《21》
「————!?」
突然、猛烈な悪寒が、
片腕でも引きちぎってもっと
純白の皮膚に、鳥肌が浮かぶ。
両足が、震えをきたす。
今すぐ、この病室の窓から外へ逃げ出したい衝動に駆られる。
——それは、本能の警告。
自分という存在を塵一つ残さず消滅させかねない、最大の脅威が「出現」したことを告げるもの。
葛升は本能的に、勢いよく真後ろへ振り向いた。
……誰もいなかった。
なんだ気のせいかよ、と安堵し、再び随静の方へ向き直り、
いない!!
「な——!?」
葛升は我が眼を疑った。
さっきまでそこで小便を漏らしながら発狂していた白髪少女が、綺麗さっぱりいなくなっていた。
いつの間にいなくなった?
まだ動ける力があったのか?
窓から逃げたのか? ——窓は開いても割れてもいない。
その窓を除き、この病室で人が唯一外へ出られる口は、葛升が蹴破ったドアのみ。
しかし、そこから出ようとすればすぐに見えるし、逃すわけもない。
何より、もうあの小娘には、逃げる余力も気力も残っていなかった。
「クソがッ、どコに行キやガっタ!?」
邪魔な
一般人が逃げきってすっかり風通しの良くなった病院の廊下には、電撃が当たって出来た焦げがあちこちに刻まれていた。
随静の姿は、どこにも無かった。
「ンだとォ……!!」
いや、いなくなったのは、随静だけではない。
「いヤ、待テ、そレよりモ……」
もう一人、いたはずの人間がいない。
「アノ小僧————どコ行きヤがッタああアアアああアああアアああああアアアあ!?」
随静は狂気から醒めていた。
いつまで経っても、自分を嬲る白い腕がやってこないからだ。
当然だ。今、目の前に、あの白い「魔人」はいない。
さらに自分の小さな体を包み込む、人の体温。
自分は、常春に抱きしめられていた。
「とこ、はる」
男にしては小柄で華奢な彼の体は、しかし随静にとっては大きく感じられた。
今、自分がいる場所は、さっきまでの病室ではなかった。それどころか、屋内ですらなかった。
病院の駐車場だ。
なぜこんなところに自分がいるのかは、分からない。
さっきまで戦っていたのは、病院の五階だ。今いる駐車場まで達するには、結構な時間がかかるはずだ。
意識が飛んでいた? いや違う。
だが発狂していて、周りがよく見えていなかったはずだ。
自分で思っているよりも長い間、自分は狂っていたのかもしれない。その間に運び出されたのかもしれない。
少し離れたところにある病院からは、恐怖にどよもした患者や職員がわらわらと吐き出されていた。みんな早く逃げようと必死だ。
ぎゅっ、と、背中に回された腕に力が入ったことで、随静の意識は常春に抱きしめられているという己の現状に立ち返る。
なんて言ったらいいか分からず、ただただ唖然としていると、
「——大丈夫だよ」
常春が、耳元でそうささやいた。
「僕が、守る」
頭ではなく、心を撫でるように。
「『
それでいて、何もかもを分厚く、優しく、強く包み込むように。
「そして——『日常』も」
常春は駐車場端の芝生にそっと随静を座らせる。
それから立ち上がり、背を向けた。
——大きい。
物理的な大きさではない。
底知れぬ「何か」を、感じた。
自分がひどく矮小に思える「何か」を、感じた。
この世の何よりも頼もしく思える「何か」を、感じた。
「終わらせてくる」
次の瞬間、
常春の姿が——目の前から消えた。
片っ端から院内を荒らしまわって見つけてやろうかと考えた途端、何もない廊下の一箇所に、常春の姿が「出現」した。
「お待たせ」
感情のこもっていない、無機質な常春の声。
「なッ……!?」
感情がこれ以上ないくらい現れた、狼狽で震えた葛升の声。
——いきなり、その場に湧き出した。
あの立ち位置に来るまでの「過程」が、全く見えなかった。
「そんなに驚くなよ。……これから痛みをともなって、もっと驚くことになるんだから」
「テメェ……何ヤりヤがッたぁ? アの小娘はドこヘやッタァ?」
「逃した。場所は教えないよ」
簡単にそう吐かした常春。
しかし葛升は驚きを隠せない。
随静が目の前から消えてから今に至るまでの時間は、一分あるかないかだ。
そんな短時間に姿をくらまし、なおかつ人間一人を担いで隠すなど…………
まして、自分が知覚できないほどに「一瞬」で。
いまだに状況がうまく飲み込めない。
