怪譚

炒飯

零話 遡行者




 この白い部屋から、私の一日が始まる。

 毎朝、女性の看護師が熱を測りにくるため、ここが病院であるのはわかった。

 午後になると男性の医者がやってくる。

「絵を描いてみようか」

 医者は私に色鉛筆と落描き帳を渡して部屋から出て行ってしまった。

 十一歳の私は小学校に行かなくていいのかなと思ったが、なぜか体がだるいのでこのまま休みたかった。

 私は落描き帳にたくさん絵を描いた。

 部屋の中をうろつく影のような生き物。

 私にはそれが見えた。

「この生き物は喋るのかな?」と医者に聞かれたが私は首を横に振った。

 あの生き物は喋らない。

 ただ歩き回っているだけ。

 そうやって絵を描き始めてから一週間後、知らない女の人がきた。

「わたし伏宮遥。よろしくね、綾乃ちゃん」

 なんか、きらきらした人で私が使いきった落描き帳を持っていた。

「よく描けているじゃない。これが見えるの?」

 私はうなずいた。

「病院は”これ”が出やすい。あと学校とかにも出る。彼等は人の記憶を好むから」

 その人をじっと見続けてわかった。

 きらきらしているのは、あの目だ。

 制服を着てるから、中学生っぽい。

 とにかく、私よりも年上のお姉さんなのは確かだ。

 前髪の髪留めがすごく似合っていて、まるで私がなにを考えているかわかっている……話していてそんな感じがした。

「わたしがこの生き物をなんで知っているのかって顔してる。綾乃ちゃんはこないだの事件のショックで表情と声を失ったらしいけど、わたしにはわかる。誰とも喋りたくないのもね」

 私は表情の出し方を忘れてしまった。

 どうやって笑ったり泣いたりしていたんだっけ。

 ここに初めてきたとき、医者に「体調はどう?」と聞かれたので『顔がうごかなくて声がでません』と紙に書いた。

「しばらくしたら治るからね」と医者に言われた。

『しばらくってどれくらい?』

 そう思ったけど、なんとなくそれを聞いてはいけない感じがしたので聞かなかった。

 よくわからないけど、私は落ち込んでいるようだった。

 でも、なにに落ち込んでいるんだろ。

 遥さんは医者と話しあっている。

 二人で「けいかかんさつ」とか「やくざいとうよ」とか言ってたけど、なんなのかわかんない。

「ここにずっといても退屈よね。外に行きましょう」

 ここを出ていくにしても、いま着てる白い服しか病室にはなかった。

 私が困っていると遥さんは「その患者衣のままでいい」と言う。

 病院の外には大きな黒い車が停まっていて、中から運転手がでてきた。

「乗って。これから面白い場所に連れて行ってあげる」

 運転手が後部座席のドアを開けてくれたので乗った。

 シートがすごく広いから寝そべってみると家のソファみたいだった。

「そうしていると子猫が丸まっているみたい。かわいい」

 遥さんにそう言われて恥ずかしくなったから、普通に座りなおした。

「綾乃ちゃん、声が出ないのよね」

「…………」

「綾乃ちゃんには、わたしのやってる仕事を手伝わせたくない。あなたみたいに”こっち”の素質がある子ほどね」

 そう言いながら、遥さんはすこしだけ悲しい顔になった。

 たぶん、私はこの人にあきらめられている。

 なにをあきらめられているんだろ。

 車は二年前に社会科見学で行った国会議事堂の裏を通って、すぐのところの駐車場に入った。

『ここ、どこ?』

 私は目で訴えるように遥さんを見た。

「ここは内閣府。そうね……喩えるなら大きな区役所みたいなものかしら」

 遥さんの後ろをついて建物に入ると背広を着た大人がたくさんいた。

 お父さんが勤めてる会社ってこんな感じなのかな。

 ――そうだ、お父さんはどこだっけ。

 それに、お母さんも。

 あれ。

 最後にお父さんとお母さんに会ったのいつ?

 あれから、ぜんぜん見てないけど。

 あれから?

 あれからって……いつ?

 いつ……?

