第14話
「ここ、俺んち」
杉本が石垣の上に黒いステンレスの塀が立った囲いを指差した。囲いをまず形容した理由は、まだ家の全貌が見えないからだ。
…どこまで続くんだよ、この囲い。相当でかい敷地のなかに豪邸のような家が建っているのが想像できた。
塀の上からは、新緑の見事な大きな木の頭が何本もみえていて、杉本は囲いに沿って歩きながら木の頭が途切れた隙間のところで、いきなり石垣に手をかけると「よっ」と、ジャンプした勢いで足もかけた。
ぎょっ、とした俺の目の前で更に黒い塀に手をかけると同じようによじ登る。
「俺の友だちはみんなここから出入りすんだよ。滑るから気をつけて」と、俺にも同じことをするよう促す。
こんなことをして、ホームセキュリティが作動したりはしないんだろうか、と心配になりながらも肩にかけた鞄をしっかりかけ直すと素直に従った。
ここに来る途中で杉本に「家政婦さんに電話するけど何か食いたいもんある?」とスマホを取り出しながら訊かれたけど、断った。結果的に2人きりになってしまうことにはなるけれど、友だちの家に行って家政婦さんにもてなされるなんて、そっちの方が居心地が悪い。
それに…ホントは杉本とキスをするのは嫌じゃない。したい、とすら思う。でもキスをしたら次を期待してしまう。気持ちがなくても、体が期待してしまう。俺の体はそういう風に出来ている。
でもそこを踏み越えてしまうのは、まるで禁忌を侵す行為のようで、俺には無理だと頭のどこかが叫んでいた。
塀を乗り越えて地面に着地すると、靴がザリッと砂利を踏む感触がした。
目の前には、西陽が差して出来た、灰色の影の張り付いた低い瓦屋根が、ざらついた土壁と木の柱に支えられている小さな一軒家が建っていた。 入ったすぐ目の前に家があったで、ここからでは影になってもう1軒あるはずの家は見えない。辛うじて家と植木の隙間から向こうに広い庭があるのが見えた。何かを栽培しているのか、いくつもの畝が立った畑のようなものがある。
体を傾けて向こうを覗いている俺の横で、杉本が、すりガラスの入った引き戸の玄関の鍵穴に鞄から取り出した鍵を挿して回していた。カチッと音が鳴ったのを確認して鍵を抜く。
カラカラと音をたてて引き戸を開け、杉本が先に立って中に入った。
俺も続いて中に入った。湿った匂いがする。
コンクリートが剥き出しになった
「あっちーな。ちょっと窓、開けるわ」
乱暴に靴を脱ぎ捨てながら杉本が廊下を奥に進んで行く。
俺は杉本が脱ぎ捨てた靴をきちんと揃えてから、自分もその横に靴を揃えて脱いで、高い上がりかまちを上がって廊下の床を踏んだ。ギシッと音が鳴る。
廊下に上がってすぐ左に、西陽が差し込んだ8畳程の畳の部屋があった。暑いのは西陽が広い窓からもろに差し込むせいだ。床の間と、襖の入った押入れ。冬はこたつになりそうな長方形のテーブル。部屋の隅に置かれた薄型の黒い液晶テレビだけが、純和風の部屋の中で唯一異物感を放っていた。
廊下の右側にはドアが2つある。トイレとお風呂だろうか。俺は廊下を進んで行く。奥には2階へと続く階段。そして突き当りには、程よい大きさのキッチンが壁にくっついたダイニングがあった。
ダイニングテーブルは6人は座れそうな大きさだ。椅子は4脚あった。大きな冷蔵庫。コンロが2つあるガステーブル。家政婦さんがやってくれるのか、どこも綺麗に整頓されていて清潔感がある。
…キッチンの前で調理をしている女の人の姿が見えた。おそらく母親だろう。ダイニングテーブルの上では2人の子どもたちが宿題をしている。母親が、ご飯だよ、とテーブルを片付けるように促す。いや、もしかしたら和室の方にご飯を運んで、テレビを観ながら食べるのかも知れない。食べていると、父親が帰ってくる。家族の団らんが始まる。子どもたちはお目当てのバラエティ番組を観て、父親はその横で晩酌をしている。食事の片付けが終わり、バラエティ番組が終わると母親に急かされ子どもたちから順番にお風呂に入る。
お風呂から出ると、子どもたちは2階に上がって、宿題の続きをして明日の学校の準備をする。
