楽園の終わり
雨結 基葉
閉ざされた世界
彼女は夢を見る。降り続ける雨の中、濡れて横たわっている。雨水は溜まり、身体を飲み込んで…
灰色の意識に、声が響く。
「…せさん、水無瀬さん、聞こえますか?」
水無瀬と呼ばれた女性は、身体に力を込めようとする。目蓋はくっついたように開かない。
「お名前を、フルネームでお伺いしてもいいですか?」
どこか作り物めいた事務的な声が問う。
「…みなせ…れん?水無瀬蓮です。」
自信なさげに答える彼女。ようやく目蓋が開いて周囲をぼんやりと見わたす。
薄暗い部屋の中で、プールのようなところに浮かんでいる。蓮を包んでいる液体は、ぼんやりと白い光を放っている。どこからともなく聞こえる声は、質問を投げかけてくる。
「私が今から言う数字を逆順に答えてください、6、9、3、2」
「2、3、9、6」
「私がこれからいう言葉を…」
気怠さに耐えながらのやりとりが10分ほど続いた後、服を着るように声が促す。柔らかそうなロボットアームがタオルと手術着を蓮に差し出す。周りは手術室のような雰囲気だが、誰もいない。蓮の手首には乳白色のリストバンドがついている。柔らかいそれには継ぎ目がなく、自分では外せない構造だった。蓮が服を着終わると、壁にあるモニターに向かう小さな椅子に案内された。
質問は過去の話に移った。
「あなたが学校に通っていた頃の冬、友人としたことを一つ教えてください。」
「冬…確か雪がちょっと積もってて…?……具体的には思い出せないです…」
蓮は自分が過去のことをぼんやりとした印象でしか思い出せないことに恐怖を感じる。その後20分程度質問が続いた後、声は淡々と説明していく。この施設は病院ではなく、国の特殊な施設であるらしいこと。事故によりほぼ脳死の状態で搬送され、治験中のナノドラッグによる治療を受けたこと。その後何らかの理由で施設は無人になり、事前の取り決めにもとづいて、今目覚めさせられたこと。
最も蓮に驚きを与えたのは、事故から既に200年以上が経っているという事実だった。声によると、ナノドラッグ治療の想定外の効果により蓮の身体は修復されてから200年間ほぼ変化しておらず、今後も変化しない可能性が高いらしい。蓮の認知能力は正常だが、脳の損傷により過去の記憶を失っていて思い出す可能性は低い。
一通りの病状を伝えると、声は施設の説明を始めた。この施設には居住用の部屋があり、そこに行けば生活に必要な全ては手に入るようだった。声は、毎日届くナノドラッグを必ず投与することを念押しした。200年が経過し人工的に脳の一部を再生された蓮の身体は、外見こそ20歳の女性のものだが、その内部は通常の人間と完全に異なる。ホルモンの分泌、遺伝子発現、それらをナノドラッグによって毎日制御し続けないと命の危険がある。
声はプログラムされていた内容を話し終えたのか、同じ話題を繰り返すようになった。蓮は薄暗い部屋を後にする。取っ手のないつるっとしたドアは自動で閉まり、その後開くことは無かった。
蓮は、吹き抜けのある広々とした建物の二階に立っていた。吹き抜けの空間には10m以上ある大きな木がどっしりと植えられており、下を見ると丁寧にデザインされた緑と水路に取り囲まれた中庭のようになっている。天井はガラス張りだが、外は曇っていて眩しさはない。木材とコンクリートとガラスが巧妙に組み合わされた内装は、ホテルを思わせる落ち着いた雰囲気を演出している。
壁に浮かび上がる案内と標識に従って、蓮は部屋にたどり着いた。ロフトのある空間で、ベッドルームらしき部分は小さい部屋になっている。部屋の奥は全面3Dディスプレイが設置されていて、窓張りのように自然の風景のCGを表示している。寝床を確保した安心感で休憩していた蓮だったが、眠さはまだなく、施設内を散策するため再び外に出た。