 いつなんだろ……。

「綾乃ちゃん、こっち!」

 お父さんとお母さんのことを思い出そうとしていると、遥さんに呼ばれた。

 どこに行くのかしら。

 遥さんとわたしは階段を下りて、ぜんぜん人のいない廊下を歩く。

 頭の上の蛍光灯もちかちか点いたり消えたりしてるし、怖い。

 遥さんがドアを開けて部屋に入ったので私もそれに続いた。

「そのパイプ椅子にでも座ってて。これから資料を持ってくるから」

 遥さんは部屋の奥の扉をあけて、どっかに行ってしまった。

 この部屋はなにもない。

 机と椅子、奥のドアの近くにある流し台とコンロしかなくて、テレビとか棚もなかった。

 ここにベッドを置くと私のいた病室みたいだ。

 なにもすることがないので天井を見上げていると、奥から遥さんがたくさんのファイルを両手で抱えてやってくる。

「綾乃ちゃんが見たのはこれ?」

 私は首を縦に振った。

 遥さんがファイルをめくって指さしたところに写真が貼られている。

 それは半透明の影みたいな人型の生き物で幽霊みたいだった。

「これは影水という妖怪……わたしたちは妖怪をアヤカシと呼んでる」

 わたしたち――まるで自分以外にも、そう呼んでいる人たちがいるみたいな言い方。

 遥さんを横目で見た。

「わたしだけが呼んでるわけではなく、この部署ではみんなそう呼んでいる」

 私は、ずっとしゃべっていないのに。

 この人は心を読める。

 どうやってるんだろ。

「綾乃ちゃんは驚いたととき、無意識のうちに瞬きが増える。そして状況を理解し、なにが起きているのかと理由を探す。思考を読むのは手品と同じなの。どれだけタネを準備できるかにかかっている」

『ちゃんと説明して』という目で遥さんを見た。

「綾乃ちゃんが入院してから今日まで病室のカメラで監視していたのよ。物事に対してどれくらい集中するかとか、どういう性格なのかとか。そういうデータを解析していくと綾乃ちゃんは物静かだけど感情の起伏が激しく、好奇心旺盛で記憶力がいいのもわかった。だけどちょっと生意気なところがある。たくさんある監視データの蓄積で綾乃ちゃんがなにを考えているか、なんとなくわかるわけ」

 私は表情こそ動かないものの『生意気じゃないもん』と内心で怒った。

「あら、気に障ったようね。ごめんなさい」

 遥さんに頭を撫でられた。

 それから彼女は毎日、私の病室にくるようになった。



 遥さんと会ってから一年後の春。

「卒業おめでとう」

 内閣府の地下事務室で資料を読み漁る私に遥さんはそう言った。

 今日が三月十五日で小学校の卒業式なんて忘れていた。

 私にとって学校というのは縁遠いものであり、”あの事件”以降は一度も行っていない。

”あの事件”で私の両親が死んだのは思い出した。

 でも、いまだにどうして死んだのかわからない。

「それから、央苑中学に合格おめでとう」

 私はなんのことか理解できず、遥さんを見た。

「こないだ学力テストをしたよね。あれって、あそこの入試問題だったの。綾乃ちゃんなら、わたしの行ってた中学に受かると思って。来月からちゃんと学校に通うのよ」

 私は不満の意思表示で首を振った。

「ここでアヤカシについて知識だけを深めても、使いどころがないでしょう。あなたが次にすべきことは、この部屋にはないの」

 遥さんは小学生のわたしにはわからないなにかを伝えようとしているようだった。

「世の中に出る前、あなたには未来に繋がるなにかを見つけてほしい。来月から高校生の、わたしが言うのもおこがましいけど。こういう話しって普通は親がするのかもしれない。でも、あなたもわたしと同じで家族がいないから」