ここは『家族』の家だ。
「…上條?」
声をかけられて初めて、自分が泣いていることに気がついた。
杉本は驚いた顔をして俺のことを見ていた。
「杉本…」
俺は杉本の姿を確認すると、肩にかけていた鞄を滑り落とすとそのまま駆け寄って腕ごと杉本のことを抱きしめた。
杉本がビクッとして強張ったのがわかったけど、構わず力を込めた。
おまえ…こんなところにずっと1人で…。
涙が止まらなかった。しばらくの間そうやって抱きしめながら泣いていた。するとだんだん杉本の体から力が抜けていき、俺の背中に肘から下だけが俺の拘束から自由になっている杉本の両手が回されるのがわかった。その手が片方だけ動いて俺の背中をさする。もう、どっちが慰められているのかわからない。
「落ち着いた?」
ダイニングテーブルを挟んで向き合って座った杉本に、俺は小さくなって「…うん」と答えた。
目の前には、杉本が麦茶を入れてくれた透明で細長いコップが置かれている。
冷静になった途端、勝手に感傷的になって泣いてしまった自分に小っ恥ずかしさを感じていて非常に居心地が悪い。
杉本は、はあー、と大きなため息をつくと、椅子の背もたれに方肘をかけながら、「俺、そんなに酷い状況じゃないって言ったよね?」と、尖った声を出した。
「…はい」
「可哀想とか思われるの嫌なんだけど」
鋭い声を浴びせられ、なんで俺が怒られているんだ、とちょっと反発心を覚えたけど、人前で泣いてしまった恥ずかしさから何も言えずにきゅっと口を結ぶ。
「じゃあ、罰として上條が一人暮らししている理由を話すこと」杉本がニヤリと笑った。
「え?」キミは、じゃあ、の使い方が間違ってないか?
「罰ってのは嘘〜。ただ単に上條のこと、もっと知りたいだけ」
さっきまで鋭い声を出していたくせに、今はもういつもの笑いを含んだような声で杉本が言った。
うーん、と悩んだけど、なんかもう杉本に対しては今更、という感じもした。大体、俺は杉本の事情ばっかり一方的に知ってしまっているし、まあ、杉本の方は隠すつもりも無いみたいだけど、俺は話せる範囲で話そうと、まだ頭の中がまとまっていないながらも口を開いた。
「親が俺がゲイだってことを嫌がったんだよ」
「えっ?!それで追い出されたの?」
「違う。自分から出た」
杉本の頭の上に「?」が浮かんでいるのが見えて、俺は頭の中を整理しつつ順を追って話すことにした。
「前、住んでたところでは最初、隠してたの。でも途中でバレてさ、俺は大丈夫だったのに、親が周りに色々言われるのを嫌がったから。それで引っ越そうって言われて頭きて、俺はもう自分を隠す必要がなくなったのに、なんでそっちは無理なんだよって思って、じゃあもう一緒に暮らさない方がいいのかなって」
それを聞いた杉本は腕組みをすると目を閉じて、んー、と暫く何か考えていたけど「つまり、こういうことだ」と目を開くと言った。
「上條は自分がマイノリティーであることをすでに受け入れられているけど、上條父ちゃんと上條母ちゃんは、周りにバレたことで自分たちが『マイノリティーの親』というマイノリティーになってしまったことをまだ受け入れられていないってことだ」
俺がモヤッていたことを一瞬で言語化されて、あんぐりとなった。そうか、そういうことか。言われてみれば、俺がゲイだってことを否定されたわけじゃない。向こうがただ単に人目を気にしているだけだ。でもそれと俺を否定しないことと何が違うんだ?と結局モヤる。
杉本は膝を折り曲げて椅子の上で体操座りの形になると「まぁ、親なんだったら自分のことは後回しにして、ちゃんと子どものこと信用しろよって思うよな」と、まるで自分の本心は隠したいかの様に体をぎゅっと縮こませた。
杉本には、何か俺の見えない世界が見えているようなそんな気がした。俺は、親なら自分のことは後回しだなんてそこまでは思えない。親にだって感情はある。でも、杉本もそれはわかっているはずだ。だからこそ、こんなところで1人で暮らしている。
