第2.8話 共同作業

 鍵を持って第二コンピュータ室へ向かう。すでに秋晴さんは着いているのだろう。そしてそれがこれからも続くのだろう。習慣というやつだ。

 同じことを繰り返すのは嫌いじゃない。慣れれば他のことを考えることが出来る。

 俺は、自分が部活をそれなりに楽しみにしていることに気づいていた。喧騒は嫌いだが、まったくの静けさが好きなわけでもない。何も聞こえないと、気づかないうちに誰もいない世界に引きずり込まれたのではないかと、不安になってしまうのだ。

 俺にとってあの空間は丁度良い。大きすぎず、無駄な物がない部屋。俺と同じく、静かな秋晴さん。異性と二人きりというのは苦手で、可能な限り避けたいのだが、秋晴さんに対してはそういうのはあまり感じなかった。

 こういうことを隆也に気づかれると厄介だなと思っていたら、第二コンピュータ室に着いた。やはり秋晴さんは先に着いていた。

 いつものように挨拶をして部屋に入る。まだ花粉が厄介になる時期だが、ドアは開けておく。別に換気が目的ではない。窓は閉めている。

 形というものは段々と作られていくもので、秋晴さんはいつものようにノートパソコンが置かれた長机の右側に座り、俺もいつものように真ん中に座る。大変素晴らしい。

 この大いなる幸せを噛みしめながらパソコンを立ち上げていると、誰かが入ってくる音がした。振り向くと、岡林先生がペンタブを持ってドアの前に立っていた。

「お疲れ、ペンタブが戻ってきたぞ」

ペンタブを秋晴さんの手元に置くと、ホワイトボードの方に向かった。ホワイトボードの前には、教師が使うのだろう、デスクトップが置かれた机がある。岡林先生はデスクトップを起動すると、そこの席に座った。

「では改めて、元ゲーム制作部顧問の岡林だ。何か手伝えることはあるか?」

そう言うと、ケースを取り出し、タブレット状のラムネを手に乗せ、ポリポリと食べた。

 無い。それが先生の問いに対する俺の答えだ。プログラミングも絵を描くことも出来ないと、前に聞いた。出来る人ほど謙虚で、すぐに出来ると言わないというのは、ネットではよく見かけるが、出来ないと答えることもないだろう。もう少し人手があるのなら、アイデアを出してもらい、面白さを追求してもいいのだが、今のところは最低限のものを、完成させることを目指している。今は絵を描き、それをプログラムで動かすという段階だ。ある程度出来上がれば、テストプレイをしてもらえるのだが、それはもう少し先になるだろう。

 秋晴さんのほうを見てみる。俺の視線に気づくと、さぁと、首を傾げた。こちらも特に思いつかないのだろう。ということで。

「今のところは無いですね。テストプレイの時にお願いします」

顧問に対して少し冷たい気もするが、作品を作るということはそういうことなのだろう。それに、岡林先生にはプレイヤーとしての目線を持ってもらいたいので、ゲームの裏側を知られすぎたくない。

 俺の回答を予想していたのだろう。これといった反応をすることなく、それじゃテスト出来るようになったら教えてくれと言うと、ラムネを口に放り込んだ。

「それ好きですね。毎日食べてるんですか?」

会話を最低限に抑えているが、岡林先生のことが嫌いなわけではない。たまにはどうでもいいことを話さないと誤解されてしまう。

「まぁな、タバコみたいなものだ」

新城君も食うかと、新しいケースを取り出してくる。

「いらないです」

岡林先生は秋晴さんにも聞いたが、こちらからも大丈夫ですと返ってきた。

「タバコって美味しいですか?俺まだ吸ったことないんですよ」

吸いたい気持ちはあまり無いが、興味がないわけでもない。中学生の頃、騒がしい奴らが、タバコとビールに手を出していたが、ほとんどの人の表情は無理しているように見えた。

「疲れてるとな、欲しくなるんだよ。寒いときに手をポケットに突っ込むだろ?同じように気づいたら咥えてるんだ」

癖って怖いよなぁと言いながら、岡林先生はラムネを口に入れて嚙み砕いた。

 秋晴さんが俺を睨んでいるような気がした。タバコの話が嫌なのか、それとも早く作業を始めさせろということか。

 ノートパソコンを起動して、作業を始める。岡林先生もデスクトップと睨めっこしているが、何をしているのかは興味ない。

 秋晴さんから、弾の絵を貰う。今日貰うのは一枚だけで、これのためにわざわざUSBメモリを使うのは面倒だ。

 普段連絡に使うアプリでも画像は送れるが、勝手に透明な部分に色が着いてしまうのだ。素人ながらの予想だと、色はRGB、つまり、赤緑青の3つの値で表されているが、透明度という4つ目の値を増やしてしまうと、データが多くなり、サーバへの負担が大きくなるからではないだろうか。