 この人は謎な部分がたくさんある。

 そもそも、この内閣府という場所で彼女がなにをしているかもわからなかった。

 何度か聞いてみたが「部外者には言えない」と答えるだけである。

「あなたがこれからすべきことは、たくさんの人たちと出会うことよ」

 わたしは『やだ!』という気持ちでいっぱいになり、横に座っている遥さんに抱きついた。

「学校に通うなら、いつでもこうやって抱きついてもいいから」

 遥さんは私を宥めるように言った。



 中学校に通うのは、とても気が滅入る。

 無口なくせに成績だけはトップの生徒など、誰からも相手にされなくて当然だ。

 下校して自宅のマンションに帰っても、私に「おかえり」と言う家族はいない。

 リビングのテレビを点けると斉藤俊二という議員秘書のインタビュー映像が流れており、コマーシャル後の天気予報が流れ始めたところでスマホが鳴った。

 液晶画面には伏宮遥と着信表示されている。

『時間あるなら、これから外を歩かない?』

 遥さんはそう言っているが、時間は午後八時をまわっている。

 中学生の私としては、家から出るのを躊躇うような時間だ。

『そんな遠くまで行かない。そのへんを散歩するようなものよ。どう?』

 私がしゃべらなくても遥さんは話しを続けてくる。

『……そう。じゃあ、下で待ってるから』

 なにをどう察したのか、遥さんは私が行く気になったのを感じ取っていた。

 結局、さっきの会話でも私は無言のままだった。

『どこに行くんですか?』

 マンションの入り口にいた遥さんに私は目でそう訊いた。

「ちょっと歩いてみよっか」

 遥さんはそう言った。

 夜は好きではない。

 いつからだろう、夜が嫌いになったのは。

 ──たしか、両親が死だときからだ。

 どうやっても両親の死因を思い出せない。

 思い出してしまったら、私は自分を見失う……そんな嫌な感覚だけは明確にあった。

「綾乃ちゃんも夜が嫌いだものね」

 近所にあるゲームセンターに入店しながら、遥さんは言った。

「……はい、これあげる」

 遥さんはクレーンゲームで器用に取った黒猫のぬいぐるみを私にプレゼントしてくれた。

 店内を一通りめぐってから、私たちは外に出る。

 二人で十分ほど歩いてるうち、新宿の歌舞伎町前までやってきていた。

「ここってさ、いつも人がたくさんいる」

 夜の歌舞伎町などめったにこないので、人の多さに唖然とした。

 テレビなどで見てはいるが、こうして現場にくると他の歓楽街にはない活気を感じる。

「こにいる人たち、どんな過去があるのかな。綾乃ちゃんはそんなふうに考えたことない? わたしはある。ここにいる人たち全員に過去があるなんて考えただけで、眩暈がするの。だから普段は考えない」

 遥さんは歌舞伎町とは別の場所に、また歩きだした。

「今夜は一ヶ月ぶりに公務がないの。たまには気晴らしもいいよね」

 しゃべるのは苦手。

 自分の心境を語っても無意味な気さえする。

 両親を失った私の悲しみなど、誰もわかってくれない。

 一時期、精神科医のカウンセリングを受けていたが、私の心はなにも変わらなかった。

「綾乃ちゃんの声を一度でいいから聞いてみたい。医者の診断だと、あなたは両親の死によるトラウマで声の出ない心因性失声症。なにかのきっかけで声を取り戻せる」

 私は遥さんと会話さえできればいい。

 この先もずっと、この人だけと話せれば良い。

「わたしのことをそこまで想ってくれてるのね。うれしい」

 私は自分の頬が熱くなるのを感じた。

 でも、本当のことだから仕方なかった。

「夜って、わたしも苦手。最後に両親と過ごしたときを思い出すの。このまま二度と朝なんてこないんじゃないか、とかね」

 そう言った遥さんの横顔はとても悲しそうだった。

 こんなきらきらした太陽みたいな人でも、大切なものを失った表情になるのね。

 それを見ていると私も悲しくなった。

「やっぱり、綾乃ちゃんは素質ある。わたしは後天的に感応力を高めたけど、あなたは天性のものらしい」

 なにについて語っているのか、まったくわからないが私は褒められているようだ。

「わたしが悲しそうな顔をしたら、あなたも悲しそうな顔になった。あなたは無表情だけど、わたしには見える。あなたの表情が。わたしがやってる仕事は、そこまで読み取れないと務まらない。でも、本音を言うと複雑かな。あなたみたいな子ほど、”こっち”にきてほしくない」

 遥さんはあきらめの表情になる。

 私はその表情を彼女との初対面で見ていた。

「わたしはあなたと初めて会ったときから諦めてる。あなたは”こっち”にきてしまう。才能は正しい場所で正しく使われるべき。でも、当人の性格はどうかしら。あなたは”こっち”にくるには優しすぎる」

 ――ああ、そういうこと。

 遥さんはすでに読み取っているのだ。

 私が遥さんの後を追うのを。

 別に隠していたわけじゃない。

 でも、いまは彼女と一緒の道を歩む以外は考えていなかった。

「いつ見ても綺麗な黒髪。このまま、腰のあたりまで髪を伸ばしてほしい。いまのセミロングの綾乃ちゃんもいいけど、もっと髪の長い綾乃ちゃんも見てみたい」

 遥さんは私の左頬を撫でながら言った。

 顔が真っ赤なのが自分でもわかるし、全身が汗ばんでいるのもわかる。

 この人のために髪を伸ばす――私は、そう決めた。



 私が中学二年生になるころには遥さんの自宅に呼ばれ、週末は宿泊もした。

 同じ時間を二人で長く共有しているせいか、私のアヤカシに対する知識は飛躍的に増していく。

「晩御飯はトマト煮込みハンバーグを作りましょう」

 遥さんと料理を作るなんて今夜が初めてである。

 いつもは遥さんが都内のレストランに連れて行ってくれた。

 こうして二人で晩御飯を作るのも悪くない。

「わたしは挽肉を捏ねるから、綾乃ちゃんはトマトソースを作って。まず、オリーブオイルで刻んだニンニクとタマネギをフライパンできつね色になるまで炒める。ホール缶のトマトを入れるタイミングは、わたしが教えるから」

