重さのない瓶にきみを詰めよう
狂フラフープ
1
その日、教室から天高く空を指差しながら、宇宙人に読ませるために小説をロケットでかっ飛ばすのだと可南子は胸を張り、だからぼくは無視して席を立った。
周りは進学なり就職なりに向け着々と準備を進めている時期、学年主任の桜井から進路調査票の件で呼び出されているぼくたちにそんな暇はない。暇はないのだけど可南子はへなちょこになってぼくのスカートにすがりついたので、ぼくはえへへと上機嫌になって頭を撫でた。それから安売りでまとめ買いした飴を与え、両膝をつき両の手を握る。
そっかぁ。ぼく可南子ちゃんのこと応援するよ。ぼくにできることがあったら何でも言ってね。言うのはタダだよ。その飴は税込八十八円だよ。
棒付きキャンディをぎゃるんぎゃるん舐めながら何事かをもごもご言い終えた可南子と固く抱き合った。女の友情はすぐ無くなるので定期的にこうやって確認と補充をしないといけない。
その後、進路指導室でぼくの口を半開きの開けっぱなしにさせたのは可南子が身に覚えのない二人分の将来設計を語ったことではない。
それが教室で聞いた言葉を外面良く言い換えた全く同じ言葉だったこと。
そういうことをするときの可南子が嘘偽りない本気の本気だということ。
そうして今日、四度目の打ち上げを、いつもの浜でやる。
退避板の裏から、減っていく秒数をふたりで読み上げる。
ふたりで手を繋いで、点火器のスイッチを弾く。
ふたりのロケットが飛んでいく。
ぼくたちの通学鞄にはスーパーコンピュータが入っていて、アポロを月に飛ばした三十八万キロ分の計算を百メートル走より手早く済ませられる。
寂れた町工場の工作機械が五十年前のとびきり腕利きの職人と同じことができる。
可南子はロケット燃料の材料など全てホームセンターで買えると豪語したが、ぼくたちの根城はくそばかド田舎なので、バスと電車を乗り継いでロケット燃料を持ち帰る様を想像しながら断念した。ネット通販は便利だ。
一個目のロケットに名前をつけた。
揃って腰抜けのぼくたちは豆粒に見える距離から繋がっていない点火装置の起動を押し付けあった。まるで飛ぶ気配のない市太郎と名付けたロケットが曲がりなりにも真っ直ぐ飛ぶ頃には、ぼくたちとロケットの距離は触れ合えるほど近付いて、一度火傷をしてぼくたちはロケットとの適切な関係というものを学んだ。
何もかも上手くいかなくて、それでも楽しくてたまらなくて、火薬を混ぜて、アイスを奪いあって、小火を起こし、笑いあい、猫に餌をやって、意味もなくはしゃいで回った。
二個目のロケットを用意するうちに季節が巡った。
夏の終わりのしょぼくれた祭りの、けち臭い打ち上げ花火など眼中になかった。
下手くそな祭り囃子に皆が安っぽい浴衣を引っ張り出すなかで、ぼくたちだけがただのTシャツを煤や泥にまみれさせて、花火を見上げる代わり、古い古い裸電球が照らす鉄屑をいじくり回しながら打ち上げの音を聴いた。夏の夜空を誰かの青春が埋め尽くしても、そのさらに向こうの空はぼくたちだけのものだった。
ぼくたちの良く知る人生の秘訣。
ひとつ、一度きりの自分の人生に恋をすること。
ふたつ、ふたりでやること。
それがクソみたいな現実から目を逸らして薔薇色の人生を満喫するための最高のやり方であること。
貼り付いて離れない自分の境遇の代わりに、それを自分の人生の一部だと思い込むために、ぼくたちはお互いが必要だった。
ぼくは可南子の語るヒューストンや種子島が打ち上げに向いている理屈を半分も理解できない。その不利を補ってこの町でロケットを打ち上げるための計算に至ってはこれっぽっちもわからない。
それでもやるべきことはたくさんあった。
可南子は頼んだ荷物のコンビニ受け取りもできなかったし、アルミの粉と過酸化水素水をおっかなびっくり混ぜ合わせたのもぼくだった。
役場と
バカが好きだ。
頭が悪い奴は嫌いだ。
可南子は頭が良いくせにバカなので、ばくたちはいつも一緒だった。