しかし、常春が次に告げた言葉を耳にしたことで、その不気味な疑問も心の端に捨て置かれた。
「————今の僕は、『雷帝』だ」
激震。
心身が、激震。
震えた唇で、
震えた声で、
震えた感情を口にした。
「…………まサか、テメェ」
「全部、思い出した」
「っ!!」
「
さらなる激震。
帰ってきた。
帰ってきてしまった。
この『武林』に。
かつての伝説が。
かつての最強が。
蘇ってしまった。
「もう一度言う。——今の僕は、『雷帝』だ」
ちっぽけな少年の姿をとって。
いや、そんなはずはない、ハッタリだ——葛升は冷静になろうと努める。
しかし、自分の知覚すらかいくぐって随静を逃した正体不明の技…………あんなものが前から使えたのなら、とっくに使っていたはずだ。理由や原理はわからない。しかし、何かの「変化」が起こったのだ。
そんな目の前の現実が、それを許さない。
——逃げたい。逃げ出したい。
我知らず、白い脚が一歩退がる。
一刻も早く、目の前の「最強」から遠ざかりたい。
あの少年がその気になれば、自分など簡単に挽肉にされかねない。
たとえ『
そうだ。孫子も勝てない戦はするなと言っているではないか。ここは一旦退いて対策を練って——
「うッ……!!」
脳にヒビが入るような頭痛によって、逃げ腰な思考が強制終了させられた。
左手甲に刻み込まれた『紋章』が……赤く光りながら疼く。
脳に巣食う『蟲』の仕業だ。
葛升は思ってしまったのだ。——もはや常春は「興味深い研究材料」ではなく「『求真門』にとって戦略的脅威になり得る存在」になってしまった、と。
『蟲』はその思考を「『求真門』をおもんばかる思考」としてキャッチ。
その上で、「何が一番『求真門』のためになるのか」という思考へと葛升の脳の活動を「誘導」した。
葛升の本能は「逃げたい」と叫ぶ。
しかし『蟲』はそれを許さない。
今すぐ殺せ。もはやこの子供は『求真門』の研究材料にあらず。「驚異」なり。『求真門』にとっての害獣を即刻駆除せよ。駆除。駆除。駆除——そのように「修正」する。
逃げられない。
逃げたくない。
逃げない。
戦いたい。
あの小僧を、バラバラにしたい。
『雷帝』の弟子を殺せば、『求真門』の憂いは一つ無くなる。
そうだ、殺せ。殺すのだ。
——恐怖一色だった葛升の精神が、あっという間に「修正」されていた。
にぃぃ、と、怪物的な微笑をその顔に浮かべる白い怪物。
「オいおイオイ、偉大なセンセの威光ニ縋っテ威張っテんジャァないヨぉ。……テメェは
「それはこっちのセリフかな。——これが最後通牒だ。とっとと消え失せろ」
ひたすらに淡々とした常春の言葉に、葛升の心に再び「
しかし、その「畏れ」もまた「怒り」へと修正されてしまった。
修正された感情が、葛升を蛮勇へと走らせる。
「————殺スっ!!」
葛升の全身が眩く発光。
それから瞬く間に稲妻が光速で疾駆、突き刺さった。
誰もいない床に。
「——遅いね」
背後から、聞こえてはならない声が聞こえた。
「っ!?」
葛升の肝が、凍結しそうなほど冷えた。
焦りに駆られ、再びの雷撃。背後を狙う。
「飛び道具なんでしょ? そんな近くから撃っても意味なくないかな」
が、目の前にいきなり常春の姿が「出現」したことによって、またも直撃しなかったことを悟る。
「うワ!?」
驚愕のあまり、葛升は思わず大きく後ろへ跳んで距離を取った。『白猴』の強靭な脚力にモノを言わせた、全力の後退だった。
着地後、何度も電撃を連発させた。
無数の光矢が常春に殺到。
折り重なる雷鳴。激しく明滅を繰り返しながら焦げだらけになっていく病院の廊下。
しかし、電撃の連続が止んだその場所に、常春の姿は無かった。
「無駄だよ」
今度はすぐ左隣に、常春は立っていた。
葛升はとうとう恐慌した。
「う……うあアあああアアアああアあアアあ!?」
「『
発声とともに、常春の全身が空気の帳を突き破って爆進。
踏み込みとともに発せられた正拳が、『雷鳴』とともに葛升の白い胴体に突き刺さった。
「ぇろぁ——」
急所ではない。しかし痛ければどこをやられても同じだ。
常春の拳に込められた莫大な内勁。それによって絶望的な激痛を味わってから、常春よりもずっと大柄であるはずの葛升の巨体が冗談みたいな速さでかっ飛んだ。
病室の壁を突き破り、屋外へ投げ出された。
(痛ェっ……なンて痛ェんダ…………!!)