 私は慣れない包丁さばきでニンニクを微塵切りにする。

 手がすべり、包丁の刃で左手のひとさし指を切ってしまった。

 じんわりと赤い血が指先に滲んでいく。

 赤い液体が一滴、私の足元に落ちていった。

 どこかで、これに似たものを見た。

 いつもなら何も起こらないのに、いまは強烈な頭痛がする。

 こんなに強く、記憶障害の症状が出るのは初めて。

 ──不味い。

 体が震えだした。

 包丁を持っている手が痙攣するほどの恐怖。

 まるで私だけ大地震の揺れがきているようだった。

 血に反応しているのではない。

 血と包丁の組み合わせが、私の心の奥底を揺り動かしているのだと気づいた。

「……大丈夫!?」

 近くにいるはずの遥さんの声が十メートルくらい離れた場所からのように聞こえた。

 私は両親が死んだ夜を思い出していた。

 いえ、思い出してしまった。

 過呼吸で上手く息継ぎができない。

 あの夜──両親が惨殺された一部始終を私は見ていた。

 包丁で切り付けられた母の首から噴き出す真っ赤な血を顔に浴びたのを思い出した。

 噎せかえるような血の臭いが鼻の奥で甦る。

 胃からこみあげてくる不快感。

 私はキッチンのシンクに何度も嘔吐した。

 最後はなにもでなくなり、胃液だけが口から流れ続ける。

 ──自宅の廊下に倒れている父の死体。

 もう命の宿っていない、父の形をしているだけの物体。

 お父さんもお母さんも、この世界のどこにもいない。

 ──どこにも。

 どこにも、いない。

 体温がおかしくなり、凍えるような寒さに襲われる。

 目の焦点が定まらない。

 どこを見ても両親が目の前で殺された映像がフラッシュバックしている。

 現在と過去の隔たりが消え、自分が小学生にもどってしまったような生々しさで、あの日の夜が再現された。

 泣くことも、声をだすこともできず、封じ込めていた記憶だけを見続けていた。

 自分の体を支えられなくなり、床にへたりこむ。

『こんな辛い現実なんて、たくさんだわ。もう、動きたくない。このまま、お父さんとお母さんのいる場所に行ってしまえば楽に……!』

 私は衝動的に近くに落ちていた包丁を右手でつかみ、そのまま自分の喉を突こうとした。

「綾乃ちゃん、やめなさいっ!!」

 遥さんにその場で組み敷かれ、私は仰向けで両腕を押さえつけられた。

 喉を突くはずだった包丁が床に落ちる。

 そして遥さんの平手が、私の頬をしたたかに打った。

 料理作りで和やかだった雰囲気は死臭の混じる私の記憶によって消え去ってしまう。

『嫌だ。こんな救いのない現実なんて、すぐにでも終わらせたい!』

 何重にもなって滲んだ天井の照明を見上げ、私は絶望に打ちひしがれていた。

 私の上半身に乗った遥さんの荒い呼吸と乱れ髪が、いま起きている異様な状況を物語っている。

 遥さんの泣きそうな顔。

 私はそんな表情の遥さんを見てしまったのを後悔した。

 だけど、いつもと変わらない部分が一つだけある。

 遥さんの髪留めだけは普段通りの輝きを宿していた。

 私はそれを見て、正気にもどりつつあった。

「しっかりして、綾乃ちゃんっ!!」

 半ば嗚咽したような遥さんの声が、はっきりと聞こえた。

 呼吸と体温も少しずつだが、正常なものになってきている。

 しかし鈍器で殴られたような激しい頭痛と足元のおぼつかない平衡感覚はどうにもならず、誰かの手を借りなければ到底立てるような状態ではなかった。

 ひとしきり錯乱した私の前に、立ち上がった遥さんの右手が差しのべられる。

「未来の悪夢が始まったのではなく、過去の悪夢から醒めた──故にその夜を醒刻と呼ぶ。その言葉は、特殊対策部の内部資料に挟まっていたメモ用紙に書かれていた。いつ書かれたのか知らないけど、きっと昔いた調査員の誰かが、わたしたちのために残しておいてくれたのよ。そして次はあなたが受け継ぐ言葉」

