第11話
ひと通りの話をした上で、広木はそのタイミングが適していたのか分からないがといった旨を添えながら、テーブルの上に封筒に入った相談料の一万円を差し出した。手元のシーマスターに目をやると、一時間を5分少々満たない辺りを針が示しており、新田が「他には宜しかったですか?」と問い返しながらそれを丁寧に収めた。
新田の部屋を後にした広木は、想定していた以上に有意義な会話が出来たと満足感に浸っており、普段であればそのエリアに足を運べば必ず立ち寄る駅前のショッピングモールの大型書店にも立ち寄りもせず、駐車場で料金の支払いを済ませた。
運転席に乗り込むと同時に携帯電を手に取り、杏子にメールを書いた。
「行ってきたよ。凄かった。少し話せる?夕方か夜にでも」
夕方には返事が来るだろうと、エンジンをかけて駐車場から車を出した。気が高揚しているということもあってか、特に音楽を流す気にもならず無音の状態でハンドルを握り、アクセルを踏んだ。昼時にも関わらず空腹もさほど感じないし、街行く女性に見向きをするのも億劫だ。それは広木が何かに集中するモードに入った時の傾向で、普段であればニュートラルの状態であれ高めな性欲ですら、こういった時には消え失せるのであった。
とはいえ何も腹に入れないのは心もとないと、広木は自宅の最寄りのコンビニの前に停車し、携帯電話の受信メールを確認すると、数分前に杏子から返信のメールを受信していた。
「お疲れ様ー。聞かせて欲しい!今出先だから夕方帰宅したら連絡するね!」
それに了承したというメッセージを返し、広木はまた白シャツにアイロンでも掛けながら杏子との会話に臨めればと、この後の予定について考えた。今日は早めに起きて身支度をしていたし、昼間だがもう自宅でゆっくりしていようと、コンビニで軽く摘まめるものを物色してその支払いを済ませた。
16時過ぎには話せそうだといった杏子からの連絡を受け、その時間まで自宅でまったりとネットサーフィンをしながら時間を潰した。土曜日の日中に自宅でパソコンの前に腰を下ろしてweb上の情報を物色していると、翌日は新宿伊勢丹のメンズ館や、代官山や表参道の路面店にでも足を運びたくなる。広木は自分のこうした物欲は地方育ち所以のものであろうと思う。学生時に誌面で眺めるだけで身近でなかったブランドの数々が、表参道や代官山に足を運べば本店で直接品物を手に取れる。日々の仕事でのストレスは地方出身者の広木にとって既にそのキャパシティーを優に超えていたが、そういった憂さを晴らすように給料が入ればその足で実際に店舗を訪れては実際に着るか着ないか分からない洋服や靴を衝動買いしながらバランスを取った。現職に就いてからのストレス度合いはそれまでの何倍も増しながらも、実入りもそれまでの倍以上の条件で転職が適ったということもあり、その分散財した。その内の何割かを貯蓄や投資に回すといった発想は皆無で、そういった自己投資もある程度の文化レベルが伴わないと行動が成り立たない。
だがこの日の新田との対談により、これまでとは少し違った視点で自身を客観視出来そうな気がする。少なくとも現在の自分の立ち位置が新田の言っていたようなものであるのであれば、その状況や境遇も誰しもが通る道で誰もが乗り越えるべきである、成長過程で恋愛を経験するようなものだ。端的に表現するならば、広木の事後感はそういったものだった。
16時を少し回ったところで、アイロン台をキッチンのコンセント脇にセットすると、広木は杏子とタイミングを計りながら電話をかけた。杏子もそれに2コール目に入ったところで応じる。
「どうだった?」
「率直に言うと、あれで一万円は安いと思った」
「行ってみて良かったってことね。それは良かった(笑)」
「うん。でももしかしたら、そういったことを言ってくれるような人が周囲にいる人であれば、当たり前のことを言っているなという程度なのかも知れない」
「うんうん」
「少なくとも、僕にとってはプラスだった。今の状況も向いていなくて辛い状況なのであればさっさとエスケープしてしまえればって、その背中を押してもらえるだけでも良いと思っていたんだけど、寧ろ誰もが通る道だということを分かりやすく言ってもらえたのが良かったのかな」
そう添えて、広木は自分が感覚的な考え方や行動をする側である事に対して、周囲が論理的に筋道を立てた行動や喋り方をするといったギャップに身を置いていること、将来的にはそういった異なるタイプの者が部下につく可能性は高く、そういった者のものの考え方や動き方は知っておく必要があるということ、この2点だけで自分の今の状況を受け入れられた気がするのだと、杏子に伝えた。
「きっと杏子さんにとっては当たり前のことだと思う(笑)」
「そんなことはないと思うよ」
「いや、やっぱり地方から出て来て思うのは、都市部の人ほどやはり洗礼されているよ。まず周囲の大人の質が違う。そういった環境で育まれた感覚や価値観っていくら僕達が必死にもがいたってそう簡単には埋まらない。一定期間は同じ環境に身を置くとかそういった時間が必要なのだと思う。元々のスタートラインが違うというのは結構残酷だし、キツイ現実だと思う」
「そういったことは考えたことなかったな。スタートラインが違うか…。確かに出身を問わず、裕福な家庭かそうでないかで生活環境は全然違うもんね」
「それも似たような話だと思うな」
「その捉え方は私にとっても新鮮だったかも!」
「だから今こうして周囲の者と同じ環境に身を置きながら、もがいている期間そのものが自分が求めているようなギャップを埋める期間なのかもなって思える気がする」
「また週明けから仕事頑張れそうだね!」
「そう言われると億劫だな…。現実に戻された感!」
「でもそういった日々を重ねることが重要なんだって分かったわけだし」
「概念的な理解と実際にやっていることのとりとめの無さのギャップは微妙だなぁ…」
「文句言わない(笑)」
「まぁ受け入れられると思ったのだから、週明けは気分が違うかも知れない。新しい服でも買ってそれ着て行くかな」
「そういうの大事だよね。わかるな」
「どうせ明日伊勢丹か代官山かへ行こうとしているんだった」
「いいなぁ、私も一緒に買い物したいなぁ。ついて行っちゃいたいんだけど明日仕事なんだよね」
「残念!」
「あ、そういえば。そのうちリカちゃんに会わせるね」
「リカちゃん?」
「今日のみてもらったところを紹介してくれたサカイさん。リカちゃんっていうの」
「おぉ。会ってみたい!可愛い?」
「それは会ってからのお楽しみでしょう」
「僕はいつでも良いよ。こうやっていつも一人だし」
「じゃぁ、来週の金曜日の夜にでも食事する?リカちゃんの都合聞いてみよっと」
「金曜日はいいね。遅くなっても良いし。近所だから一緒に帰れるのも良い」
「私は二人の会話を聞いてからみてもらいに行くか考えよっと」
「そうしたら良いよ」
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