エピソード5──運動会の準備──
第18話:アンの気持ち
エクレアはそれからいつもできる限りアンと同じ時間を過ごすようにした。
食事も同じテーブル、運動会の練習は園庭のはずれの方でいたずら書き。
アンは嬉しそうにしていたが、エクレアはアンにもっと楽しい思い出を作ってあげたかった。
「ねえ、アン?」
二人で地面にいたずら書きをしながらエクレアはアンに話しかけた。
「アンも何かやってみない? 運動会」
「何かって?」
俯いたままアンがエクレアに訊ねる。
何か?
エクレアは自分が言ったことにも関わらず考え込んでしまう。
ダンス? それともリレー?
思えばアンも自分と同じ、集団行動が苦手な子だ。
ならば個人競技? 徒競走だろうか?
しばらく考えてから、エクレアは
「アン、あなたはかけっこ好き?」
とアンに訊ねた。
「かけっこ?」
「そう。アンは走るの好き?」
「……あんまり好きじゃない。アンはね、走るの遅いから……」
「そう。じゃあ一緒にかけっこの練習しない?」
「……うん」
ヘムロック教会孤児院の徒競走は年齢別に行われる。同年齢の子どもたちと競争するのであれば、アンにも十分に勝ち目がある。
実のところ、エクレアは走るのが得意だった。学校では常にぶっちぎりで一位、長距離よりは短距離の方が得意だ。
そうであればアンに教えたいことはたくさんある。
短距離走はスタートでほとんど勝負が決まる。他の子供達はスタンディングスタートで走るだろうから、アンにはクラウチングスタートを教えよう。
あとは反射神経。スタートの合図と同時に走り出せるように何度も練習する。
おそらく、これでアンは勝てる。
「アン、じゃあこれからわたしがかけっこを教えてあげるわ。わたしの言うことをちゃんと聞けば絶対に勝てるわよ」
「……本当?」
アンは顔を上げるとエクレアの顔を見つめた。
「本当よ。わたしがコツを教えてあげる」
+ + +
そうしたわけで、その日からエクレアはアンの練習に付き合うことになった。
ヘムロック教会孤児院は基本的には放任主義なので、エクレアとアンが園庭のはずれの方で何事か初めても特に咎められるようなことは起こらなかった。むしろアンとエクレアが何やら練習を始めたことを歓迎してくれているようだ。
「いいことアン」
エクレアはアンの手を取って園庭の端っこに連れていくと、最初に反射神経の練習から始めることにした。
反射神経は反復練習がものをいう。繰り返すことで脳内に回路が作られ、何も考えずとも身体が動くようになる。
「わたしが手を叩いたら、走り出して。ずうっと走らなくてもいいわ。スタートしたらすぐにやめていいから」
エクレアは棒切れを使って地面にガリガリとスタートラインを描くとそこにアンをまっすぐに立たせた。
「さあ、始めるわよ。そこで構えて?」
その言葉にアンがスタンディングスタートの姿勢をとる。
エクレアがパンっと手を叩くのを聞いてからアンが走り出す。
まだ遅い。音と同時に身体が動くようになるまで練習しないと。
「アン、しばらくはこれを練習しましょう。わたしが手を叩くのと同時に走るのよ」
エクレアはアンを手元に呼び戻すと彼女をもう一度スタートラインに並ばせた。
「さあ、行くわよ。よーい」
『いいことエクレア』
これはエクレアの母が彼女に何かを教えてくれる時、必ず言っていた言葉だった。アンに反射神経の使い方を伝授しようとした時、それが自然と口を伝った。
(そういえば、ママも必ず人差し指を立ててこう言っていたんだっけ)
子供の頃の楽しい思い出が蘇る。
ママはなんでも教えてくれた。お料理の仕方、お絵描き、それに勉強。
今となっては失われた過去の記憶。
エクレアのイントルーダーに対する激しい殺意はこれの裏返しだ。
今でもイントルーダーに対する憎悪は凄まじい。だが、それが徐々に弱まってきていることにエクレア自身が戸惑っていた。
(わたしの怒りをアンには知られたくない……)