「USBメモリ使ってるのか?」

岡林先生が聞いてくる。

「はい、他にいい方法知りませんか?」

そういえば、データのやり取りの方法を聞いてなかった。先輩達はどうやっていたのだろうか。

「共有ドライブ使えばいいんじゃないか?容量制限があるが、無料で使えるぞ」

そういうものがあるのか。今まで一人でやってきたから、複数人で効率的にやりとりする術を知らないのだ。

「ありがとうございます。調べてみます」

「おう」

岡林先生はすぐに自分の触っているパソコンの方に戻った。

 共有ドライブという単語で調べてみる。世界一の検索エンジンを運営しているところがやっているサービスらしい。これはクラウドストレージといい、インターネット上でデータを扱えるようだ。そして、自分の持っているデータの中から共有したいものだけを選び、他の人から閲覧、編集を行えるらしい。つまり、俺がインターネット上でフォルダを作り、そこに秋晴さんからも入れるようにすれば、描いた絵を入れてもらえることが出来るのだ。そしてそこには絵だけでなく、ゲームの実行ファイルも入れることが出来るはずだ。そうすれば、現時点でどれくらい進んでいるのかを、いつでも秋晴さんに確認してもらうことが出来るのだ。

 共有ドライブの作成は意外と簡単だった。秋晴さんのメールアドレスも必要だったが、聞けばすぐに教えてくれた。

 とりあえず、弾の絵をアップロードしてもらう。すぐにこちらの画面にも反映されたので、ダウンロードする。開いてみると、ちゃんと透明部分も塗りつぶされずに残っていた。

 次に、実行ファイルの入ったフォルダを圧縮して、アップロードしてみる。秋晴さん側のパソコンでダウンロードしてもらい、展開して動くかを確認してもらう。こちらもしっかりと動いた。

 いいものを知った。便利なものは利用するのが、プログラマの作法である。

 一服がてら、部屋にある時計を見る。本当は、今日中に弾を作り、敵との当たり判定を実装するつもりだったのだが、下校時刻が迫っていた。あと二十分と少し。中途半端なまま、明日に引き継ぐことになるかもしれないと考えると、これ以上作業する気にはなれなかった。

 秋晴さんは、やっと入手できたペンタブを使い、絵を描き始めていた。黒い板の上で専用のペンを動かすと、それに沿って、画面に線が引かれたり、色が塗られたり、消されたりしている。何を描いているのかはわからないが、多分シューティングゲームとは関係のないものだ。

 いつも閉じた後のカギは、秋晴さんが持っていくので、先に帰ることも出来る。後少しなのだから、ゆっくりしてから帰るという手もある。

 数秒間、目を閉じ腕を組んで考える素振りをしたが、こんなことで悩むのは時間の無駄だと思い、スマートフォンを開けて、勉強に使えそうな動画を探すことに決めた。そもそも、バスの時刻は変わらないのだから、ほんの少し早く学校を出たところで、バス停で待つことになるだけだ。

 気になる単語はクォータニオン。それを勉強するために、虚数というものを勉強しないといけないようだ。”imaginary number”と検索してみると、前にも見たことのあるアカウントが動画を出していた。タイトルは、”imaginary number”ではなく、”complex number”と書いてあり、長さは一時間ほどだった。意味を調べてみると、複素数というものだった。

 調べてみると、複素数とは実数と虚数を組み合わせたもの、と書いてある。実数が二つ、aとbがあり、bに虚数単位であるiが付いているのだ。z = a + biという式になるらしい。

 実数というのは、正の数や負の数、0や小数部分があるものなど、実際にある数のことと書いてある。円周率のような小数部分が永遠と続くものも、実数らしい。

 二乗すれば、-1になる数があると仮定したものを虚数単位といい、複素数の式でiとして表されているところだ。iを二乗すれば-1ということは、iは√-1ということだ。どんな数でも、二乗すれば負の数にはならない。しかし、あると仮定して計算に使うと便利らしく、このあると仮定したものを虚数というらしい。

 十分ほど使い、自分なりに解釈してまとめてみた。これで虚数を理解したとは思わないし、この解釈があっているかもわからないので、時間があるときにまた調べてみよう。

 時計は下刻時間の十分ほど前を指していた。隣では秋晴さんがパソコンを閉じているところだった。岡林先生はすでにパソコンを閉じていて、ホワイトボードの前に立っていた。

「お疲れ様です」

スクールバッグを背負い、軽く頭を下げる。お疲れ様ですと返してきた秋晴さんは、パソコンを閉じ終わり、脱いでいたブレザーを手に取っていた。一緒に帰るわけではないので、待つ必要もない。バスに遅れてしまうと、次のバスを待たないといけなくなるので急ぐ。岡林先生は、ホワイトボードに縦と横の線をいくつか引き、四角の中に丸とバツを描いていた。一瞬見ただけだが、序盤のオセロに見えた。もしかすると、さっきまでパソコンでオセロの定石でも調べていたのだろうか。部活の顧問をやっている時は、給料が発生しないと聞いたこともある。少し息抜きをしても、バチは当たらないだろう。

 部屋から出た時に、お疲れぇと岡林先生の声が聞こえた。あの様子だと、まだ帰りそうにない。戸締りは岡林先生がすることになるだろう。

 第二コンピュータ室から出て、いつも通りの道順で帰る。校門前でバスに乗り、家の近くまでこの身を運んでもらう。何を思ったのか、最寄りよりも一つ手前で降りた。

 基本的に、変化というものは嫌いだ。だけど、これから色々なことが変わっていく予感がした。今まで、学校の中で何かに打ち込みたいと思ったことは無かった。その変化は大きく、これからも変わっていくのだろうと予感させた。これが心境の変化なのか、気の迷いなのかはわからない。いつもと違うところで降りたのは、考える時間を作りたかったのかもしれない。ただ、わずかに残る夕焼けの中で光る星を、もう少し眺めていたいと思った。

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