第8話

 場違いな所へやって来てしまったと我に帰る広木であったが、杏子ならこんな非日常的な空間であっても堂々とした佇まいでやり過ごすのだろうかと思う。何なら提案通りに杏子を連ねて訪れても良かったかも知れないと一瞬頭を過ぎる。だが自ら予約をしておきながら、ここまで来ておいて引くに引けないだろうと、平静を取り戻しながら予約の際に告げられた部屋の番号押下し、天井の高いエレベーターホールで暫し佇んでいた。インターホン越しに返って来た女性の声に、広木は予約をしていた旨を告げた。

 エレベーターを待ちながら、仮に杏子の実家に居候することになったなら、一週間分のシャツにアイロンでプレスする週末の一人の時間も必然的に失われるのではないかと、不思議とそんなことを今更ながらふと考えたりしているとエレベーターホールにベルが鳴り響いた。てっきり目の前の扉が開くものと思い込んでいたら背後の扉が表示を点滅させながら開いてる。気後れするのを無理に平然を装うよう、締め出されまいとそこへと乗り込む。取り繕いながらも他に乗り込んだ人はおらず、虚勢を発達自分が嫌になる。


 目的のフロアに到着すると、一番近い部屋の番号とその隣の部屋番号の並びを確かめながら通路を進み、差し掛かった分岐もやはりその番号の並びから察した方に折れて何とか指定された部屋の前まで辿り着いた。そのまま一気にインターネットを鳴らす。エレベーターからフロアに足を踏み下ろしてからは、先ほどまでの気圧されるかのような感覚は不思議と吹っ切れていた。インターホン越しの先ほどの女性の声に、広木が今度は部屋の前にいる旨を告げると、施錠が解除されると同時に中から40代後半くらいの小奇麗な女性が顔を出した。

 スリッパを出されて中へと招き入れた広木は、ミハラヤスヒロのサイドジップを玄関の脇へと揃えた。不慣れな場所に臨むには気に入った服でめかし込んで気持ちを落ち着かせたくなるが、女性とデートをする時のように細身のデニムの裾をゴートレザーのブーツにインして臨んでみたはものの、部屋の中へ招き入れられては当然それを脱がなければならない。またしても杏子だったらこういう時の着るもののセレクトも自分のようには外さないのだろうと思い返す。


 促されるように廊下を進みながら、左手の扉の開いた部屋を外から一瞥すると、中では数人の小学生達がペン習字に精を出していた。もしかしたらこの女性が彼らを指導しているのかも知れない。更にその先の右手の扉に案内されるのだと認識する。広木を待っているかのように扉は開かれていおり、こじんまりした部屋の上手のソファを立ち上がりながら、男性に部屋の中へと招かれた。

 杏子からは僧侶と聞かされていたその男性は、同じ僧侶でもチベット仏教の僧侶のようで、ダライラマのような衣装に身を包んでいた。部屋に備えられている品々は、広木が幼少時から認識する仏壇の周りに備えられていたようなそれらとは様相も異なり、知識の無い広木にしてみればヒンドゥー教にも見て取れそうな象をモチーフにした彫刻などがズラリと並んでいた。またもやその雰囲気に飲み込まれそうになるが、それに反するように男性の表情は非常に穏やかだ。促されるように向かいのソファに広木は腰を下ろした。


 先ほどの女性がテーブルの上に音を立てないようにお茶を出すと、扉を閉めて部屋を後にした。密室で向き合うとやはり気圧されてしまいそうだと思いつつも、どちらかと言えば広木も人と対峙することには慣れていた。ここまで来たら堂々としていようじゃないかと、出来るだけ失礼の無いようにだけは徹しようと思う。初対面の人を相手に、自分の所作にもの足りなさを感じさせるようであってはならない。

 男性が名刺を添えながら、小さな用紙を広木の方へ差し出す。名刺には新田という苗字が記されており、小さな用紙の方には氏名や生年月日、住所や電話番号を記入するフォーマットとなっている。

「差し支えない範囲で構いません」

「特に伏せるようなものもありませんので…」

 そう言いながら広木は空欄を埋め、勤め先の名刺を添えて同じように差し出した。こちらの業界のことをどれだけ認識されているかは分からないが、生業を相手に認識されている方が話が展開しやすいケースもあるのではと思った。新田がそれを受け取りながら切り出す。

「それで、今日はどうされましたか?」

 医者の診察を受けているようだと広木は感じたが、カウンセリングや人生相談はそんなもんだろうとも思いながら広木は会話に応じる。何がどうしたといった、具体的にこれという悩みがある訳では無い。誰しもが抱く漠然とした将来の不安のようなものに対して、新田が自分にどのように返してくるのだろう。

「何があるという訳では無いのですが、職場での仕事がきつくて毎日向いていないのではないかといった葛藤を抱きながら働いています。私は西日本の出身の人間ですが、若い内はと都心に身を置いて経験を積もうと踏んだのですが、いずれは地元に近いところへ帰りたいですし、もし向いていないのであれば見切りをつけても良いのではないか、そんな迷いが拭えないと言いますか…」

 新田は頷きながら話を聞いていた。次第に視線が広木の頭上に上がり、両肩の上を左右目で追いながら、しばらくの間そうしたと思うと静かに口を開いた。


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