9.おもい愛

 チェルシーが目を覚ました時には、既にフレッドは自宅を出たあとであった。見送りができなかったことを反省していたものの、本日もメイドたちはフレッドに起こさぬよう言いつけられていたらしい。


 昨晩はどのように眠りについたのか記憶はない。覚えているのは抗いがたい快感の波に飲まれてしまったことだけ。あんなにも乱れてしまったなんて、フレッドは驚いただろうか?挙句の果てに気を失ってしまったのだ。さらりとした身体と、きちんと着せられていた夜着を見るに、フレッドに世話になったことは確実だろう。


「~~~~っ!」


 暫し大きなベッドで羞恥に転がったのは言うまでもない。



 使用人にされるのが嫌ならば、妻たるもの、夫であり伯爵家当主であるフレッドの身の回りの世話をするべきなのに。寝支度を整えてもらった挙句、見送りにすら出られなかったなんて。実家の祖母が知ったら卒倒してしまうだろう。後継者である男子至上主義で、母に大層厳しい人だったから。気の強い母も負けてはいなかったが。


 そんな人ではないと分かっていても、実家にいた時の記憶から、義母のサマンサに会う瞬間は無意識に緊張してしまう。


 彼女がテラスで刺繍をしていると聞き、朝食と見送りをすっぽかしたことについて謝りに向かった。


「お母様、朝の非礼をお詫びいたします」

「やぁね!そんなこと気にしなくてもいいの!大体フレッドが皆にチェルシーを休ませるよう言いつけていったのよ」

 いつになくご機嫌な息子の様子で、夫婦のことを察したサマンサだが、流石に昨晩無理をさせられたのだろうから気にするな、とは言い辛かった。


「それでも、こんな時間までゆっくりしていたなんて……」

「まぁ、あなたのおばあ様はとても厳しい方ですものね。私も行儀作法をよく怒られたものだわ」

 と、しょんぼりと肩を落とすチェルシーに対して、あっけらかんと笑った。


 ランサム家とは親交があったから、サマンサが厳しい祖母と気の強い母との対立を知っていてもおかしくはない。それにしても仲が良いとはいえ格上の伯爵夫人を叱った祖母は相当である。お陰で淑女として申し分ない作法が身に付いているが、おっとりとした性分のチェルシーにとって、気の休まらない実家よりも、ランサム家のほうが明らかに過ごしやすかった。


 まだ嫁いで間もないころ、フレッドは今とは違い冷たい態度だったから、明るくて優しいサマンサの存在にどれだけ助けられたことか。


「ありがとうございます!お母様!」


「ふふ、気にしないで。それよりも明日一緒に舞台に行く予定だった夫人が都合悪くなってしまってね。急で申し訳ないんだけどあなたの予定はいかが?」

「まぁ!嬉しい!是非ご一緒させて下さい」

 だからサマンサのことが大好きなチェルシーは、急な誘いにも関わらずすぐに頷いた。


 今までもこういうことはよくあったから、二つ返事で了承したのは仕方がない。もちろんサマンサの方も、舞台の内容がチェルシーの好む恋愛物であったから、喜ぶだろうと思い、いつものように誘ったわけで。

 しかし今までと状況が変わってしまっていたことに、本人不在のために気付けなかった。今のフレッドとの仲が違っているということに。


 * * *


「え?母上と……二人で?」

 今までならば、報告すらしなかったはずだ。それでもここ最近はティータイムだけでなく、ベッドの上や浴室などで、その日にあった出来事を話すことが増えた。たまにそれどころじゃないときがあるけれど。


 だからフレッドの腕枕で微睡んでいる時に、何気なくサマンサに誘われたことを口にしたチェルシーだったが、言葉に詰まったフレッドに何か失言があったかとドキリとした。しかし今までも何度か義母と二人で出掛けることはあったし、フレッドだって知っているはずだ。


「は、はい。今までもお母様とは一緒におでかけしていましたし……」

 思わず声が強張ってしまう。彼の腕の中はとても温かいのに、どうしてか寒気を覚えた。体温を求めてもっとくっ付きたいのに、ひんやりと冷たい原因は彼にある気がして戸惑ってしまう。躾に厳しい祖母に怒られている時を不意に思い出していた。

 そんな彼女に気付く様子もなく、逃さないとでもいうように腕に力を込めて抱き寄せられる。やはり体感的には温かだが、それなのにチェルシーは身震いをした。


「寒いのか?それはいけない」

 ハッとしたフレッドは、掛布団でしっかりとチェルシーの肩まで包む。少しだけ雰囲気が和らいで、チェルシーは詰めていた息を吐いた。

「……いや、咎めようとしてるわけではない。すまなかった。チェルシーのしたいようにすればいいんだ」

 気付いたらしいフレッドは、慌ててチェルシーの髪を梳くように撫で、頭頂部にキスを落とす。


 彼はどうやら怒っているわけではないようで、密かに安堵した。萎縮してしまった心が徐々に元通りになる。

「はい……。えっとお母様のお友達が都合悪くなったそうで、その代わりに……」

「そうか、どこのご婦人か後で確認しておこう。もしかしたら代わりにその息子や護衛など寄越されてはたまったもんじゃないからな」

「え?」

 言葉の意味が分からず、チェルシーがキョトンとして顔を上げると、グッと言葉に詰まったフレッドは顔を逸らす。ますますわけが分からない。

「ああ、可愛い。至近距離でこんな顔をされては心臓が持たないな……。こんな愛らしいチェルシーを私がいないのに、今まで街を平気で歩かせていたなんて。いや平気ではなかったが、殆ど会話をしていないのにいきなり私が付いていくなんて、チェルシーの戸惑いを思えばできなかったから……。しかしこれからは……」

 口に手を当てて何かブツブツと呟いているが、こんなに近くなのに早口すぎて聞き取れなかった。

「あの、フレッド様?何をおっしゃっているのか聞き取れません」

 ハッと我に返ったフレッドは、少しだけウロウロと目を彷徨わせてから意を決したようにチェルシーの顎を掬いあげた。えっ?と小さく戸惑うチェルシーには気付いていないのか、再び真剣な表情を見せている。しかし先ほどのような冷ややかさはない。寧ろその眼差しは熱かった。


「君とこんなに近付くことができて、嬉しくて日々舞い上がっている。けれどそれに反してチェルシーが私の知らない場所に行くことに対して心配になる。思うよう、好きなように生活して欲しいと思っているのは事実だが」

「は、はい。ありがとうございます?」

 フレッドは分かりづらい。だからお礼をいいつつもまだ意味は咀嚼しきれていない。

「……要するに私はチェルシーが思うよりも、ずっと、もっと心配性で矮小で、嫉妬深いんだ。私のそばを離れることに不安を覚えてしまう。君が可愛すぎるから」


「……っ!」


 今度はよく分かった。やっぱり早口なので理解しきれなかったが、言いたいことが分かってしまった。要するに相手は誰であれ、フレッド以外と街に出ることが心配なのだ。


 可愛すぎるのはどちらだろう。こんなに立派で素敵な男性が、チェルシーに縋ってくれているなんて。

 フレッドの愛を確認できる度に、チェルシーもまた彼への愛情が増していくようだ。


 ちなみにチェルシーは舞台や小説の、情熱的で大げさな恋愛しか知らない。往々にして惚れた腫れたの重苦しい愛憎劇が繰り広げられるのは、そのほうが盛り上がるから演出されているわけで。

 だからそういう恋愛しか知らないチェルシーは、世間一般より些か、いやかなり重いフレッドの愛に疑問を持たなかった。

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