プロローグ 森の中の狼たち(2)

 少年、小狼シャオランは眼下の影狼ユンランを見る。

 彼に一番近い木、頭上より高い枝から逆さ吊りに現れ、蜘蛛のように無音で、蛇のようにしなやかに地面へ降り立ち、恭しくかしずき話し出す。

「全部隊準備完了いたしました、影狼様」

 カムフラージュの隙間から見える白い肌と、秀麗な眉を引く大きな瞳の顔。禿に切りそろえた艶持つ黒髪。敬愛する義兄と同じ一族の自分は普段のギリースーツではなく、特殊戦服の体にぴたりと合う黒のインナーを着ていた。

小狼シャオラン

 その姿を見て、影狼が言う。

「なんだその茶芝居ちゃしばいは。もしかしておきなの真似か?」

「なんだよ狼兄ランにいっ。ノってくれてもいいじゃんかっ」

 直前の気品ある雰囲気が霧散し、本来の無邪気な風貌を晒す。小さい拳を伸ばした腕の先で振りながら、そろえた両の踵を尻に振り上げてその場で飛び跳ねた。

 翁の笑い声が長めに流れていく。

 影狼が目を細めてため息混じりに話しかけてくる。

「お前みたいなじゃりん子が大人の真似など、人を笑かしてあやかしでも暴くつもりか全く。見ろ、翁も呆れているだろう」

「ぷー、狼兄のいけず。それにマネって酷いよ。昔、柳狼リオランにちゃんと教えてもらったもん!ちゃんしてたでしょ?」

「普段の態度が正確な作法も台無しにするという事が分からんから子供だと言っとるのだ」

「なにそれ!ていうかそれと遊びに付き合ってくれるかは別でしょっ、狼兄の石頭、カオナシ坊主、凍り鮎!」

「その変な悪口、桃狼タオランか……。似せなくていい所は完璧に写して……」

「ふぉふぉふぉっ」

 おおらかな笑い声を切っ掛けに義兄とのやり取りは止まった。

 一息をつくと、義兄の雰囲気が絞られた弓の如き真剣さへと切り替わる。

 彼が表情を改めて尋ねた。

「全部隊準備完了だな?」

「御意に」

 返す言葉と瞳は、無邪気さはそのままに鍛えられた知性と意思を示す。

「統制民の司令官は塹壕基地から120キロメートル後退。同様に士官クラスはそれにくっついて消えました。先の様に作戦への横入はありません」

 形の良い唇でほくそ笑む。

「お見事です、臨時総隊長。『高貴な統制民兵士を死傷させ、完璧だった司令官の作戦を失敗させた罰として、隷属民兵士による突撃攻勢を行う』という建前を使い、統制民のクズ司令官もボンクラ兵士も排除してしまうとは」

 前回の奇襲作戦は影狼が完璧と言える作戦を立案したにも関わらず、直前になって手柄の横取りを目論んだ統制民の司令官に台無しにされて失敗した。その責任を押し付けられて死罪を受けるのは隷属民の常なる理不尽である。