虚空を舞いながら、常春のもたらした激痛の余韻に浸る葛升。まるで山が高速でスライドして衝突したような、ひどく重鈍な痛みだった。
思い出すだけで身震いが止まらなくなりそうな、破滅的な一撃。
「『雷帝』の内勁の威力は武林一」——有名な話だが、実際にそれを自分が食らおうとは。
だが、あの少年の脅威的な部分は、それだけではない。
(ナんダぁ……あノ移動速度はァ!?)
消えたと思ったら、色んな場所にポッと出てくる。
まるで、瞬間移動のように。
いや、武功は超能力にあらず。「身体技能」だ。
移動過程を経ずに存在を別座標に移動させるなどといったことが、出来るわけがない。
きっと、何らかの歩法だ。
だが、それも詮無いこと。
過程があったとしても、あれはもはや「瞬間移動」と呼んでいいものだった。
五階の高さからの自由落下ののち、葛升の体が背中から地面に叩きつけられた。
普通の人間ならばこの時点で脊柱が粉砕して即死しているが、『白猴』は落下程度ではびくともしない。
葛升の後に続いて、少年も当然のごとく飛び降りてきた。
「生きてるみたいだね。まあ、そうしないと変身した意味はないか」
ただ淡々とした口調を崩さない常春に、何度目かの恐怖を抱く葛升。
「な、ナんダ、お前ヨぉ……ソの歩法ハよォ!?」
「歩法? ああ、『
「な、何言ッてンだぁ……ワけがワカんねェゾぉ!!」
「言わなきゃ良かったよ。時間の無駄だった」
常春がおもむろに歩み寄ってくる。
その一歩一歩が、巨大な仏像のような重みを帯びているように幻視してしまう。
「ひっ——」
恐怖で喉が鳴るが、葛升には二つの幸運が味方していた。
脳に寄生した『蟲』の影響で、「恐怖」が「戦意」に修正されたこと。
『白猴』には優れた自然治癒力が備わっており、立って動ける程度には瞬時に回復できたこと。
恐怖に歪みかけていた白い顔貌が、好戦的な感情を蘇らせた。
「……面白ぇ、面白ェ。さスがハ『雷帝』の内勁。噂に違ワネぇジャぁねぇカぁ。そウデなクちゃ殺し甲斐がねぇッテもンだロォ」
跳ねるように起き上がった葛升が、戦意たっぷりな口調で言う。
対し、常春が向けた表情は——
自分の意思で戦うことができない。そもそもその意思を上位者の思うがままに操られて戦わされている……奴隷よりも惨めな存在を憐れむ目だった。
「…………んダよォ、そノ目ハヨぉ」
葛升の心中に怒気の火種がともった。
「見ンじゃネぇよォ……そンナ目でェ……!」
その怒気は、『蟲』によって有用だと判断されたようだ。
怒りは天井知らずに増幅されていき、
「ブち殺スぞォォォぉォぉォォ!!! 舐メンじャねぇぇェェェぇェ————!!!」
やがて、野獣のごとき激昂へと変化した。
大地を蹴っ飛ばし、爆風じみた勢いで常春との間を潰す。
渾身の力を込めた拳。常人ならば過程すら見えずに頭がスイカのごとく吹っ飛ぶほどの速力が込められていた。
しかし、虚空を殴った。常春が『閃爍』で一歩横へズレたからだ。
そのまま懐へ足を進め、
「『頂陽——」
技の名を発声しようとした瞬間に、大きくバックステップ。
結局、それだ。
どれだけ強力な技が使えるのだとしても、使う時にいちいち技名を口にするのならば、そこから次の技のタイミングを簡単に読める。
瞬時に遠くまで移動できる『雲耀』なる歩法は厄介だが、瞬時に近づいたところで、攻撃のタイミングがハッキリしているのならばさほど怖くはない。
であれば、そこにまだ勝機がある。
葛升がわずかながらの希望を見出した、次の瞬間。
「『
少年の
「なァ……?」