 私はためらいがちに、遥さんの手をにぎった。

 遥さんに引っ張り上げられ、私はふらつきながらも立った。

「年頃の女の子がこんなに胸元をはだけていては駄目」

 さっきの取っ組み合いで外れた私の白ブラウスのボタンを遥さんは丁寧につけ直す。

 きっと私の顔は羞恥で真っ赤だ。

 遥さんが私に触れるたび、くすぐったくなる。

 これでは幼児と母親の関係ではないか。

 でも、これでよかった。

 私に触れるのは、遥さんだけでいい。

「これから特殊対策部の研修生になるんだから、服装の乱れにはどんなときも気を付けて。身だしなみは他人を信頼させる第一歩よ」

 遥さんから私は何度もその言葉を聞いた。

 私が過去のトラウマで心神喪失状態になったとしてもこんな調子なので、遥さんにとって”だらしない恰好”というのは鉄の掟を破るのに等しい行為なのかもしれない。

 すでに遥さんがアヤカシと呼ばれる人外と交渉する内調の特殊対策室の調査員であるのを聞いていた。

 私もその部署に研修生として所属するのが現時点で内定している。

「ここの後片付けは明日でいいから、今夜はもう寝ましょう。綾乃ちゃんも疲れてしまったでしょうし……ごめんね」

『遥さんが謝る必要なんてない。三年間も、あの記憶と向き合えなかった私のせいなのに』

 遥さんはこうなった原因を作った自分が赦せなかったのかもしれない──私を抱きしめたまま、「ごめんね」と何度も繰り返していた。



 シャワーを浴び、遥さんの寝室に入った。

「おやすみなさい」

 遥さんは言いながら、部屋の明かりをリモコンで消す。

 ここは千代田区にある高層マンションのため、いくつもの燭台に火が灯っているようなビル群の明かりが薄いカーテン越しに見えた。

「……起きてる?」

 遥さんは暗い寝室で私に話しかけてきた。

 私は同じ布団の中の遥さんに顔を向ける。

「綾乃ちゃん、さっき自暴自棄になって死のうと思ったでしょ。辛い現実から、逃げてしまえば楽だって。でもね、この世に残された人たちはどうかしら。綾乃ちゃんが両親を失ったように、わたしは綾乃ちゃんを失う。わたしも、そういうの嫌なの。綾乃ちゃんと同じように、もうたくさんなの」

 遥さんの声にはいつも温もりが感じられず、真冬に吹く北風のように冷たかった。

「両親はわたしが小学六年生のときに亡くなった。借金苦による一家心中だった。あの日の寒い夜を、まだ覚えてる。今夜はなんでも買ってあげるって母が言った。綺麗な洋服や靴とか買ってくれて。そのあとは高級レストランでフルコースを食べたわ。味なんて覚えてない。それよりも両親と食事をしている……そっちのほうが、わたしにとって掛け替えのないものだった」

 私は身じろぎひとつせず、遥さんの話しを聞いている。

「夕飯後、車を運転する父は山に向かった。誰もいないような山奥。そこで母は車から降りて、トランクから練炭の入った七輪を車内に持ってきた。なんでそんな物を使うのって母に聞いたら、今夜は寒いからこれで暖まりましょうと答えた。わたしを殺すため、母は嘘をついたの。運転席の父は、すでに死んでいるかのように無言だった。明日、目覚めれば幸せな毎日が待っているから、ここで安心して眠りなさい……そう言った母の目は真っ黒に塗りつぶされ、わたしの姿なんて映していなかった。翌日の早朝、山菜取りにきた老人が車を発見し、搬送先の病院でわたしは目覚めた。両親は一酸化炭素中毒で死亡、わたしだけ奇跡的に生きていた。あとからわかったけど車体の後部が少しだけ歪んでいたらしく、バックドアの下に微かな隙間があったの。わたしは酸欠に悶え苦しみ、残った力を振り絞って車内を這い、その隙間を見つけた。そこから微かな空気を吸ってるうち、気絶していたの」

 遥さんの過去を初めて聞いた。

 なんて言っていいかわからず、私は布団の中の遥さんの手をにぎった。

「やっぱり綾乃ちゃんは”こっち”に向いてない。でも……ありがとう」

 遥さんの手が私の手を握りかえした。

 温かい手だった。

「辛いのは綾乃ちゃんだけじゃない。わたしもなの。いつか、わたしたちは辛い過去を乗り越えて幸せになるときがくる。そう信じているの」

 遥さんは顔は暗くてよく見えない。

 だけどいつもみたいに、きらきらと太陽のように瞳が輝いているのは想像できた。

 遥さんは言葉を続けた。

「自分の感情を他人に伝えるのは生者の役目よ。死者にその役目は二度と訪れない。綾乃ちゃんの失声は心因性のもの。声を出せるかどうかは、あなたの心にかかっている」

 暗がりで聞く遥さんの声は子守歌のように落ち着く。

「綾乃ちゃんはわたしを超える予感がある。それがどういったものなのか、想像もつかないけど。遡行者ではない、別の何かになってしまうのかもしれない……わたしはなにを言っているのかしら。あなたに期待しすぎているのかも」

 ソコウシャ――初めて聞く単語が出てきたが、なにを意味するものなのか私にはわからなかった。

「本当は綾乃ちゃんに教えるものなんてなにもない。他人からどう見えるかは知らないけど、わたしは努力で遡行者としての能力を伸ばしてきたの。でも綾乃ちゃんは、すべての下地がすでに整っている。あとは実践するだけ。この世界はいろいろな人たちの気持ち――心で動いている。綾乃ちゃんの心が未来を創り、闇の中の希望に繋がる。どんな絶望に直面しても、それを絶対に忘れないで」

