第20話:ひとときの平安
エクレアとルビアがヘムロック教会孤児院に着任してそろそろニヶ月が経とうとしていた。
当初、エクレアは退屈することを恐れていた。アルバトロスに乗っていなければ自分はきっと普通の人以下だ。社会性はないし、人見知りもある。それに他の人に見せられるようなチャームポイントも(エクレアの主観では、だが)まるでない。
だが、現実は違っていた。
子供達と学び、遊び、修道僧たちと言葉を交わし、そして商店街の人々や農民と交流する。
自分でも驚いたが、エクレアはそんな毎日を楽しみにさえし始めていた。
今では人とすれ違う際には自分から頭を下げる。呼び止めれたらもちろん立ち止まるし、運動会の練習の時には遠くにいるアンに小さく手をあげて応援するようにすらなっていた。
もちろん、アンとの交流も欠かさない。
アンは今では年少組の上位グループに入るほどかけっこが速い。正確にタイムを測ったわけではないが、ひょっとすると、いや、おそらくは確実に一位を取るだろう。
だが、念には念を入れておきたい。
エクレアはアンに伝授したクラウチングスタートを秘密兵器にしようと考えていた。
「アン?」
ある日の練習の終わりにエクレアはアンを呼び止めた。
「なにー?」
アンが小走りに駆け寄りながら笑顔でエクレアを見上げる。
「いいこと? わたしが教えたクラウチングスタートは他の誰にも見せちゃだめよ」
言いながら右の人差し指を立ててみせる。
「クラウチングスタートのお披露目は運動会の日にしましょう。それまでは人前でクラウチングスタートをやってみせてはだめ」
「うんッ」
アンが明るく頷いてみせる。
ダイニングなどの居室がある修道院に帰る時、アンはいつもエクレアの右手を握る。
最初エクレアはそんなアンに戸惑ったが、しばらくするうちに気にならなくなった。
修道院に帰る時はいつもアンの手を握る。それに、アンはどうやらエクレアを『特別な』人として認定したようだった。
今ではお遊戯や食事の時以外は常にエクレアの隣に座る。エクレアもそれがいやではなかったし、一緒にシャワーを浴び、毎晩アンが寝入るまでアンの右手を握ることすらしていた。
とっても小さな、小さな手のひら。
エクレアはその小さな手の感触を事の他大切にしていた。それにヘムロック教会とマウンテン・ビューの人たちとの関係も。
さすがにルビアのように常に笑顔というわけにはいかなかったが──そんなことをしたらもはやエクレアがエクレアではなくなってしまう──、いつの間にかにエクレアは『暗くて無愛想な軍人さん』から『少し暗いお姉さん』に変わっていた。
「ね、先生、行こ?」
アンがエクレアの右手を握り、下から声をかける。
「そうね、アン。今日もたくさん汗をかいたからシャワーに入らないと」
「今日もエクレア先生と一緒に入れる?」
アンの青い瞳が輝いている。
「ええ、もちろん。頭、洗ってあげる」
+ + +
孤児院に休みはない。
ヘムロック教会の孤児院は修道士や修道女たちによって運営される、教会の附属学校のような孤児院だ。院長は他の修道者たちと同様に二人にも休みを与えようと申し出てくれたが、エクレアとルビアはその申し出を辞退した。
ルビアがなぜその申し出を辞退したのかはわからない。一方のエクレアは休みをもらっても時間を持て余してしまうため、休日の必要は特に感じなかった。
そもそも、軌道空母での勤務に休日はない。毎日が
そのためエクレアとルビアは日中を孤児院で過ごし、世間がお休みの時も毎晩キングフィッシャーパブで働くという日々を毎日過ごしていた。
孤児院の朝は早い。八時には子供達に朝食を食べさせ、昼食までは子供達とお遊戯などをして過ごす。
低学年の子供達にはお遊戯を、高学年の子供達には歳に応じた運動を。
最初アンはかけっこ以外の種目の練習を嫌がった。
だが、かけっこで自信をつけたのかアンは少しずつ他の競技の練習も目で追うようになっていた。
いたずら書きをする棒を握ったまま、目で走り回っている子供達の姿を追っている。
「アン、もう一つ何かの種目に出てみない?」
腕を組んで突っ立ったまま、エクレアはアンに訊ねてみた。
「うん……」
今園庭では全学年の子ども達が輪になって踊りの練習に夢中になっている。
曲は『美しき青きドナウ』。
修道女達が子供の間を縫うようにして踊りの手ほどきをしている。
アンは上を見上げると
「エクレア先生と一緒なら……」
と言った。
え? わたしと一緒?