この町で瓶詰めの手紙を海に流すのが流行っていたのは一年ほど前のことで、地の果てみたいなぼくたちの町では、ときどきこういう時代錯誤な流行が蔓延ってしまう。ぼくと可南子は瓶の中身のメールアドレスを地獄みたいなポルノサイトに登録して回る側の人間だった。
この土地の海流は沖に届くことはない。
彼らの言葉を追うのに、網も船も必要ない。
ここでは波に乗せた言葉は吹き溜まり、汚らしく戻ってくるものなのだから。
三度目の打ち上げは、噂を聞きつけた沢山の見物人の目の前で行われた。
冗談みたいに娯楽のないこの町に降って湧いたイベントに、観衆は群がるように集って空を見上げた。
上空で姿勢を崩したぼくたちのロケットはその直上で弾け、降ってきた。
まるで冗談のように。
誰もが抜け出したいと願い、誰もが本当の居場所でないと信じて過ごす町で生まれ育った。一体誰がこの町を愛している? この町を愛しているのは、もう一生ここから逃げ出せないと悟った人間だけだ。
ぼくたちはどこへも行けない。
ぼくたちはどこへも届かない。
けれど言葉は時間と空間を超え、どこまでだって届く。無限の可能性がある。
きっとそうなのだろう。
波間の瓶から取り出した手紙の内容は、その多くが誰に向けたものでもない独り言だった。美化された、けれど同じ町に住まう者だからわかる反吐のでる現実。
瓶にはたくさんの、遠くに捨ててしまいたい現実が詰められていた。
ぼくたちのロケットに詰められた小説の内容を、ぼくは少しも知らない。
可南子はそれをぼくに見せてはくれなかったし、語ることもなかった。
けれど気が付いたことがある。見ていれば分かることがある。
ある日可南子は鞄を忘れ、それに手を掛けた生徒たちがいた。
彼女たちは悪意を持って晒し上げようとしたわけではないではないだろう。
ただ、持ち主の名前を知るために鞄を開けて、偶然それを手に取っただけだ。けれどそれは折しもぼくたち二人が戻ってきたタイミングに重なって、ぼくを含めてその場にいた可南子以外の全員が凍り付いた。
可南子の取り乱しようが、あまりにも尋常ではなかったから。
度を越えて場違いな怒りは反発さえ生むことはない。場を困惑が覆い、その困惑はやがて可南子自身にさえ伝播した。その場は騒ぎになるでも禍根を残すでもなく収められたけれど、その光景は棘のようにぼくの瞼の裏に刺さって抜けない。
可南子はその小説を、誰にも読まれたくないのだ。
誰も読むことができないほど、遠くへ消え去ってほしいと願っている。
活動の許可が下りず、四度目の打ち上げをゲリラでやると決めたとき、ぼくの仕事はもう何もなかった。
なぜってぼくの仕事は重い物を腰より上に持ち上げることと軽い頭をへそより下まで下げることだったから。
ロケットの飛ばし方なんて何ひとつ知らない。
そうやって手持ち無沙汰になって初めて、ぼくは自分が何も知らないことに気が付いた。
四六時中つるんでいるくせに、ぼくは可南子の家のことを何も知らない。
場違いに頭の良い可南子が、なぜぼくと同じ学校に通っているのか、なぜ進学をしないのか、可南子が何をロケットに詰めて飛ばしたいのか、ぼくは何も知らない。
可南子を遮る全ての挫折が、ぼくたち小娘風情にはどうすることもできない類のものだということだけを、ロケット以外を見ているときの可南子の横顔で知っていた。
だから、ぼくらがどんなにがんばったところで、ロケットは地球の周回軌道に乗せるのがやっとで、深宇宙になんて飛ばせるはずがないだなんてくだらない横槍を、ぼくは一度だって口にしなかった。希望に満ちた可南子の横顔を一秒でも長く見ていたかった。
それでもロケットがすべてを変えてくれると信じていた。
ぼくたちのロケットが弾けて降ってくる。
歓声も悲鳴もなく、誰もいない浜でただ二人、どこへも行けないぼくたちがどこにも届かないロケットを呆然と見ている。
こんな地の果てでだって。
重さのない夢だけは、見知らぬどこかへ届くはずだと信じていた。
けれど吐いた嘘は付き纏って、吹き溜まり、二本の足で事足りる場所に汚らしく戻ってくる。
