28.勤勉家のフレッド

 フレッドは執務室で休憩だと人を払い、閨の指南書のページを開いていた。チェルシーとのために読み込んだそれ。他人が見れば、ランサム家に代々語り継がれた大切な書物なのだろうと、勘違いしてしまうかもしれないほどに年季が入っているように見える。


 未知なる行為でチェルシーを傷つけてしまわないためだけに読んでいたので(ついでに妄想を膨らませたりもしたが)、その他の項目はあまり熟読していなかった。


 希薄な関係だった半年ほどは身体の関係を持つのはひと月に一回だったから、チェルシーの周期とうまく被らなかったのだろう。月のものを理由に断られたことがなかったから、女性のサイクルというものに意識がなかった。


(私の失態だ……)


 あんなに顔を青ざめさせて辛そうだなんて。どうにか対処法はないかと必死で文字を追っていく。勤勉であるフレッドは新しい知識を蓄えることは苦にならない。それが愛おしいチェルシーの為なら尚更。


 医学的な解説もある真面目な書物のため、目当ての記述が全くないわけではなかったが、それでもやはり閨に特化した本から得られるには限界があった。愛妻以外には無神経なフレッドではあるが、さすがに他の女性に詳しく聞くのも憚られた。

 本人に聞くのが一番かも知れないが、今はそんな状況ではないだろう。落ち着いたらどうして欲しいのか聞きだせたらいいのだが。


 今までチェルシーの健康状態にしか気にしてこなかったことが歯痒い。こうしている今も苦しんでいると思うといたたまれない。世の中の女性が経験していることならば、せめて何か緩和する方法などがあるのではないか?


(書店か王都の図書館にでも行ってみるか……)


 フレッドは本気である。

 こうしてはいられないと、フレッドは執務机に積まれた本日分の仕事に猛然と取り掛かった。


 王家主催のパーティまであと十日ほど。それまでにはいつもの笑顔を見せてほしい。揃いの衣装を着て、隣で微笑んでほしい。想像しただけで妻が可愛すぎて、誰にも見せたくなくて欠席したくなる。


 今朝から、それどころではないフレッドは、ランジェリーショップが総出でランサム家に来てから数日が経過していたことをすっかり忘れていた。いや、たまに思い出しては、チェルシー本人が健やかでなければ意味がない。彼女の存在があってこそなのだから……。と無理矢理に納得していた。早く見せて欲しいことに変わりはないが、フレッドの天秤はチェルシーの健やかな日々に重く傾いてしまっている。




 フレッドの休憩が終わる頃を見計らって執務室を訪れたハリスは、微妙に上の空だったフレッドが一心不乱に書類を捌いているのを見て、何かを察して時計を見た。休憩中に決意したことがあるのだろう。もちろんチェルシー関係で。

 案の定、昼を過ぎた頃に漸く机から顔を上げたフレッドは、勢いよく立ち上がるとポールハンガーに掛けてあったジャケットに袖を通す。


 ハットを手に持つと、そこで初めてハリスのほうを見た。

「今から出かけてくる。もしかしたら遅くなるかもしれないから母上とチェルシーには先に夕食をとるようにと伝えてほしい」

「かしこまりました」

「見送りは不要だ。チェルシーを起こすといけないからな。あとはよろしく頼む」

「いってらっしゃいませ」


 急くように出て行った主人の原動力は、間違いなく夫人だ。屋敷全体の状況を常に把握しているハリスには様子のおかしなフレッドの原因にも思い当っている。が、しかしハリスもそれに対して知識など持ち合わせていないし、その時の妻を労わったり女性は大変だな、と思ったりしてきた程度だった。


 チェルシーとの距離があった今までは、立場も性別も違うハリス相手に、ああでもないこうでもないと色々と巻き込みつつあったのだが、最近では何かあれば本人に聞けるようになったのはとても大きな進歩だ。

 幸せそうなフレッドに嬉しくもあるが、子供が巣立ったような一抹の寂しさを感じつつ、ハリスはフレッドの纏めた書類の後処理に取り掛かった。


 * * *


 チェルシーは寝室のソファーで本を読んでいた。当たり障りのない恋愛小説は、気鬱な時間を解消してくれるが、フレッドが近くにいないと無性に会いたくなってしまうのが難点だ。

 いつもなら夕食を終えて、再び執務をしていることもある時間帯だからチェルシーの傍にいないのも日常ではあるが、彼が屋敷にいないというのはやけに心細く思えた。


(いつの間にこんなにもフレッド様に甘えるようになっちゃったのかしら……)


 早くフレッドに会いたい。今朝、マリーに追い出されてから屋敷で執務をしているものだと思っていたので、まさか彼が外出しているなんて思いもよらなかった。



 昼まで怠く、皆の好意に甘えてのんびりと過ごさせてもらった。お陰で落ち込んでいた気分共々、体調も夜には回復していた。朝と昼は殆ど食事を取っておらず、やっと空腹を覚えた夕食時、フレッドは外出中で、気にせず先に食事をとっていて欲しいと伝えられた。サマンサと女性ならではの会話に花が咲き、チェルシーの気力も元通りになった。まだ少し特有の痛みはあれど、今朝とは比べ物にならないほどだ。



(ギュッって抱きしめて下さらないかしら)


 本を置いて自分で自分を抱きしめる。こんなのじゃなくて……。


 フレッドに抱きしめられると、温かな湯に浸かっているかのような幸福感でいっぱいになる。ただでさえ少しブルーな今、一人でいることがやけに寂しかった。毎晩一緒に寝ているというのに。そんなことを言えば困らせるだろうか?


 そこまで思って、はたと気付く。


(今日は別々で眠ったほうがいいかしら……)


 だいぶ落ち着いてはいたが、万が一シーツを汚したらと思うと気が気じゃない。それに今夜はとてもではないが何もしてあげられないだろう。寂しさを堪えて、そう決意したチェルシーだったのだが。



 大きなトランクケースをチェルシーの座っているソファーの近くに置いたフレッドは、「ただいま」と言いながら優しく抱きしめてくれた。寂しかった心が満たされていく。忙しいフレッドに寂しかったなんて言えないけれど、ちょっぴりその気持ちを腕に込めて縋りつくようにチェルシーも抱きしめた。


 額に頬に、唇に優しくキスを落とされると、フレッドからは夜の匂いとひんやりとした温度が感じられた。こんな遅くまで伯爵として働いていたフレッドに、寂しいだなんて口にしなくてよかったと安堵する。誠実な彼は気にしてしまうだろうから。


「お仕事はもうよろしいのですか?」

「ああ、既に終わっている。食事も簡単にとったから寝支度をする間、少し待っていてほしい」


 ゆっくりと立ち上がったフレッドに縋り付きたくなる気持ちを抑えて、チェルシーは口を開いた。

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