4.甘いつらさ

「ん?どこへ行く?」


 ピタリとフレッドは足を止めた。引っ張っていたチェルシーも上背の高い彼が立ち止まってしまえば引き摺ることはできない。もう少しで食堂へと着くというのに。


「お腹が空きすぎてお辛いのでしょう?早く食堂へ参りましょう」


「は?」


 様子のおかしなフレッドを振り返って見れば、彼は明らかに困惑していた。


 わけが分からずチェルシーは首を傾げる。彼は空腹だったのではないのだろうか?先ほどホールでした会話を思い出すが、おかしなところはなかったはず。


「フレッド様……?」

 今度はチェルシーが戸惑う番だ。その困惑した表情に、漸く誤解していたことにフレッドは気付いた。


(それもそうか。チェルシーが困るのは尤もだ)


 今までの関係からして、あり得るはずもない。それでも甘い誘いでなかったことを残念に思ってしまうなんて、随分と贅沢になってしまったもんだとひっそり自嘲する。

 月一の営みですら遠慮がちであったのに、受け入れられた途端、これほどまで抑えが効かなくなるなんて。自他共に今まで厳しく律して生きてきたというのに。(もちろん自他の『他』の中にチェルシーは当てはまらない)


「いや、すまない。行こうか」


 一転してチェルシーを追い越したフレッドは、今度は逆に手を引いて歩き出す。勘違いをした気まずさを誤魔化すように、早足になるもそれは止まった。振り向くとチェルシーはその場で立ち止まったままフレッドを見つめている。


「どうした?」

「あの、お食事じゃないなら、私と一緒に何をなさるつもりだったんですか?」

「……っ」

「お付き合い致しますから、フレッド様がしたいことを教えてくださいな。私、もっとフレッド様のことを知りたいんです」


 チェルシーはそんなつもりじゃなかったと理解したが、それまで十分その気だったのだ。愛らしくそう言われてしまえば、あっさりと意志は引っくり返る。


 今までは諦めていた。チェルシーとこんな普通の夫婦のような掛け合いを。

 それでも婚姻関係にあって、ランサム家の屋敷の夫人として、フレッドの妻としてずっと同じ屋根の下で生活してくれるならば、それでよかった。


 長きにわたる恋煩いのせいで、チェルシーから好意を向けられるという状況を想定していなかった。よく知りもしない他人がやっかみ半分でフレッドのことを『面白味のない男』と評したのを、妙に納得してしまったのが原因かもしれない。……事実そうなのだが。


 要するにフレッドは自身のチェルシーに対する確固たる重すぎる愛は自覚しているし、変えられようもないけれど、面白味もないくせに無理矢理妻にしたことに対しての後ろめたさがあった。だから彼女から好かれようというなんて烏滸がましいとすら思っていたのである。

 にも関わらずチェルシーは妻になって伯爵夫人としての仕事を頑張って覚えようとしてくれるだけでなく、フレッドの重い愛を臆せず受け入れてくれたのだ。浮かれるなという方が無理だ。


 今も勘違い甚だしいフレッドに付き合ってくれるなんて。


 堰を切った水が勢いよく流れ出るように、チェルシーへの想いが止まらない。水のようにサラサラとはしておらず、どろりとした粘着質なものだが。

 しかし今なら確信が持てる。それすらもチェルシーは受け入れてくれるだろうということを。そう思うだけで、泣きたいほどに幸せだ。


 腕の分だけ距離のあった二人だが、フレッドが優しく引いて玄関での距離と変わらぬものになった。


「先ほど玄関ホールで、食事かそれとも、何て言おうとしたのだろうか?」

「え?えっと……」

 突然の質問に、わけが分からないながらも必死に思い出す。……確か。

「お食事はお済みですか?と聞こうとしました」

「そう、空腹ではある」

「だったら……」

 そう言うが早いか膝の裏を掬われて抱き上げられた。

「ひゃあ!フ、フレッド様!」

 急な浮遊感に驚いて、目を白黒させるチェルシーのこめかみに優しくキスをするとフレッドは歩き出す。


「チェルシーが可愛すぎるのがいけない。会えない間も想像でとても可愛らしいことは知っていたつもりだが、やはり実物は私の貧相な想像力では無理があったのだ。これは今後の課題でもある。が、しかし本物のチェルシーに勝ちたいなんて思っているわけではないが」

「あの、何を仰っているのか……」

 フレッドは急くように階段を上りながら、早口でまくし立てる。凄いことを言われている気もするが、抱き上げられたチェルシーは落ちないようにしがみ付くことに精いっぱいで、思考が追いつかない。


「……私はチェルシーが食べたくて仕方がない。駄目だろうか?」

 流し目でそう囁くフレッドは色気を纏っていて、彼の意味することが理解できた。

 あ、えっと、と戸惑って逡巡していたチェルシーだったが、

「だ、駄目なわけないです」

 そう答えた。


 ごく小さな声だったが、聞き逃すはずもない。やはり受け入れてくれたとフレッドは歓喜した。


「舌を噛むといけないから閉じていたほうがいい」

 首にしっかりと回された腕や、慌てて口だけでなく何故か瞼までをキュッと閉じたチェルシーのあまりの愛しさに、なんども口付けを落とす。もちろんそんなことで彼女を落としたりは絶対にしない。今までもチェルシーが可愛すぎてつらかったが、今はもっとつらい。それは騎士団に在籍していた頃の、酒場で飲んだくれた同僚たちの惨状を目の当たりにしたようなつらさでも、書類に追われ徹夜が続いたときのようなものではない。甘い、甘い幸せなそれ。


 胸に燻っていた想いに応えてくれる日がくるなんて。

 これだけで毎日が頑張れる。今までチェルシーがこの屋敷に存在するだけで頑張れると思っていた自分の肩を叩いて慰めてやりたい。この世には上には上が存在することをフレッドは知っていたつもりであったが、そうではなかったのだ。


 明日はチェルシーを近くで感じていたいから、絶対に屋敷での仕事にしようと決意しながら、フレッドは寝室のドアを些か強引に開けた。

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