一瞬の沈黙の後、杉本が「あ」と声をあげた。うーん、なんか嫌な予感…。
「なんで隠してたのがバレたの?彼氏でもいたわけ?」
出た。ホントにこいつ鋭いんだよ。仕方なくぼやかしておくつもりだった事実を話す。
「クリスマスに元彼とデートしてたらクラスの女子に見られたんだよ」
「んん?でもクリスマスに男2人で歩いてたところで別におかしくないだろ。それが彼氏だってなんでわかったの?」
うぐ…。こいつ…ホントに…。
「外でキスしてたんだよ!悪いか!!」
俺はもうヤケクソになって自分の恥を晒した。
「あー…」
杉本は自分で訊いておきながら、ふーん、と、明らかに機嫌を悪くすると、頬杖をつきながらそっぽを向いてしまった。
おい、おまえはいったい俺のなんなの?なんで元彼の話で機嫌を損ねてるわけ?1回キスしたぐらいで彼氏面しないでよね!と、何処かで聞いたような陳腐なセリフを思い出す。1回じゃないけど。
俺はどうすることも出来ずに、とりあえず目の前のコップをとって麦茶を飲んだ。香りがいい。きっと、やかんできちんと粒から煮出しているやつだ。
ガタンと音がしたので顔を上げたら、片膝を机の上に載せて身を乗り出した杉本が口づけしようとしてきた。
「…っ杉本!」
慌ててコップを置いて杉本の口を手で塞ぐ。おいコラっ、マーキングしようとすんじゃない!
「んぐ〜っ!」
杉本が声を上げながら、自分の口を押さえている俺の手を必死に引き剥がそうとするけど、俺だって負けてない。押さえる手に更に力を込める。
それでも杉本は諦めようとはせず、更に引き剥がそうと必死になった。俺は焦りに似たようなものを感じる。
やめてくれ。これ以上、踏み込んでこないでくれ。俺の後ろに何かいるんだよ。でもその何かは背中を向けていて、正体がわかるようでわからない。いや、わかっているのかも知れない。でも知りたくない。だから俺をそんなに追い詰めないでくれ。
その時、俺の頭にひとつの言葉が浮かんだ。
『窮鼠、猫を噛む』
「俺は杉本が楽しむためのおもちゃじゃない」
その言葉は、予想以上の破壊力を発揮した。
杉本の力が抜けて、後ろに引かれた頭が俺の手から離れる。そして、ふっ、と息を吐きながら一瞬、口が横に開きかけたと思ったら、またすぐに元の形に戻っていく。笑おうとしてるんだけど、うまく笑えない。そんな顔だった。
何か言われるのか、と心臓が冷たくなっていくのを感じながら息を飲んで待ち構えた。
でも杉本は何も言わず、机に片膝をついたままの姿勢で下を向いてしまい、俺からは頭頂部しか見えない。
泣いてるの?そう思った瞬間だった。
杉本が、左手を前に伸ばしたかと思うと、
割れる!!
思わず、ぎゅっ、と目を閉じた。
でもそのコップは強化ガラスで出来ているのか、簡単には割れることはなく、ゴトンと音をたてて床に落ちると横に転がり、底に少し残っていた麦茶がその動きに合わせて楕円に筋を引いてこぼれた。
「じゃ、今日は解散ってことで」
いきなり棒読みでそう言うと、杉本はさっさとテーブルから降りて、感情のみえない顔で足早にダイニングを出ていった。俺の背後でトントントンと階段を上がって行く音がする。
俺は、やっと呼吸を取り戻して暫く座ったまま息を整えた。整えた頭で思う。
そりゃ、怒るよな…。
椅子から立ち上がって、床に落としたままだった鞄を拾って肩にかけると、一度帰ろうとして思い直し、杉本か弾いたコップを拾ってテーブルの上に載せた。
床を拭いても良さそうな布巾を探したけど見当たらなかったので、ポケットから自分のハンカチを取り出すと、こぼれた麦茶を拭いて、シンクへ行って絞るとクシャと丸めて鞄の外ポケットに突っ込んだ。
そして杉本の家を後にした。
来たときと同じ様に、塀を乗り越えて道路に出た。
今日は、笑い、泣き、怒り、と感情のごった煮みたいな1日だった。
どうして、こうなってしまったんだろうか。答えは簡単。
杉本と一緒に居たからだ。
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