 その言葉は、私にとって数少ない真実のうちの一つに聞こえた。

 でも遥さんは一歩どころか一万歩は私の先を行く。

 こんな人を超えられるなんて思えなかった。

 それに希望なんてない私は自分が何者なのかさえわからない。

 誰か、教えて。

 私が何者なのか。

 絶望しかない私は、これから何者になればいいというの。

「あなたが何者なのか、内調にくればわかるかもしれない」

 そう言った遥さんは私の頭を撫でた。

 私は飼い主に撫でられた猫のように安らぎ、目を細める。

「長話が過ぎたようね。おやすみなさい」

 遥さんに二度目のおやすみを言われると同時に私は深い眠りに落ちた。



 中学三年生に進級したばかりの春。

 私は内閣府の特殊対策室にいた。

 ここは執務室のようで応接テーブルと椅子が用意してあり、奥にある木製の机の上には書類の束が積みあがっている。

 この部屋の主が膨大な量の案件を抱えているのが、すぐに見て取れた。

「どうぞ椅子に掛けてください」

 私の前にいる、七三分けに銀縁眼鏡の男性が部屋の主だ。

 さっき渡された名刺には安土公克と名前が書かれていた。

 彼に言われるまま、私は椅子に座った。

「伏宮さんから、あなたのことを前から詳しく聞いています。今日は予め伝えておいた契約書の作成をしますので、判子の用意をお願いします」

 私は頷き、学校鞄から判子を出した。

「こことここにサインを書いて、判子を押してください」

 安土は書類の名前欄を指さして言った。

「それでは研修ということで、内閣府はあなたを採用いたします。その際、毎月の給料が発生しますので後日、銀行口座の入金を確認してください。本日の用件は以上です。お疲れさまでした」

 私がおこなったのは特殊対策室への所属申請だった。

 執務室を出ると遥さんが待っていてくれた。

「特殊対策室へようこそ。そうは言っても、いまの綾乃ちゃんは研修中だけど。本採用は約一年後になる予定だから、その間にいろいろ覚えてくれると助かる」

 この日から私の生活は一変した。

 まず、遥さんとの同居生活が始まった。

「今夜は手軽で簡単な料理を教えるわね。和風ハンバーグだけど……大丈夫そう?」

 遥さんは以前に私がトマト煮込みハンバーグを作ってる途中で両親の死を思い出したのを気にしているようだった。

『大丈夫』と首を縦に振った。

 あれからトラウマに苛まれる機会は減り、この半年は両親の死に顔が脳裏に蘇って軽度の鬱状態になるくらい。

 前のように自分の首を包丁で切ろうなんて暴挙に出ようなどとは思わない。

 ──だって、今の私には遥さんという大切な家族がいるのだから。

「じゃあ綾乃ちゃんは肉を捏ねて。その間に冷蔵庫から大根と大葉を用意しないと」

 遥さんが言うように和風ハンバーグはすぐに完成した。

「明日、午後から時間が空くから、どこかに出かけよっか?」

 私は和風ハンバーグを食べながら、いつもどおりの無表情だった。

 だが内心では、とても嬉しかった。

 翌日の午後、私たちは内閣府の車で高速道路を神奈川方面に向かう。

「綾乃ちゃんは、ここ来たことある?」

 私は首を横に振った。

 今、私の目の前には金文字で中華街と書かれた大きな門が建っている。

 神奈川県横浜市中区山下町の一角──言うまでもなく、国内最大の中華街である。

「はぐれないように手をつなぎましょう」

 遥さんと私は手をつなぎ、観光客でごった返す通りを歩く。

 街中は赤や黄といった原色に彩られ、そこに夕焼け空が相まって、異国情緒あふれる雰囲気に包まれていた。

「今日は食べるわよ!」

 遥さんと露天の肉まんや胡麻団子を食べ歩き、中華料理屋でフカヒレラーメンと麻婆豆腐を食べる。

「あのお店、おいしかったでしょ? 事前にネットで調べてチェックしておいたの」

『おいしいけど太りそう』

 私は素直な感想を遥さんに視線で伝えた。

「綾乃ちゃんは、もうちょっと食べないと。痩せてて、背も低いんだから。あと特殊対策室は体力勝負なのは覚えておいて。長時間の張り込みもある。それから私の命令は絶対に守って。命に関わるから」

 それは遥さんから以前にも忠告されていた。

 確かに遥さんは早朝に出かけて帰宅が深夜なのも珍しくはなかった。

 そういった公務は見習いの私には危険なので、遥さんに同行するのを赦されていない。

 本心としては遥さんが鋭い洞察力でアヤカシ事件解決の糸口を発見し、私は単なる助手役で良かった。

 それが適材適所というものだろう。

 遥さんの仕事ぶりは素晴らしく、難解なアヤカシ事件でもすぐに解決してしまう。

「そんなふうに人をアテにしていると一人になったとき、なにもできなくなるわよ」

 遥さんはどこかで買ってきたカップに入ったバニラアイスクリームを私に手渡しながら言った。

「だけどアヤカシたちが困った綾乃ちゃんを助けてくれるかもしれない。あなたってアヤカシたちに好かれそうだから」

 持っていたアイスクリームを食べ終わるころ、私たちは中華街から近い山下公園にやってきていた。

 あたりはすっかり暗く、ライトアップされた巨大な観覧車が打ち上げ花火のように輝いていた。

 近くには私たちしかおらず、まるで貸し切りの絶景ポイントだ。

「綾乃ちゃんは将来の夢ってある?」

 遥さんは潮風を全身に受け、私に問いかけてきた。

 ありません──と、私は首を横に振った。

「私は二十代後半で結婚して、幸せな家庭を築くの。そしていつか夫や子供と、この場所に来たい。それが私のささやかな夢。結婚式には是非、綾乃ちゃんが仲人をやってほしいな」