アンのトレーニング計画をタブレットの上で組みながら、エクレアは家族を失って以来抱えてきた虚無感が徐々に癒えていくのを感じていた。
………………
毎日一時間程度の練習だったが、アンの進歩は目覚ましかった。三日目にはエクレアが手を叩くのと同時に駆け出せるようになるまでアンのスタートは上達していた。
アンも自分が速くなって行くのが楽しいらしく、嬉しそうに笑っている。
そろそろ頃合いだろう。
エクレアはアンの反射神経の進歩に満足すると、今度はクラウチングスタートを教えることにした。
「いいことアン。今日から新しいスタートの仕方を教えるわ。最初はわたしがやってみせるから、よく覚えるのよ」
エクレアがスタートラインに立ち、両手を地面につけて前を睨む。
「よーい、ドンッ」
エクレアは自分でスタートの掛け声をかけて地面を強く蹴り出した。
身体が一気に前に出る。
惰性で三歩ほど走ってからエクレアは今度はアンにクラウチングスタートの姿勢を覚えさせた。
「いいこと? アンはたぶん右足が利き足だから右足を前にして。そして左足は後ろに伸ばすの」
「こう?」
アンの動きはまだ少しぎこちない。
「そうそう。ドンッと同時に右足を強く蹴って身体を前に押し出すの。転びそうになると思うけど頑張って左足を前に出して続けて走って」
エクレアは両手を使ってアンの構えを少し直してあげた。
「さあ、行くわよ。よーい……」
パンッとエクレアが手を叩くのと同時にアンの身体が前に飛び出す。
「アン、これができるようになればきっと誰よりも速く走れるわ。さあ、もう一回やりましょう……」
+ + +
「エクレアさん、ルビアさん、ちょっといいかしら」
あるときエクレアたちはキッチンで昼食の片付けをしている時に後ろからセシル院長に呼び止められた。
「はい、院長」
二人で立ち止まってセシル院長の方を振り返る。
「運動会までもう二ヶ月を切ったじゃない? なので、これからしばらく街のパブでウェイトレスをやりながら運動会の広告をしてきてくれないかしら?」
院長が言うにはいつもはシスターたちがこうした広報活動を行なっているそうなのだが、シスターたちが行くと街の人たちは緊張してしまってなんだか教会の説教のようになってしまうのだと言う。
「お二人ならきっと私たちよりも上手にできると思うのよ。ここから下った街の中程に『キングフィッシャー・パブ』ってお店があるから、もし宜しければ園が終わったらウェイトレスとしてしばらくそこで働いて下さらないこと?」
「……わかりました」
「はいはーい、楽しそう!」
今一つ乗り気でないエクレアに対し、社交的なルビアは大乗り気だ。
「パブってことはビールも飲んでいいんですか?」
「まあ、ほどほどにね。じゃあ、電話しておくから今日から行ってくれるかしら。壁に貼るポスターとチラシはあとで渡すから」
(運動会の広告か……でもアンの気持ちはどうなんだろう?)
セシル院長と別れたのち、エクレアはアンのことに思いを馳せていた。
かけっこの練習は上手くいっている。それにアンも嬉しそうだ。
「エクレアはすっかりアンのお姉ちゃんになっちゃったね」
ふと、隣からルビアが声をかけてきた。
「お姉ちゃん?」
「うん。とっても仲良しになったみたいじゃない」
ルビアは怪訝そうにするエクレアに言葉を継いだ。
「アンも喜んでいるわよ、きっと」
「そう……そう、かな?」
それまでエクレアは他人の気持ちを考えたことがなかった。
でもアンが喜んでいるのであればそれは嬉しい。
エクレアはなんとなく胸が暖かくなるような気がした。
「そうよー。エクレアがあんなに一所懸命に教えているんだもん。アンもきっと嬉しいはずよ」
「そう、かな?」
「うん。エクレアには可愛い妹ができたのよ」
ルビアが笑顔を見せる。
「頑張ってね、エクレア。アンが目立てばきっともっと仲良くなれるわ〜」
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