「エクレア先生と一緒ならいい。他の人は怖いから嫌」
「そう」
なんで他の子供が怖いのかはエクレアにも判らなかったが、アンが子供達から少し距離を置いていることは薄々感じていた。
(アンが小さいから、かな?)
アンが黙ってエクレアを見上げている。
「一緒にって、踊り?」
しゃがみ込むと、エクレアはアンに訊ねた。
「うん……エクレア先生、一緒に踊って? ……だめ?」
そういうとアンは再び俯いた。
うーん。ワルツか。ワルツなんてわたしも知らない……
エクレアはひとしきり悩んだが、アンが踊りたいという気持ちは尊重したい。
悩んだ末にエクレアはアンの手を取った。
「わかったわ。一緒に踊りましょう」
「うんッ!」
俯いていたアンの表情がみるみる明るくなっていく。
「じゃあアン、今から混ぜてもらいましょう」
エクレアはアンのスカートの埃を片手で払うと、アンを連れて円舞の中心へと歩いていった。
+ + +
その日の夜、エクレアはルビアに相談することにした。
昼間のダンスは最低だった。アンの小さな両手を握り、一応周囲に合わせて回ってはみたのだが結果は散々だった。
エクレアが勢いよく回るとアンの足が地面から離れてしまう。かといってアンに合わせて姿勢を低くすると今度は腰が痛くなった。
「ねえルビア、ワルツ踊れる?」
キングフィッシャーパブで手が空いた時にエクレアはルビアに訊ねてみた。
「うん、踊れるけど……なんで?」
ルビアが怪訝そうにエクレアの瞳を覗き込む。
エクレアはその視線に耐えられず、俯くとつぶやくように言った。
「アンがね、一緒に踊りたいって……」
「わかった!」
ルビアはエクレアのその一言で全てを悟ったようだった。どこか嬉しそうに笑顔を浮かべている。
「でもそれだったらわたしよりも適任な人がいるわよ。えーと……」
言葉を切り、ルビアが周囲を見渡す。
「ああ、いたいた。シシリアさん、ちょっときてー」
ルビアはパブの客の一人に手を挙げた。
「あら、どうしたの?」
シシリアは近くで農園を経営している老婦人だ。イタリア系の方らしく、常にゆったりとしたワンピースに身を包んでいる。どうやら今日は花柄の日のようだ。シシリアの白いワンピースには薄い水色で大きな花柄が描かれていた。
「エクレアです。今はヘムロック孤児院でお手伝いをしています」
次いでエクレアは今度の運動会でアンと踊りを踊りたい、だがその踊りがどうにもわからないという事情を伝えた。
「シシリアさん、確かソーシャル・ダンスの先生だったんでしょ?」
横からルビアが口を挟む。
「そりゃそうだけど、昔の話よ。今はもうダメ」
「でも孤児院のお遊戯程度なら大丈夫じゃない?」
ルビアがそう畳み掛ける。
「そうね。それくらいなら。でも、何を踊るの?」
「『美しく青きドナウ』です」
「まあ、ワルツね。子供と踊るのかしら?」
シシリア夫人はスッと背筋を伸ばすとワルツの姿勢をとった。
「アンという名前の六歳の子と踊ります」
エクレアは相手が六歳の女の子であることを告げた。
「少し身長差が大きいけど……うん、大丈夫。それならアンという子に女性の振り付けをして、あなたは男性のステップを踊るようにしましょう」
こうして、エクレアは毎晩一時間ずつシシリア夫人のダンスレッスンを受けることになった。
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