いとしの我が子
片桐瑠衣
第1話 こんにちは、赤ちゃん。ママは死にそうです。
2021年1月某日に赤ちゃんは存在を知らせてくれた。
前日の夜に夏に控えた結婚式への貯金の件で夫と揉めた私は荒れに荒れて寝不足だった。すでに二児の母である姉にもうすぐ必要だろうと貰った妊娠検査薬のひとつは年末に使用済みで、その後は開けていなかった引き出し。
何を思ったか分からないけれど、生理が遅れていて気分が落ち込んでいて、でもまさかもしかしたらという予感が降りてきたのかもしれない。
パソコンでゲーム作りに勤しむ夫を横目に御手洗に籠る。違うかもしれないし合ってるかもしれないという不思議な高鳴りを抑えつつ結果を待った。
前回とは比較にならない濃いラインが眼前に現れた。
赤ちゃんがやってきた。
目頭が熱くなり、何度も瞬きする。ああ、昨日喧嘩する前にわかってればよかったのに。夫の元にそっと戻り、仲直りも済んでないままに声をかける。
「けーちゃん、子どもができたよ」
夫の顔はよく覚えてないけれど凄く凄く静かに驚いていた。内面が幼く、仕事も長続きせずに不安の多いパートナー。それでもふたりで親になるのだ。
嬉しさと感動のあとに、炎のように覚悟が燃え上がる。
人を育てるのだ。
大学卒業後、半年で出会い一年半で結婚した夫と私。同棲してから引っ越したマンションは防音と築浅だけを基準にその地域では高めの1LDK。お陰で清潔に静かな日々を送れていた。
しかし赤ちゃんが住むとなるとどうだろう。途端に三人暮らしが脳内で構築されていく。
リビングのものを減らそう。布団をベッドに替えよう。絨毯でなくタイルにしよう。玄関以外の小物は全て仕舞おう。服も沢山処分してスペースを作らないと。
しかし脳裏によぎるのは無事に埋めるのかという不安と母になれるのかという怯え。少し前まで学生だった自分が、仕事もまだ三年目で産休育休も実績が少ないのに、手続きを超えていけるだろうか。
お腹を両手でそっと触れる。
本当にそこにいるの。
十ヶ月。
あなたを守り抜けるの。
ちゃんと会えるの。
こんなにも未知なことがまだあったんだ。
自分の体と向き合う一年になる。
誰から伝えようか、年明けの挨拶をしたばかりの会社にいつ報告しようか、夏に控えてる結婚式はできるのか、出産費用とその後の手当が出るまでの無給期間を耐えれる貯金が出来るだろうか、出産頃には夫の仕事は安定してくれてるだろうか考えることは山積みだった。
両家からたくさんの祝福を受けて、友人らからもお祝いと労いの言葉をもらい、職場でもお祝いと応援をもらい、産休育休のありがたさを身に染みながらその日を迎えた。
悪阻は想像していた以上に辛く、毎日のように食後は胸焼けに苦しみ、食道を取り外したかった。そのうち食べなくても胸焼けは襲ってきた。
エコー写真を撮りに行く度に大きくなる赤ちゃんに、少しずつ母としての自覚を養わせてもらった。産院帰りのマクドナルドのポテトがご褒美だった。増え続ける体重に焦りと幸せを感じた。
八年ぶりに暮らす実家では兄と両親にたくさん助けられ、美味しいご飯をいただいて、心穏やかに過ごすことが出来た。
そう、とても穏やかだった。
お手製のおくるみを縫いながら、家事をして、映画を見て、音楽を聴いて、沢山眠って穏やかだった。
まるでこれからくる怒涛の日々の前の静けさのように、小学生の頃を思い出すように守られた日々だった。
その日は寝つきが悪く明け方四時に眠りについた私は、六時半の破水で目が覚めた。予定日までは一週間早いけれど、息子は三キロ半まで成長しており、いつ産まれてもおかしくない頃合だった。
二階の母に電話をする。三十分で支度を整え、産院に向かった。
もしかしたら、今日会える。
十ヶ月お腹にいた息子にこれから会える。
早く出ておいでと声掛けていたけれど、その時ばかりは急に背中をグイグイと押されているように気が急いた。
八時に到着した産院は出産ラッシュの日だったようで、産後のママさんたちの病室に連れていかれ一人にされた。昼食を済ませる午後二時までは平和に寝ていた。
陣痛。
これはどうしてこんなにも……恐ろしい痛みなんだろう。叫ぶほどの痛みは産む直前だけだと思っていた。そう、私は完全に舐めていた。タカをくくっていた。いくつ出産エッセイ、レポを読んだって経験しなければ分からないことがある。
痛すぎる。
腰が爆発する。
腰取り外したい。
なんでこんなに痛いの。
唸り続ける私に助産師さんが湯たんぽをくれたけれど、その後も産科は忙しく何度も何度もひとりきりになった。コロナ禍のせいで立ち会いもいなくて心細かった。
やっと出産エリアに車椅子で連れていかれた時も冷や汗をびっしりとかいて、今すぐ産ませてくれと願っていた。
結果的に、産まれたのは夜七時過ぎ。
全開から二時間後、鉗子分娩になった。
沢山叫んで喉は枯れ果てて、涙で顔は乱れて、砕けそうな腰は体を支えることを放棄して、お股は痛覚ごと切り裂かれたようだった。
直前で入室が許された母も「やめたい、殺してくれ!」と叫びまくった娘を激励し続けてヘトヘトだった。
最初に目にした息子は真紫で、視界がぼやけていたけれど本当に愛しかった。
「まま、赤ちゃんはいつピンクになるの」
満身創痍ながら、絞り出すように母に尋ねた。酸素が吸入されて段々と血色がよくなる息子の頭をそっと撫でる。私も酸素を吸入していたから、こんなにも早くお揃いだなあと温かい水が胸元を浸すような安心があった。
「おめでとう。よく頑張ったね」
医師も助産師も母も優しい言葉をかけてくれた。私は笑顔のひとつもできず、疲れ果てて息子を抱いていた。
ああ、これ全治何ヶ月なんだ。
可愛い。
腰は元に戻るかしら。
なんて小さくて可愛い。
三時間ごとのミルクが始まるのね。
ちゃんと息して寝てるよね。
おっぱいは出るかしら。
本当にお腹に入ってたんだね。
こんにちは、赤ちゃん。
ママは死にそうです。
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