第6話 天国と地獄

「大丈夫か?」


 イオスの言葉にダニエラは頷いた。イオスは騎士服を着用し、上着を手に持っている。


「今日は一日休むといい。頭の腫れは引いたが、念のためな」

「あの、お出かけ前にキスをしてもよろしいですか?」

「……ああ」


 イオスの許可を得て、ダニエラはおずおずと近寄った。しかし直前になって尻込んでしまう。


「や、やっぱり、イオス様からして頂けませんか?」


 ダニエラの願いに、イオスは昨夜何度も奪ったそれに唇を落とした。彼からの口付けを受けて、顔はにやけてしまう。


「ふふ、うふふふっ。いってらっしゃいませ、イオス様。ふふっ」

「…………本当に大丈夫か?」

「うふ、うふっ。大丈夫ですっ」


 まるで新婚夫婦みたいなやりとりが、さらにダニエラをニヤニヤさせた。イオスは少し引いていたようだったが、そんなことは気にしない。

 ダニエラはイオスを見送った後、再びベッドに寝転んだ。

 昨夜このベッドの上で、二人は結ばれた。イオスは怪我の具合を気遣って優しくしてくれたし、ダニエラが初めてだと分かれば、さらに優しく接してくれた。

 おかげで心配していた痛みも酷くなく、丹念に接してくれることでダニエラは絶頂を迎えることも出来ていた。

 他に男性経験がないため何とも言えないが、きっと身体の相性は良いに違いない。


「良かったぁ……」


 色んな意味でそう呟き、ダニエラは幸せに浸った。

 これでイオスの実家に顔を出すことも出来るし、これからは恋人らしく振る舞う事も、気軽にデートに誘うことも出来るだろう。ダニエラはそう信じていた。

 しかし、そんなダニエラの思いを簡単に打ち砕く事件が起こったのは、数日後のことである。


 ダニエラが家に帰ってのんびりとしていると、急にイオスが尋ねて来た。無愛想な中にも、焦燥の色が窺える。


「どうしたんですか、イオス様……」

「大事な話がある。入れてくれ」


 ダニエラが彼を招き入れると、イオスは座る事もせず一枚の紙をダニエラに差し出した。


「何ですか?」


 その紙を受け取って中を確認したダニエラは、頬を赤らめさせた。これは、ファレンテイン貴族共和国の正式な婚姻届だ。しかもすでにイオスのサインがなされている。


「すまないが、出来ればすぐにでもサインが欲しい」


 一瞬喜んだダニエラだったが、明らかに様子がおかしい。少なくとも、ダニエラが夢見るプロポーズはこんなではない。


「どういう事ですか? 結婚するつもりがあると言ったのは私ですし、とっても嬉しいんですが、これでは……」

「出来れば時間をかけて説得するつもりだったが、そうも行かなくなった」

「イオス様? 一体何の話をしているんですか?」


 イオスの言葉が理解出来ず、ダニエラは小首を傾げるばかりだ。


「中央官庁の奴らが私を罠に嵌めるつもりだ。私は官吏の娘の一人と、結婚させられることとなるだろう」

「……え?」

「知っているだろうが、ファレンテインでは一度結婚すると、三年は離婚出来ない。いや、出来なくはないが、地位の剥奪や、財産の没収、それに半年の禁固刑が待っている」

「……はぁ」

「しかし、三年離婚出来ないことは問題ではない。中央官庁はその娘を使って私から機密を奪い取ろうとしているのだ。離婚しなければ騎士団が不利になる機密を奪われ、我々は中央官庁の言いなりにならざるを得なくなる。離婚に踏み切れば私は失脚し、団長にもご迷惑をかけるだろう。それらを避けるためには、分かるな?」


 早口で説明され、頭の回転の良くないダニエラは、噛み砕いて理解するのに必死だ。

 離婚するとかしないとか、そういうことを避けるためにはつまり……


「その娘と結婚する前に、誰かと結婚しておけばいい、ということですか?」

「そういうことだ」


 ファレンテイン貴族共和国では重婚禁止なので、先に結婚しておけば、次の届けが受理されることはない。その相手に自分を選んでくれたのは嬉しかったが、こんなのは何か違う気がして、ダニエラは物悲しくなった。


「急で申し訳ないと思っている。だが、ダニエラは私と結婚するつもりがあると言ってくれていたし、この間のセックスも満足してくれていたようだった。結婚後は出来るだけダニエラの望むようにするつもりだ。金銭面で苦労はかけない。もっと男を知りたいというならそうすればいいし、子供が欲しいと言うなら努力しよう。三年後には離婚に応じる。無論、そのまま結婚生活を続けてもらっても構わない」


 イオスが何を言っているのか、ちっとも理解できない。

 普通、愛する者に浮気してもいいだの、離婚に応じるだの言うだろうか。そんなプロポーズがあっていいのだろうか。


「もしかしてイオス様……私の気持ちを利用したんですか……」


 イオスなら、事前に情報を掴んでいたとしてもおかしくはない。その対策のために誰かと付き合うことにしたのならば。丁度言い寄って来たダニエラは、恰好のカモだったはずだ。