突然訪れた強い揺れ——地震に、葛升は浮遊感と重心の不安定感を覚えた。
直下型地震? こんな時に。これだから日本は。
……いや、違う。
たしかに足元は揺れている。それによって、病院の敷地内にいくつも植わった
しかし——揺れているのは、葛升の周囲にある木蓮のみ。他の樹は微動だにしていない。
ひどく限定的な範囲内の地震。
まるで、葛升だけを狙っているかのように。
そこまで分析して、葛升はこの揺れの正体に気がついた。
これは——内勁だ。
発生源は、少年の足底。
この地震のごとき振動が生まれる直前、常春は大地に足を踏み下ろしていた。
そこから発せられた内勁の震動波が、葛升の足元をぐらつかせ、周囲の木々の梢を揺らしているのだ。
底冷えを覚えた。
天災すらも人の身で再現するなど。
この少年の中には、あんな技が三十も詰まっているのか。
そんなふうに思考している暇は無かった。
少年が目の前からいなくなっていた。
右隣に存在を感じた。
「『
常春が右隣に瞬間移動していると気づいた時にはもう遅かった。猛烈に渦を巻く内勁をまとった拳が、葛升の脇腹を抉っていた。
「ごは————」
小規模の竜巻のごとき莫大な生体エネルギーを捻じ入れられた葛升は、バラバラになりそうなほどの勢いを全身で受けた。皮が剥げ上がり、肉が潰れて削られる。
このまま脚を踏ん張っていると、体が上下にちぎれるまで肉を削がれ続けると判断。後方へ跳ね、常春のもたらすエネルギーの流れに身を任せた。
ほぼ垂直で吹っ飛び、病院の壁に叩きつけられる葛升。コンクリートの粉塵と破片を撒き散らして外壁にめり込んだ。
「グぅッ……!」
一応受け流すことはできたが、それでも葛升の右脇腹の肉は、まるで巨大なドリルで削り取られたようにグズグズになっていた。血がこんこんと流れている。
すぐに『白猴』の優れた自然治癒力が働き、削れた傷がテープの巻き戻しみたいにあっという間に塞がった。
しかし、所詮は全回復ではない。
常春が与えたダメージは、確実に肉体に蓄積している。
恐怖心も『蟲』によって修正されるため、逃げ腰にすらなれない。
戦え。戦え。戦え。死ぬまで戦え。『求真門』のために殉じろ。『真仙』を生み出すための礎の一つとなれ——
それは、葛升が「葛升」の名前を与えられる前にかけられた呪いだった。
その呪いを解くどころか、『求真門』や『
『蟲』に命じられるがまま、蛮勇を見せ続けることしか、葛升には選択肢が無かった。
「くソっ、クそっ、クソぉ————ッ!!」
葛升は捨て鉢のようにそう毒づきながら、
鋭い針のようになっている尻尾の先端はコンクリートを容易く貫き、壁の中を高速で掘り進んで——病院内の鉄骨の一本へと突き刺さった。
医療施設の鉄骨の内部には、接地幹線という金属線が通っている。それに尻尾を巻き付かせ、それを経由して病院内、病院外へと電気的な「通路」を作り出した。
これだけは使いたくなかった——そう思いながら、葛升は「奥の手」を発動した。
「っ——ぉォぉぉぉおオオおおおオオオオオおおおおおオオおおオお!!!」
咆哮。
それに答えたように、設置幹線から尻尾へ、尻尾から葛升の体内へ、大量の電流が流れていく。
ちかっ、ちかちかっ、と、病院内の電灯が不自然な明滅を繰り返し、やがて消えた。
病院だけではない。
遠くの道路で、車同士が衝突する音が聞こえた。……信号機のランプが消えている。
今、この病院を中心に、ものすごい勢いで停電が広がっているはずだ。まるでティッシュに落としたインクの一滴が周囲に広がるように。
それに反比例して、葛升の体の発光が、徐々に強まっている。
