探偵社バラウル 交差する世界の中で
万珠沙華
第1話 客の来ない探偵事務所 1
いつの間に眠ってしまったのだろう。
雨粒が窓を叩く音で重い瞼をあけ窓の外を見ると、先程まで雲の合間に日差しが見えていたというのに眠っている間にすっかり曇天の空へと変わりおまけに雨まで降り注いでいた。
今日こそは晴れる、そう思ったのにこの長雨はどうやら期待に答える気がないらしい。
エドワードは自分の頭の重みでつぶされた本を閉じテーブルに戻すと、鬱陶しそうにすっかり変わってしまった雨空を見ながら立ち上がった。
「今日はもうこねーかな。」
エドワード・ヴァンヘルシング。
彼はここ探偵社『バラウル』の店主である。
探偵社なんてこの町にはないからライバルもいないし、『バラウル』なんて強そうでかっこいい名前を付けたから絶対客足に困ることはないだろうと思っていたエドワードだが残念ながら開業以来一度も『バラウル』に人が訪れたことはない。
今日一日雨だと言わんばかりに分厚い雨雲をみてエドワードはまた今日もだめだったかとため息をついた。快晴で人が出歩こうという時でさえこないのだから、こんな雨天にわざわざ依頼に来ようなんて奇特な人間はいないだろう。
客入りを諦めたエドワードが朝扉の前に立てかけたwelcomeボードを下げに外に出ると、屋内にいて気付かなかったが思った以上の雨量で既にボードは木枠が変色するくらい水浸しになっていた。
面倒に思いながらその水浸しになったボードを玄関ポーチに持っていきカビが生えないように嫌々拭きあげていた時だった。エドワードはふと人の視線を感じその手を止めた。
振り返るとこんな土砂降りの中エドワードの様子を見ている人影が向かいの通りの木下にあったのだ。その人物は真っ赤な傘に真っ赤なレインブーツの女性だった。
エドワードと目が合っても視線を反らさず真っすぐにエドワードを見続けていて、とうとう気まずくなったエドワードがその女性に声をかけた。
「どうされました?」
雨に打ち消されないように短い単語で大声で聞いたが女性はエドワードの問いに何を言う訳でもなく、ようやく自分に気付いたことを知りエドワードの所へゆっくりと歩み寄った。
だがその歩みは『バラウル』手前の歩道でピタリと止まってしまい初めての客か否か分からないエドワードはとりあえず営業スマイルで女性を迎えると、女性は心底嫌そうな表情を浮かべながらぽつりぽつりと一言ずつ遠慮がちに話し出した。
だがその声はあまりに小さい。いくら店前の歩道に近寄ってきてくれたとはいえ、ポーチにいるエドワードには雨音に打ち消され何一つ聞くことが出来なかった。
「えっと、よければ中で聞きますけど。」
再び雨に負けない声をだし、自分の声も聞こえないかもと思いながら念のためにドアの中を指すと声は届いたようで女性は頷いた。
エドワードは手早くwelcomeボードを雨の当たらない端に寄せ、初めての来客に『バラウル』の扉をあけた。
始めての客に張り切ったエドワードは外に出る前に仕掛けた淹れたてのコーヒーを今まで来客用に用意して使うことがなかった真新しいカップに注いだ。
女性は先程まで差していた真っ赤な傘を軽く振りたたみ、先程までエドワードがいた玄関ポーチの手すりにかけるとエドワードが開けっ放しにした扉から入った。
「こちらにどうぞ。」
エドワードは入口正面の囲炉裏に用意したコーヒーを置き女性に席を案内したが、女性は首を横に振り長居するつもりはないと短く答えた。
「そうですか、分かりました。
それで、私に何か御用でしたでしょうか?」
「あの…。…ここが探偵だと伺ったのですけど。」
先程まで雨に打ち消された女性の声をなんとか聞き取ることができた。そして初めての客だとエドワードは嬉しくなり笑顔で頷いた。どうやら先程まで聞こえなかったのは雨だけが原因ではなく女性の声自体が小さかったようだ。
未だ聞き取りにくい女性の声を聞こうと女性の所へ寄ろうとしたが、女性はエドワードが一歩寄るごとに一歩下がっていった。
2・3歩こういったやり取りをし、とうとう怯えるように女性は帰ると言い出した。
「あの…。やはり結構です。ここへ来るべきではなかったわ。」
折角長らく待った『バラウル』初めての客であるのに、初回しかも何一つ聞く前に『ここへ来るべきではなかったわ』などと言われ、エドワードは頭を鈍器で殴られたかのような強い衝撃に襲われた。
店の雰囲気は流行の喫茶店を真似ているから居心地も悪くないはずだし、自分だって渾身の演技で優しい紳士に見えるはずだ。ビジュアルだって、おそらくは同年代の男と比較しても見劣りはしないとエドワードは自負していた。にも関わらずだ、それにも関わらず初めて来た客にすら帰りたいと思われてしまうだなんて。
一体なにが原因なのだろうか?