圧し潰されるような沈黙の末に、可南子の小さな背中が歩き出した。
彼女はぼくの百倍賢くて、けれど決してフォン・ブラウンになれはしない。
歴史に英雄や偉人が打ち立てたいくつもの金字塔の、その足元に眠る、誰にも届かず朽ち果てた、もう読み解く事の出来ない何十万何百万倍の人生。
遥か遠くて芥子粒のように見える、ぼくたちと同じ大きさの人生。
言葉は時間と空間を超え、どこまでだって届く。無限の可能性がある。
きっとそうなのだろう。
けれど無限の可能性を持って生まれ来たはずのぼくたちは、生きて、擦り切れて、それを失っていく。無限の可能性を孕んだ自分の人生を、現実の形に削って生きていく。
劇的で輝かしい人生を夢見たぼくらは普通になることの難しさに喘いで、かつて見た夢のことを忘れていく。
可南子はまだ火傷するほど熱いはずのロケットを掴んで、詰められた彼女の嘘を引きずり出し投げた。
喉を裂くような悲痛な叫びと共に、目の前の冷たく黒い海へ投げた。
渾身の力で投げたはずの紙切れはバラバラになって、けれどひとつ残らず冷たい風に遮られ彼女自身の背丈より近くに墜ちる。
まるでどこへも飛んで行かなかったぼくたちのロケットのように。
その後ろでぼくだけが泣きじゃくっていた。
どれほど多くの人が、自分の人生を言葉にしただろう。
どれほど多くの言葉が、その人自身の人生より遠くまで届いただろう。
人の心というものは、身体の内側から少しも遠くに行きはしない。
ならば人の心を綴った言葉が、どこまで遠くに行けるというのだろう。
黄金に輝くような戯曲、遥か後世に届く物語。遠い未来へ航海を続けるそれらを横目に、市井に生きるぼくや彼女の心は、物語は、歴史上の殆どの人がそうであったように、どこへも届かず吹き溜まり、消えていくのだろう。
誰かにわかってほしかった。
誰かをわかってあげたかった。
遥か彼方に飛ばそうとした彼女の嘘は、足元に転がっている
ぼくも遠くに捨ててしまいたい現実のことならわかる。けれど遠くに捨ててしまいたい嘘とはなんなのだろう。
ぼくは可南子に言う。それが記されたページたちを、焼き捨ててしまおう。燃えて無くなったのだと、そう諦められるように。
可南子は応えた。燃えても無くならない。姿を変えてこの世界に残るのだと。
魂、残留思念、あるいは灰と二酸化炭素。なんと呼んだって良い。ここには死ねども巡るものがある。わたしたちは引き合わされて、ここにいる。
まるで救いのような言葉を、彼女の口は呪いのように吐いた。
返す言葉が見つからなくて、口をつぐんで、ぼくはまた泣いた。
ぼくは可南子のことを知らない。だって、知ればぼくの中の可南子はきれいなままでいられないのだから。
クソみたいな人生の、たったひとつのきれいなものだと思うために、ぼくは彼女を縛り、苛み、蝕むものから目を逸らしている。彼女の苦しみに寄り添ったとき、ぼくはどうやって自分の苦しみに抗えばいいというのだろう。
空想にすがって騙し絵のように立つぼくたちは、下を向けば諸共に崩れる以外に道はない。
けれどそれでもいいとさえ思う。
それでぼくたちがふたりでいられるのなら。
涙を拭う。彼女の嘘を拾い集める。
やめろ、と力なく叫ぶ可南子の、真っ赤になって取り返そうとするひ弱な拳が何度も何度もぼくを打ち据えて、それでもぼくは亀になって彼女の心を搔き集めた。
だってぼくらはどこへも行けない。
だってぼくらはどこへも届かない。
もみくちゃになってぼくにしがみ付く可南子はけれど遥か遠くにいて、心臓の鼓動を感じてさえ心の中身を知ることはできない。
海の向こうに望む場所があるだろうか。空の向こうに望むものがあるだろうか。
無限の可能性も、永遠の時間や空間も、ぼくは欲しくなんかなかった。
近くて遠いきみよりも、ぼくに欲しいものがあるだろうか。
「だからぼくを見て」
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