常春もその現象の正体を察したようだ。
「まさか……病院や町の電気を?」
「クはハはハははァ!! そウさァァぁ!! 俺ハ街の電力ヲ手中に納めタぁ!! 街一ツを動かすエネルギーそノものガ、テメェの敵ダぁァぁ!!」
バリバリバリバリ!! という耳に痛い破裂音を何重にも奏でながら、葛升は哄笑する。
そう。インフラの電気エネルギーを吸い上げ、自分の力に変える。それが葛升の「切り札」だった。
吸い上げたエネルギーを体内でコントロールするのが少し難しいという難点があるが、それでも電気を全身にまとうことは、武術家相手には強力なアドバンテージを有することになる。
内勁という特殊なエネルギーこそ使うものの、武功の技は基本的に「打撃」「斬撃」「刺突」などといった接触前提の攻撃だ。
しかし町全てのエネルギーを帯びた今の葛升は、わざわざ自分から攻撃しなくとも、相手が技を使うために少し触れただけで瞬時に通電させ、無力化できる。
いわば「アンチ中華武功」とも呼べる我が「切り札」に、葛升はいくばくかの安心感を得ていた。
「……お前、何を考えてるんだ」
常春はそれに対し、驚愕も恐れも抱かなかった。
その瞳に表したのは、静かな怒り。
「病院の中には……機械の力が無いと生きられない人だっているんだぞ。病院から電気を吸い上げるなんて真似をしたらどうなるか、想像がつかないのか?」
「ハぁァ? だカらァ? ンナもん知ルかァボケぇェェ! テメェは踏ミ潰しタ
発光はそれ以降も強まっていき、やがて止まった頃には、葛升の体はまるで恒星のごとき輝きを得ていた。——病院と町の電力の恩恵を犠牲にして。
病院の壁から尻尾が引き抜かれ、また臀部で蕨のごとくロールを巻いた。
「くッはハハはハァ!! 見ヤがレェ、このエネルギーをヨォ!! サッきマでノ電撃とハ比べモノにナらねェ! 町一個分のエネルギーだカらなァ!! 今の俺ノ体に触レた時がテメェの最期ダぁ!!」
バリバリバリバリ!! と破裂音の連続。興奮するとああなるようだ。
「分カるカァ!? タとえ内勁ヲ帯びテいヨウと、テメェが使うノは所詮「打撃」! 俺ニ触レタ時点でテメェは全身ヲ壊死さセて死ヌ! セイぜイ逃げルとイいさァ、体力の続ク限りナァ!!」
眩い稲妻の鎧を纏った葛升が、猛スピードで急迫してきた。
常春は『雲耀』で瞬時に十メートル先へと逃れる。
すると、葛升の全身が、目を刺すほどのフラッシュを見せた。
常春がもう一度『雲耀』でその場から離脱した瞬間、途轍もない数の電撃が瞬時にその場を埋め尽くした。
目標である常春を逃したそれらの光矢は自動車や木蓮の樹に直撃し、爆発や破砕を見せつけた。
町のエネルギーを吸い上げたことで、電撃も強化されているようだ。
さらに、高密度の電気エネルギーを帯びたその肉体での近距離戦も挑みかかってくる。
腕を振り回したりする程度なので物理的威力は乏しいが、そこに帯びたエネルギーに少しでも触れたら最後、常春の全身に通電する。
そうなった場合、たとえ命が助かったとしても、体の一部が壊死して内勁を練れなくなるだろう。
甚大なエネルギーを相手にした死の追いかけっこを、常春は駆け抜け続ける。
とはいえ、葛升も外してばかりではいられない。
いくら町の電気エネルギーを蓄えたといっても、やはり有限だ。吐き出してばかりだと、いつかは枯渇する。
そして、今の葛升は電力の鎧によって守られているからこそ、常春は攻撃できないのだ。
もしもそれすらも枯渇した場合、もはや自分を守ってくれるものは何一つなくなる。
武林を震撼させた技の数々によって、挽肉にされるだろう。