辺りにはゆったりとした音楽が流れている。200年経ったとは思えないほど綺麗に維持された環境だが、人の不在とのギャップが違和感を際立てていた。施設の不自然さはそれだけではなかった。屋内にはふんだんにガラスが使われているのに、天井以外に窓らしきものが無い。中庭を部屋や通路が取り囲む構造の建物だが、周辺部は軒並み研究設備を思わせる標識とスタッフしか入れないドアに閉ざされていて、出口がどこかすら定かではない。訪れる患者や旅行客を受け入れるというより、出入りを拒む設計のようだ。蓮はいつしか早歩きになっていた。
一通り回って戻ってきた蓮は、中庭の一面に天井までそびえたつコンクリート壁の裏側に大きな画面を見つける。下のほうはタッチパネルになっているようで、ボタンを押してみると、プロモーション動画が流れ始めた。場違いに明るい音楽に乗って声が語る。
「《死の光》後の混乱した世界。
人類文化持続機構は、我が国の文化を継承するため2035年に設立されました。」
スタッフの治療と身体保全を行うナノドラッグ医療。
人類の全データを収集・保存する情報アーカイブ。
施設修復と物資供給を担い、自己修復する《アセンブラ》。
「千年の時を超える、人類文明の箱舟。当施設は…」
蓮は自らの置かれた状況を把握し少し安堵した。一時間以上歩き回っていた蓮は軽い疲れを感じる。周囲の壁はいつしかぼんやりと夕日に照らされていた。
自室に戻った蓮はテーブルの上にあったタブレットを操作しつつソファに転がっていた。タブレットでは様々なことができそうだが、インターネットには接続されていないようだ。蓮が空腹を感じ始めていると、突如壁の一部が四角い枠のように光りだし、タブレットに通知が現れた。
「《アセンブラ》焼き魚定食 がまもなく 水無瀬様 居室 に配送されます」
壁を見ていると、光っていた部分が開き、スライドしてトレーに乗った食べ物が出てきた。湯気が出ている。箸が思ったように動かせずに苦労しつつも食べ終える蓮。食事が出てきた部分の近くにはゴミ箱のような記号とスリットがある。若干の不安を抱きつつ食器を入れると、音もなく暗闇に消えていった。壁はいつしか満月の浮かぶ空を映していた。蓮はシャワーを浴びた後、眠りについた。
偽の朝日に照らされ、蓮は目を覚ます。タブレットから自由に食事を選択できることに気づいた蓮はフルーツ入りのシリアルを食べていた。そんな中、壁の一部が小さく光った。タブレットにはこう書かれている。
「《アセンブラ》ナノドラッグ<2241/6/3> がまもなく 水無瀬様 居室 に配送されます」
簡単な角柱上のプラスチック容器に使い方が書かれている。リストバンドで取得された生体情報に従って毎日中身はパーソナライズされるので日中に投与する必要がある。指示に従って手に取るとリストバンドが軽く光る。蓮が腕に押しあてるとざらっとした感触があった。呆気なく投与が終わると、容器には使用済みの文字が浮かんだ。
蓮は再び施設の散策に出かけた。昨日訪れていなかった場所に、開けられるドアがある。蓮が重厚なドアを通り抜けると薄暗い部屋があった。壁の一面を覆うモニターが施設内と施設外の光景を映し出していて、質素なデスクの上にはキーボードが置いてある。部屋の奥にはもう一つ扉があり、通路が繋がっているようだった。
長い通路の端には金属製のドアがあった。蓮が近づくと鍵が開く音が鳴る。両開きのドアの片側を押すと、むせ返るような湿った土の匂いが広がった。そのままドアを開けると、蓮は恐る恐る外に出た。整えられた地面の周りには、50cmほどのコンクリートブロックがレンガのように交互に積み重ねられ、強固な壁を形成し、その外側にはうっそうとした森が広がっている。立ち尽くす蓮の頭上を覆う小さな屋根を、雨がぽつぽつと叩いていた。
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