 しかし、影狼はそれを利用して部隊編成の中核を実践経験豊富な隷属民兵士で構成し、更に実現性のある攻略案を提示することで二次作戦の実行許可を取り付けた。

 また、その内容は必要以上に塹壕基地への接近を警告することで賤劣せんれつな保身の心を煽り立て、妨害を挟む余地を物理的に遠く引き剥がしたのだ。

 統制民供の愚行と理不尽に折れず、信念と戦況にあわせて有効な作戦を生み出す強靭な精神と柔軟な思考、そして危険を飲み込んで最善へ踏み出す行動力。

 この姿こそ、愛する義兄が自分だけでなく他部族の出身者からも信頼を集める理由だ。それは自分にとって何より誇らしく、嬉しい気持ちになる。

 そして、二次作戦の実質の司令官である総隊長の影狼が部隊編制完了の報告を聞き、命令を告げる。

「よし、俺は先発隊へ合流する。翁は先発隊へ一言かけて頂いたのちに、本隊へも回ってください。小狼シャオラン、お前も自身の部隊へ行け」

「了解」

 言葉と同時に動いた自分に声がかかった。

「いや、少し待て」

「はい、何か——」

 振り向いた額を影狼の頭突きで小突かれる。

「いたっ。あの、総隊長?」

 至近にある義兄の黒く輝く瞳がこちらの目に合わせて言う。

「俺は平気だ。子供が妙な気を使って緊張を解そうなんてしなくとも良い。部下としても上官の心持ちまで気にする必要はない」

「……やっぱり、狼兄は誤魔化せないね」

 力ない返事が口から出る。

 いくら自分がまだ大人に至らぬなりといえども、流石にあそこまで子供っぽい振る舞いをする歳ではない。何より、そんな心底の無邪気さは故郷から出たときに、統制民に故郷ごと一族を滅ぼされた光景を見て塗りつぶされている。

 先ほどの遣り取りは重責を担う義兄を少しでも安らげさせたいがための、ほとんどは演技だ。しかし、姿を見せた時点で既に見透かされていたのだろう。『茶芝居』と言われたのはそういう意味だ。

 でも、それを知っていても義兄は自分に付き合ってくれた。それは作戦実行前にこちらの不要な緊張を払ってくれたのだ。

 情けないことに、助けるつもりで逆に助けられてしまった。

 僅かに気落ちしたこちらへ義兄の瞳が問う。

「お前の部隊は作戦第一段階の要諦だ。……出来るな?」

 それは不信ではなく、その真逆だ。

 故に瞳に気を入れ直して答える。

「無論です。我らが祖なる極星天狼の掟に誓い、必ずや勝利への導を立てて見せましょう。柳狼リオラン桃狼タオラン……先に湖面の星影となった一族たちの無念をいずれ果たさんが為にも」

「……い。行け、天狼の仔たる星影よ」

 返事は無用だ。

 ただ力強く笑みを作り、長い犬歯を見せる。義兄も同じく口の端を上げて、やはり鋭い犬歯を見せた。

 一族の特徴を見せ合う事で互いの決心を強くする。

 そして、自身の部隊の待機場所へと駆け出した。

 道など無視し、樹林の中を自在に駆け、跳び、はしる。

 しかし、大樹の枝の上でふと脚が止まり、視線が森の出口へ向く。その先の荒野と大断裂に構える敵要塞、そして白き巨人へ思いをはす。

(今の地球上で最も不条理の中にありながら、力を振るい大地に立ち続ける閃影せんえい。それをるは統制民に害されてなお清絶高妙なる乙女)

 その姿は敵なるも見惚れるほどに鮮烈で。

(如何なる者であれ仔なれば牙に掛けざるべし。これも一族の掟であり誇り)

 しかし、彼女は強壮に過ぎた。望んで戦場に立った統制民も、望まざる隷属民も等しく討ち返された。

(同胞を断ったものは必ず牙にて裂かん。これもまた、掟。我らの信念)

 矛盾だ。

 自らを支える信念は統制民に強制された現状と衝突し、ズレを生じさせている。戦場でそこに心を囚われれば絶命必死である。

 故に妥協を見出さなければならない。

 大樹の苔むす幹の表面、その奥にある冷ややかなるも決して凍てつかない生命の感触を手に当てながら、一瞬の思考で答えを出した。

(姦計ではなく、力にて討ち果たそう。武技と兵法によって戦の花と散るがせめてもの手向けだ。その誇り高き死に様を我ら一族が語り継ごう)

 妥協点を定めた心に最早隙は無い。一秒ほど止まった脚を再び動かす。


           §


 狼の如く自在に森を駆けていく少年。彼は自分の心に最早何の疑問も無いと確信している。

 だが、どんな人間もその心情の原因、意識という表面が張り付く巨大な無意識の塊を認識することは出来ない。

 何故、今更になって信念と現実の矛盾に意識が向いたのか。

 何故、今この時に敵である少女を想ったのか。

 彼自身に分からずとも、単純な理由は他者には想像できてしまう。

 少年は少女に問いたかった。

 敵同士でありながら近似の理由で戦場に立つあの閃影に。

 信念が現実と矛盾する苦痛と苦難。それにどんな妥協を定めているのかと。

 あるいは、まさか、信念を貫き現実で戦う術があるとでもいうのかと。

 だが、それらを知れないまま少年の影は樹海の奥へと沈んでいった。

 しばしの後、第二次攻勢が塹壕基地へと掛る。


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