どうすればいい。
どうにか、あの小僧に一矢報いるチャンスは無いのか——
(——あルじゃネぇカヨぉ)
視界の端に映った「ソレ」の存在を認識した瞬間、葛升は我知らず邪悪に破顔した。
それは——駐車場端の芝生で腰を抜かしている随静だった。
その表情には、もはや何の感情も宿っていない。虚ろな双眸が虚空を見るともなく見ている。
もはや別次元に達した戦いを前に何もできなくなり、ただただ放心することしかできない木偶の坊。
しかし、今の葛升には、その木偶の坊がこの世の何よりも役立つモノに見えた。
迷うことなく、葛升は大地が陥没するくらいの脚力で瞬発した。
弾丸のごとく、急激に随静との距離を詰めていく。
案の定——常春が二人の間に割って入る形で「瞬間移動」した。
ニィィ、と破顔した。やっぱりこいつは甘ちゃんだ。『雷帝』なんかにはなれない。
これで常春には二つの選択肢が突きつけられた。
随静を庇って自分が触れられて死ぬか。
随静を見捨ててその場からもう一度逃げ去るか。
随静を抱えて逃げる、という選択肢はもう選べない。今葛升の全身にかかっている速力ならば、常春が随静を抱きかかえる暇すら与えない。
さあ、お前はどっちを選ぶ——
視界の中で急拡大される常春は今、右掌を前へ突き出していた。
「『
そう、少年の口が動いた瞬間、遠雷にも似た重低音が響いた。
「ヌぉォぉッ……!?」
少年の約三メートル先まで到達した葛升は、それ以上前へ進めなくなった。
「ナ…………なんダぁ、コれハぁッ……!? 前に、出れネぇ……!!」
どれだけ後脚の脚力にモノを言わせても、その力のやり場が無く後ろへ滑るのみ。
まるで、見えない激流が進行を阻んでいるかのような感じだった。
ゴゴゴゴゴゴォォォォ……と、遠雷のような重い音はまだ続いている。
しかし、今は雲一つ無い朝の晴天。
そんな場違いな「遠雷」と、突き出された少年の右掌という要素が、「見えない激流」の正体を雄弁に示唆していた。
(マた、内勁かァっ……!)
——正解だった。
『天鼓拳』に直接打撃しか無いなどと、いつ言った?
『龍吼』は、内勁を空間に波及させる技。
自分の間合いから離れた場所まで、内勁の「波」を放出する。
古来より中国人は、雲を「龍」に見立てていた。その「
『龍吼』は、その「
『天鼓拳』の中で、最も習得難度の高い技の一つだった。
常春は攻めあぐねている葛升を冷然と見つめながら、右掌をゆっくりと閉じていく。
——この『龍吼』には、二種類の側面がある。
一つは「盾」としての側面。これは今使っているものだ。「掌」の状態で『龍吼』を発動すると、このように相手の進入を阻む「盾」になる。
もう一つは、「矛」。
「さよなら」
無感情に別れの言葉を告げると同時に、常春の右手が「拳」になった。
途端、放射状に発せられていた内勁が、急激に先細った。
「——ウぉろァ!?」
尖った内勁は、葛升の腹部を風のごとくすり抜けた。
見た目上の外傷は全く見られない。
しかし、その内勁は放射線のごとく、葛升の体内を焼くように傷付けた。
『白猴』になって強化された骨格や内臓が、体の内側でズタズタになっていた。
——その身にまとう膨大な電気エネルギーのコントロールを担っている、体内の「発電器官」さえも。
「あ……あアぁッ…………!!」
葛升もそれを実感していた。
コントロールを失った体内の電気エネルギーが、どうなるのかも。
「な……ナんデ、だァ…………ド、どウシて……コ、こレ、こレほド、ノ……」
これほどの力を持っていながら、なぜ「派閥」などに入った?