 遥さんは私に向かって、そう言った。

 結婚願望が遥さんにあったのは意外だった。

「そんな意外な話しでもない。わたしの子供にはわたしのような辛い人生ではなく、幸せな人生を歩んでもらいたいの」

 風に靡くセーラー服の襟を直し、遥さんは目をきらきらさせながら言った。

 どうして私がこの人を好きなのか、いまわかった。

 ──希望。

 私が失くしてしまった希望を、この人は持っているからだ。

 しかし、それには危うさがあった。

 例えば、その希望が彼女の中で潰えたとしたら。

 何故だかわからないが胸騒ぎがした。

 この人は自分の希望……未来を投げうってでも、もっと確かな希望を選ぶのではないか。

 遥さんは恐怖を理性でねじ伏せるほどの強靭な精神の持ち主だと、近くにいてよくわかった。

 だからこそ、私は言いようのない不安を感じた。

 他の人であればできない選択を、いつか──

「この人は自らの希望を代償に選択してしまうのではないか」

 遥さんが私の言葉の続きを語る。

 風の中で佇む美しい遥さんに見つめられ、魅入られたように私は身動きできなかった。

「いつだって、なにを選ぶのかが問題ではない。自分や他人……誰のために選ぶかが問題なの。それに未来は誰にも見えない。だけど一つだけ未来に影響するものがある。それは本人の”想い”よ」

 遥さんのきらきらした瞳はなにも変わっていない。

 でも、さっき一瞬だけ感じた心が真っ白な霜に覆われていくような寒気はなんだったのだろう。

「今まで見てきたからわかるけど、綾乃ちゃんて勘の良さはわたし以上かも。そういうの、努力ではなかなか埋められないものなの。才能の片鱗てやつかしら」

 遥さんから大まじめに言われたので私は恐縮するしかなかった。

「いま綾乃ちゃんが勉強しているアヤカシを見られる人を遡行者って呼ぶ。大昔、人間はみんなアヤカシを見られたけど、進化の過程で無駄だからその能力を捨ててしまった。その感覚を遡って獲得した者が遡行者。特殊対策室の内部資料にそう書かれている。興味深いのは別の意味もあるらしくて」

 船着き場に停泊している巨大な客船を眺め、遥さんは言う。

「──何処かに遡れる者という意味もあるそうよ。何処に遡るのかしら。其処になにがあるのかしら」

 まるでその先に何かがあるように真っ暗な海に目を向け、遥さんは独り言のようにつぶやいた。

「例えばの話しよ。わたしが現世からいなくなってしまったら……綾乃ちゃん、探しにきてくれる?」

 海からの風が強くなる中、遥さんは夜の海のさらに向こう側を見ているような目で言った。

 この風にさらわれ、遥さんという存在が此処からなくなってしまいそうだった。

 遥さんは命を断とうとした私を救ってくれた。

 この人が消えるなんて、私は耐えられない。

 そんなの、耐えられないよ!

「………………………………………………………………………………………………………い」

 声が聞こえた。

 遥さんの声ではない。

 これは……私の声だ。

 三年前の自分の声よりも少しだけ低くなっているのは、変声期を迎えたせいかもしれない。

「声……綾乃ちゃん、声が出てる!!」

 遥さんは嬉しそうに私の両手を握った。

 いつものどおりの温かい手。

「…………も………………う…………………………な………に………………も……………………う…………し…………な…い……………………た…………く………………な…………い……!」

 ──もう、なにも失いたくない!