『バラウル』の何がだめなんだとエドワードが悩む一方で、女性は来るべきではなかったと先程言ったもののここから立ち去るわけでもなく一歩も動かずエドワードを見続けていた。
まるでエドワードから話を切り出されるのを待っているかのように話始めるわけでもなくただただ立ち尽くしていたのだ。
ようやく女性の視線に気付いたがエドワードは何を話せばいいのか分からなくなった。どうやら言いづらい内容の依頼のようだ。どうしたものか迷った末に依頼の内容ではなく気になっていた先程の理由について尋ねることにした。
「良ければ、その理由聞かせてもらってもいいでしょうか?」
警戒心が強い女性だということは先程十分分かったから、扉から少し離れた場所にある囲炉裏に先に自分が座って女性が話だすのを待った。
コツコツと店内に無数にある壁時計が時を刻み、10分程沈黙が続いた。
もうこの女性は話す気がないのではないのだろうか?そうエドワードが自分用にも用意したコーヒーを飲みながら気がないのなら帰ってくれないかと思い始めた頃、まばゆい閃光が開けっ放しの扉から女性を照らし同時に切り裂くような雷鳴が鳴り響いた。
その音に急かされでもしたかのように沈黙を貫いていた女性は、ようやくその固く閉ざした口を開いた。
「人に話しても信じてもらえない。」
先程までの蚊の鳴くような小さな声とは違い女性ははっきりそう言った。
そう言った直後女性は己の口を両手で塞ぎ、まるで言ってはいけないこと話したかのように狼狽えた。
この何かに怯える女性を落ち着かせようとエドワードはゆっくりと安心させる口調で女性の言葉に返した。
「大丈夫です。信じる信じないは問題ではありません。
僕は探偵としてご依頼主の話を聞き、依頼を受けるただそれだけです。
是非聞かせては貰えませんか?」
足を組み利き手ではない方の手でカップをとってコーヒーを飲み、理想の紳士像だと言わんばかりの自分の動作や言動を心の中で褒めガッツポーズをとった。
近頃の女性はこういうシチュエーションに弱いと聞く、きっと心を閉ざしたこの女性にも通用するはずだとエドワードは自信満々で女性を見た。
だが巷の噂というのはあいまいなものだったらしく完璧だと思った動作に女性は目もくれず、怯えた表情のまま立ち尽くしていた。せめて馬鹿だなと笑ってもらえたら気も楽になったというのに完全に見なかったこととされ、きまったと調子にのったエドワードの心をえぐった。
「では、依頼を。
信じていただかなくて結構です。どうかあの女を殺してください。」
よりにもよって記念すべき最初の客が殺しの依頼だなんて、『バラウル』を開業して最初の一歩を早くも踏み外したようだ。
探偵は殺し屋ではないとこの女性は知らないのだろうか?
それとも殺し屋は探偵を名乗るものなのか?
それを自分が知らなかっただけなのか?
一周回っておかしな思考になりエドワードは殺人を依頼した女性をまじまじと観察した。
一瞬冗談とも思ったが、女性の行動はどうにも冗談を言う人間像とはかけ離れているように感じる。冗談にしては殺人というのはあまりに悪趣味な話だ。
女性は殺人を依頼すると言うと、あんなに真っすぐエドワードを見ていたのにも関わらず自分の表情はおろかその顔さえも見えないように下ばかり見ていた。
「…詳細を伺っても?」
ゆっくり聞くことになりそうだとエドワードは思い先程まで女性を観察していた視線をようやく外しコーヒーを新し入れにキッチンに姿を消した。それを確認して女は開けっ放しになったままの扉を閉め案内された椅子にようやく腰かけた。
妙なことは女性は腰かけたものの逃げ場を確保するかのように扉の方を向いて座っているということだ。
ようやくキッチンから戻ったエドワードは女性の前に入れなおしたコーヒーを置き少し離れた席に自分も腰かけた。
目の前に出されたコーヒーに口は付けなかったがコーヒーの水面を呆然と見ながら女はようやく依頼内容を話し出した。
女性が『バラウル』に来てから1時間後の出来事だった。
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