この圧倒的な力を持ってすれば、有象無象の三流門派のように群れることなく、孤高の道を歩けたはずだ。
いや、もしかすると『求真門』さえも、この少年にかかれば——
そんな葛升の心中の疑問を読んでいるのかいないのか、目の前の小さな『雷帝』は、厳しくも誠実さを帯びた眼差しで真っ直ぐ葛升を見つめながら、言った。
「——人が人らしく生きるには、『日常』が必要だからだ」
それに対する返答は出来なかった。
葛升の純白の巨体が、不規則に光量をアップダウンさせ始めた。
体内に蓄積されたエネルギーが、今にも暴れ出そうとしていた。
「イ……いヤだぁ……」
怪物的な表情しか浮かべてこなかった葛升の白い顔貌に、初めて人間臭い表情が生まれた。
死への恐怖。
「死ニタく…………死にタクねェよォ……!」
脳にいる『蟲』は頭痛を起こして訴えてくる。
何をしている、最期の最期まで足掻け、死ぬならせめてあの小僧に抱きついて道連れにしろ——と。
「し、死ニたクない……死ニたくナイ、死ニタく——」
しかし、葛升は従わなかった。従えなかった。
その場で立ちすくんでいることしか出来なかった。
自己の命への執着という「強烈な情動」が、『蟲』の呪いよりも遥かに強烈な『気』を生み出し、肉体を支配していた。
それが、『蟲』の数少ない「弱点」の一つだった。
いかに『求真門』に有利な方向へ思考や知能を「修正」しようとも、人が人である以上、本能的な欲求がある。
親子の情、強すぎる憤怒、生への執着——そういった本能的欲求に端を発した「強烈な情動」には、『蟲』の洗脳も効果が薄い。
たとえば、
葛躙は『天鼓拳』を奪うために常春を生け捕るように命じられていたが、途中でその命令を無視して常春を殺そうとした。
——「葛躙」になる前の葛躙は、幼い頃に親から虐待を受けていた。虐待されるたび、台所のナイフを眼前に突きつけられて脅しをかけられていた。
刺されることはなかったが、その「尖端」に対する恐怖は、幼い心に刻印のごとく
常春は意図的でないとはいえ、「尖った破片」で葛躙の片目を潰してしまった。それが葛躙の中にトラウマ由来の憤怒という「強烈な情動」を生み出し、『蟲』の呪縛を解いてしまったのだ。
麗慧も同じであった。
彼女の中にあった、親子の情という「強烈な情動」が、『蟲』の呪いを無視して
葛升もそんな二人と同じように、呪いを破ったのだ。
しかし、もう何もかも遅い。
葛升の体内のエネルギーは、もはやいつ暴発してもおかしくなかった。
常春は随静を抱きかかえ、『雲耀』で瞬時に避難した。一度に移動できる限界距離である五十メートル先まで。
遠くから見守る。決定的な瞬間を。
やがて、
「う…………うあああああああああぁぁぁぁぁぉぼらぁ!?」
見ている者の目を焼かんばかりの大発光とともに、葛升の全身が「爆砕」した。
白い肉体の破片が無数に周囲へ拡散。常春の足元にも、葛升の右腕の破片が飛んできた。
爆発を終えてもなお、電気エネルギーは眩い明滅を繰り返し続けていた。そこを中心として、天に向けて細長い龍のようなアーク放電が拡散している光景は、いっそ芸術的ですらあった。
常春はそんな稲妻の情景と、己の拳を一緒に視界に入れた。
——また一人、この拳で殺した。
やはり、後味が悪すぎる。
相手がどんな悪人だったとしても、良い気分は決してしない。
けれど、後悔はしていない。
自分はようやく、『日常』を守る、ということを、自身の力で成せたのだ。
そうだよね、『爺さん』——
「——っぅっ!?」
唐突に、強烈な頭痛が常春を襲った。
両腕に抱えた随静を努めて優しく降ろし、痛みを訴える我が頭部を抱える。
痛い。痛すぎる。だが、これは初めて経験する痛みではない。
いつものやつ。『空白の二年間』の記憶を思い出そうとするたびに走る、脳に亀裂が入るような激しい頭痛。
「が、ああ、あ、あ……!!」
だけど、今回はいつもと違う。
いつもは追憶をやめようとすればすぐに収まるはずなのに、今回は一向に痛みは止まない。
当然だ。——今の自分は、どういうわけか『封印』が完全に解けて、『空白の二年間』を全て思い出している。
だが今になって、『封印』が戻ろうとしている。
『空白の二年間』に片足どころか両足突っ込んで一番奥までイってしまっている自分の記憶を、もう一度押し戻そうとしている。
今まで葛升相手に使っていた技が「何」であったのかを、猛烈な勢いで忘却しているのが実感できる。
「い、いや、だ……っ!」
ものすごく痛い。
でもそれ以上に、ものすごく怖い。
また、忘れてしまうのか。
せっかく、またあなたに会えたのに。
『爺さん』。
次の瞬間、常春の意識は、まるで電灯を消したように闇に沈んだ。
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