「……ダニエラの私に対する気持ちは前から気付いていたが、利用するかどうかは迷っていた。正直、ダニエラが私に告白をしてくれた時、しめたと思ったのは確かだ」

「……………」


 利用。イオスの口からその言葉を聞くと、自然と涙が溢れていた。


 私は、イオス様に利用されていただけだったんだ。

 人として好かれているんじゃなかった。

 私はイオス様にとって、ただの道具でしかなかったのね……。


 イオスにとってダニエラは人でなく、ただの道具としか映っていなかったのだろう。そう思うと、何故あんなにも簡単に交際を受けてくれたのか、妙に納得してしまった。


「本来なら時間をかけて理解と納得を得るつもりでいたが、私がダニエラと付き合い始めたことで、あちらも強硬手段に出て来ていてな。この婚姻届を明日提出しなければ、私は近いうちに失脚する」


 ダニエラの涙を横目にイオスは眈々と説明した。

 ダニエラは何も言わなかった。否、何も言えなかった。何も考えられなかった。ただ、イオスに何も思われていなかったという事実だけが、ダニエラに涙を零させ続けた。


「私の命運はダニエラが握っている。……出来ることなら、それを朝一で役場に届けてくれ」


 物言わぬダニエラにそう言い残し、イオスは帰って行った。

 しばらくほろほろと泣いていたダニエラだったが、手の中の物をぎゅっと握りしめる。くしゃ、と静かな音を立てて紙にシワが寄った。

 これにサインをすれば、イオスと結婚出来る。例え望むような結婚ではないとしても。

 そしてサインをしなければ、彼は別の女と結婚する事となり、失脚してしまうのだ。

 どちらを選ぶべきか。

 答えなど、最初からひとつしか用意されていないようなものだった。


 翌日、ダニエラは大幅に遅刻した。イオスの執務室の前に着いたのは、いつもの出勤時間より一時間以上も遅い。

 しかしイオスには想定通りだったらしく、ダニエラがノックをすると、今日は待たされずに入室することを許可された。


「おはようございます、イオス様。遅くなって申し訳ありません」

「いや、いい。役場の開く時間が九時からだからな」

「こちら、受理された証明書です」


 イオスはそれを受け取り確認をすると、ほっと胸を撫で下ろしていた。


「助かった。団長に迷惑をかけるわけにいかないからな」

「……そうですね」

「ありがとう、ダニエラ。住む場所はどうする? 今のまま別々でも構わないが」

「イオス様のお家に引っ越します。流石に両親に言わないわけにいきませんので。別々暮らしていると変に思われます」

「分かった、必要な物はこちらで揃えておこう。足りぬ物があったらすぐ言ってくれ」

「でも、三年間だけです。三年経てば離婚します」


 こんな結婚に意味はない。ただ、利用されただけの結婚。イオスを失脚させないための結婚。知らんぷり出来なかった。愛する者が失脚する姿など見たくなかった。だから、利用される事に決めた。イオスは最初から、ダニエラがこうする事を分かっていたのだろう。

 三年で離婚すると宣言されたイオスは、ホッと息を吐いていた。


「ありがとう、すまない」


 感謝の言葉と謝罪の言葉が一度になされる。


 ああ、やっぱりイオス様は三年での離婚を望んでた。


 それもそのはずだ。失脚を免れるためにした結婚で、一生を縛られる事になるなど、望む男はいないだろう。

 分かってはいたが、やはり涙が出てきた。止まりそうにはない。


「イオス様、泣いてもよろしいでしょうか……」

「ああ、構わない」


 許可を貰って、ダニエラは涙を滝のように流し始めた。

 こんなに悲しい結婚があるだろうか。愛する男との結婚だというのに、こんなに切なくてやり切れない結婚があっていいのだろうかと、ダニエラは嗚咽を漏らす。

 さすがのイオスも、ダニエラのそんな姿を見て心を痛めたのか、そっと彼女に近寄った。


「出来る限り良い夫であろう。要望があれば遠慮せず言ってくれ。三年もの時を奪う償いにはならないだろうが……」

「では、愛してると言ってくれますか……」

「愛している」


 簡単に解き放たれる言葉に、何の意味も持たない事は分かっている。無理矢理言わせた言葉など、中身は空っぽだ。ただ彼は今後三年間、ダニエラに感謝の意を表すためだけに、そう囁いてくれるのだろう。

 ダニエラはイオスと結婚したことで、彼を失脚させられるだけの力を手に入れたのだ。イオスはダニエラの機嫌を損ねぬために、きっと素晴らしい夫を演じるのであろう。ダニエラの我儘を、全て聞き入れるほどに。


「キスをして……っ」


 要望通り、唇同士が触れ合った。

 何て冷たい、無機質な感触だろうか。こんなのは到底心の通ったキスとは呼べまい。ただの皮膚と皮膚の接触に過ぎない。


「ふえっ、ひ、ひっく……」

「ダニエラ……」

「っふ、ううあああぁぁぅっ」


 ダニエラはとうとう声を上げて泣き出してしまった。イオスはそんなダニエラを抱きしめ、「すまない」と呟いた。

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