、オフィリア嬢がお元気になられる日を心待ちにしております。お時間を頂きありがとうございました」
彼女がその場で一礼して見せた時、建物の中からわっと拍手の音が湧く。礼の途中で肩を跳ねさせて襲るおそる振り返る彼女の視線の先には見知った顔があった。
オフィリアの元婚約者で、婚約解消後には傷心を理由に激しい女遊びをしているクソ野郎もといララダナク王国の第二王子センブルクである。
「あ……」
「どうされました?」
「……い、いえ……なんでもございません……」
シャティの顔色が悪くなっている。女癖の悪い第二王子に絡まれたことでもあるのだろうか。会場内に戻るに戻れないようで立ちすくむ彼女に「もうしばらくこちらにいらしたらどうですか」と声をかけた。
驚いたように目を丸くして自分を見るシャティに、ルディス自身が驚いていることを悟られぬように笑みを浮かべる。……自分から誰かを引き留めたのはこれが初めてだ。
「先ほどの……姉に助けられたというお話、よかったらお聞かせください」
「は、はい。よろこんで」
ほっとした顔で傍に寄ってくるシャティから視線を外し、もう一度ちらりと会場内を見やる。あの王子の顔を見るだけで腹立たしく思うのは、彼がルディスの大事な姉を貶める要因の一つだからに違いない。
はぐれ妖精姫の名付け親は、あの男だ。
(婚約が解消されてよかった、あんな男と結ばれたら姉上が不幸になる。姉上にはもっと、誠実で、思いやりのあるような……)
オフィリアに釣り合う男を想像してみたが上手くいかなかった。そんな相手はこの世に存在しないかもしれない。そもそも、彼女は貴族と結ばれることはないだろう。平民ならば体質についても互いが納得していれば結婚は許されるだろうが、生粋の貴族である姉が労働暮らしの平民になれるとも思えなかった。
(妖精が姉上を連れ去ってくれたら……こんな腐った世界から姉上が抜け出せるのに)
ありもしない妄想をしてため息を吐く。そんなルディスを心配そうに見つめる視線に気づいて笑顔を作り直した。
「……つい、考え事を。お気になさらないでください。それより、お話を聞かせてくださいますか?」
「はい。……あの日、私は――」
シャティの話す言葉に耳を傾ける。誰とは言わないが女癖の悪いクソ野郎に迫られて暗がりに連れ込まれそうになった彼女を助けたオフィリアの話だ。
いつも姉を嘲笑うような言葉をかけられてきたルディスにとって、感謝と尊敬の念が籠ったシャティの話はとても新鮮であったし、居心地も悪くなかった。
「今日は楽しいお話をありがとうございました、シャティ嬢。またお会いしましょう」
「……こちらこそ、ありがとうございました。それではまたお会いできる日を楽しみにしています、ルディス卿」
おずおずと微笑むシャティに悪意はないように見えた。またお会いしましょう、と偽りなく言えたのはこれが初めてだったかもしれない。
その日、ルディスは珍しく悪くない気分で社交を終え、帰宅することができたのである。その夜はどことなく気分が高揚して眠れず、部屋の窓を開けた時。男女の明るい声が聞こえてきた。真上にある姉の部屋からだ。
「今度はどこへ出かけ…………貴方の……二人きりになれ……がいい……」
「…………へ行く……」
ルディスは慌てて開けた窓を閉めた。勿論、音を立てぬように。今聞こえたのは間違いなく男女の逢瀬の約束ではなかったか。男の方の声は聞き取りづらかったが、もう一つは間違えるはずのない敬愛する姉の声だった。それも、随分と弾んで楽しそうな。
(例の妖精の友人か……? いや、でも、僕に妖精の声が聞こえるはずは……)
まさか不埒な輩に騙されているのでは。一瞬その考えが浮かんだがすぐ否定した。オフィリアには嘘を見抜く目があるのだ。彼女が騙されるはずがない。
では、先程の声の主は本当に妖精なのか。偶然、妖精の姿を見ることはあると言う。声を聞くことは、もっと可能性が低いだろうがなくはない。
(姉上が僕たちに嘘を吐く方が……信じられない。なら、きっと偶然、聞こえてしまったんだろう)
もう一度窓を開けて、オフィリアの声だけが聞こえるなら間違いない。けれどそれを確認しようと伸ばした手は、窓枠に届く前に降ろした。もし再び男の声が聞こえたら、何を信じていいか分からなくなりそうで怖かった。
(……何か大事があれば相談してくれますよね、姉上。僕たちは家族だから)
夜遅くに姉の部屋から男の声がした、なんて。両親に報告する必要はない。姉に尋ねる必要もない。きっと、必要な時がくれば自ら話してくれるだろう。
ルディスはそう信じて眠れる気のしないまま、ベッドに潜り込んだ。
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