第30話
夜の始まるのが大分遅くなった。まだうっすらと明るさの残る空が、カーテンも窓も開け放してあるそこから見えるアパートの部屋で、俺と杉本はローテーブルの真ん中にザルのまま置いた素麺を2人で分け合って食べていた。
「俺、夏休み、補講だってさ」
杉本がザルの上で絡みつく素麺を箸で振り落としながら言った。
…だろうな。俺は素麺をズズッとすすりながら、声には出さずに答える。
杉本は結局、赤点が4つだったが、そもそも赤点どうこういう前に授業数が足りていない。7月に入ってから午前中の早い時間の授業にはほとんど出ていない。
「特進は夏期講習もあるしな〜。…俺ちゃんと朝、起きれるかな」
杉本が、やっと振りほどけた素麺を、蕎麦猪口代わりに使っているマグカップの中に放り込みながらため息をついた。
それを合図に、俺は持っていた箸をパシッと音をたててテーブルの上に置いた。
杉本がぎょっとしてこっちを見る。
俺はその目をしっかりと捉えると、何故かあぐらを組んでいた足を正座の姿勢に組み直して両手を膝の上に置き、出来得る限りの真剣な顔を作って言った。
「杉本、薬のこと、武田先生に話さないか?」
杉本は、俺の放った言葉が一瞬、理解出来なかったかのように眉を寄せると、少し遅れて「は?」と声を発した。
「武田先生に、薬を飲んでいるから朝の授業には出られないことを話すんだよ」
俺はさっきと同じ意味の内容を、ただ言い方を換えただけの言葉で、杉本に伝えた。
「話してどうすんだよ」
ようやく言葉の意味を理解した杉本が、俺に向かってわけがわからないといった表情を浮かべる。
「授業に出られなくても大丈夫なように、なんか考えてもらう」
俺が真剣な顔のままそう伝えると、杉本は大きく目を見開いた後、はああああ〜と長いため息をつき、呆れた声で「おまえはホントに、暴走列車だな!」と『ぼ』の部分を強調しながら言った。あれ?なんか既視感。
「暴走列車ってなんだよ」
「暴走列車だろうが!いつもやることが突飛すぎるんだよ。いきなり知らない男に抱かれてみたり、一人暮らし始めてみたり、自己紹介でカミングアウトしてみたり」…俺に一緒に暮らそうって言ってみたり、と最後だけ口の中でもごもごと言う。
暴走列車だなんて始めて言われた。ていうか俺はどちらかというと、自分は慎重な方だと思っていた。
「暴走してるわけじゃないよ!ちゃんと先のことを考えて1番いいと思ったことをしたいだけだよ」
武田先生の『困ったことがあれば言えよ』と言っていた野太い声を思い出しながら、俺は必死で抗議した。
「嫌だ」杉本がプイと横を向いた。
「杉本!」
「いーやーだ!!」
杉本はそう言うと、畳んで床に置いたまんまの自身の布団に顔を埋めて、もう話したくないの姿勢をとった。
俺はため息をついて話し合いを諦め、テーブルの上の乾いてしまった素麺にもう一度水に通すために立ち上がってキッチンに向かった。
翌朝、起きない杉本を1人アパートに置いて俺は学校へ向かった。
もう起こすのは1日5回までと決めていた。あとは杉本が自力で起きて学校へ来るまで何もしない。俺が着替えさせてまで無理矢理連れて行くのは、よっぽど大事な日だと俺が判断したときだけだ。じゃないと俺の方の身が持たない。そしたら今の生活自体が破綻してしまう。それだけは避けなくてはいけない。
そうして、その日も普段通り授業を受け、杉本が隣の席に来るのを待った。
でも、その日、いつまで待っても杉本は姿を現さず、タイムリミットを報せる終業時刻のチャイムが鳴った。
アパートに帰ると、杉本は俺のベッドの上で壁の方を向いて横になっていた。
「杉本」
俺は杉本の背中に向かって声をかけると、ベッドの端に座って杉本の肩に手を置いた。
「無理言ってごめん。杉本が嫌なら、薬のこと、武田先生に言うのやめよ?」
今日、学校へ来なかったのはそのせいだろう、と感じていた俺は素直に謝った。杉本にだってプライドはある。向精神薬を飲んでるなんて知られたくないかも知れなかったのに、俺の配慮が足りなかったと反省をしていた。
杉本は、俺が声をかけても身じろぎもしない。寝ている感じはしなかった。昨日の出来事で、心を閉ざしてしまったのだと思った。
俺が小さくため息をついて立ち上がろうとしたそのとき、杉本の肩に置いていた俺の手にぐっと強い圧力がかかった。
「えっ?!」
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
腕をグイッと引っ張られ、天地がひっくり返ったかと思うと、バランスを崩した俺はあっという間にベッドの上に仰向けの格好で組み伏せられていた。俺の上には、よつん這いになった杉本。俺の顔のすぐ上に、杉本の顔があった。
真っ直ぐな目。そしていつになく真剣な表情で、杉本は言った。
「ヤろうぜ」
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