 私は遥さんを抱きしめた。

 声をひさびさに出したせいか、発音がたどたどしい。

 しかし、そんな声帯のブランクよりも強い感情が勝った。

「……遥さんが……何処に行っても……私が……絶対に助けに行くと………約束します!」

 私は全部の感情を吐き出すように言った。

 それは言葉というよりも絶叫に近い何かだった。

 私にとって遥さんは母であり、姉であり、親友である。

 この人を失ったら、私は、私でいられなくなる。

「これであなたは、わたし以外の人とも意思疎通ができるようになった。声と同じように表情もなにかのきっかけでもどるようになるわ」

 遥さんに密着したまま、私は思いの丈をぶつけた満足感に浸る。

「今夜はこの近くにホテルを予約しているの……こういう状況で言うと恋人同士みたいで流石に恥ずかしいんだけど」

 遥さんの顔が珍しく赤くなっていた。

 それもそのはずで女子二人が夜のデートスポットで抱きしめあっているのだから無理もない。

 でも、そんなの関係なかった。

 私は自分の声を遥さんに聞かせられて、とても幸せな気分になった。

 今日という日が永遠に続いてほしい。

 ずっと、このまま遥さんが私のそばにいる毎日。

 そして遥さんが大人になったら、私は彼女の結婚式で仲人をつとめるの。

 そのころの私はどうなっているのかしら。

 遥さんは言う。

 想いが未来に繋がるのだと。

 遥さんはどのような想いを未来に繋げるのだろう。

 そして、私はどのような想いを未来で見ていくのだろう。

 未来は、いまだ私たちの前に広がる海原のように暗くてなにも見えない。

 でも、遥さんとなら。

 この人となら、明るい未来を歩める。

 私と遥さんはどちらともなく、手をつなぐ。

 そして、海の闇を二人で見据えた。



「本日付けで、遠見綾乃研修生を内閣調査室特殊対策室の調査員として正式採用する旨を通達します。尚、安土課長は出張中のため、室長代理であるわたしから通達させていただきます」

 暖房の効いた特殊対策室の執務室で一年近くの研修生を経て、調査員となったのを遥さんから伝えられた。

 後ろ手に組んだ遥さんは過去に見たことがないほど威厳に満ちていた。

 研修中、遥さんが見せてきた私への態度はプライベートなもので、いまこそが公務時の彼女なのだ。

 それにしても、なんという緊張感。

 遥さんの近くにいるだけで自然と背筋が伸びてしまう。

「制服の肩に糸くずが付いてるから取ってあげる。二か月後には高校生なんだから、気を引き締めなさい」

 私は強く頷いた。

「内閣府の中を案内するからついてきて」

 私は遥さんと二人で館内のさまざまなところを見てまわった。

 内閣府には以前からきていたが、知らないエリアがたくさんあった。

 首相官邸と内閣府をつなぐ地下通路の入り口を見たが、そういった重要な場所は保安上の問題でメディアには紹介されない。

 各所を見学するうち、内閣府ここがまさに日本という国の中枢であるのを実感した。

 私たちは内閣府の渡り廊下から中央合同庁舎の屋上へと移動する。

 眼下に広がるのは真っ白な世界だった。

 昨夜から降り続いていた雪が都内を覆っていた。

「ここは、わたしが特殊対策室に採用された初日、安土さんに連れられてきた場所なの。そのとき、前から気になっていた質問をしてみた。わたしの前にいた調査員てどういう人だったんですかって」

 鉛色の空から、白い雪が降り続ける。

 私は真っ白な街並みを見つめ、遥さんの言葉を聞く。

「今から六年くらい前に一人の調査員がいたそうよ。当時、女子高生で優しい人だったらしい。あるとき、その人はアヤカシから子供を助ける公務を失敗した。そして彼女は自分を責め続け、ビルから身を投げて自死してしまった。綾乃ちゃんに言ったよね? 優しい人に”こっち”は向かないって。もしも、わたしが足手まといになるようなときがきたら、わたしを置いて逃げなさい。逆に綾乃ちゃんが足手まといになるようなら、わたしはあなたを置いていく。ほんと、優しい人には向かないのよ。わたしたちの仕事は……」

 遥さんは白い息を吐きながら言う。

「雪っていいわね。嫌なことや醜いものを覆い隠してくれるみたいで。だけど、ここにだって暑い夏がやってくる。そうなったら雪なんてない……見えなかった、あるいは見ようとしなかった現実と向き合う。そんなとき、未来に微笑むことができるような生き方がいい」

 遥さんは微笑みながら言い、都内をじっと見ていた。

 それは、ただなんとなく見ているというよりも、なにかを慈しむような目で見ているようだった。

「遥さんは、ここでなにを見ているんですか?」

 私は気になったので、問いかけてみた。

「あなたもいつか見られるようになるものをここで見ているわ」

「それから」と遥さんは言葉を付け足す。

「遥さんじゃなくて、これからは先代と呼びなさい」

「わかりました……先代」

 遥さん──先代は屋上ヘリポートの出入り口ドアに向かって歩きだす。

 私は先代が見ていた景色を眺め続けていた。

 いつか私もここから先代が見ていたものと同じものを見られるようになるときがくるのかしら。

 これから、どれだけの人たちやアヤカシたちと出会い、別れるのだろう。

 私は開いた右手の上で雪が融けていくのを見た。

 時は刻々と進み、世界は変化している。

 私の手の平で白い雪が透明な雫となったように。

 ──今という時を両親のぶんまで、精一杯に生きるしかない。

 十五歳の私が必死に導き出した結論はそれだった。

 何気なく、視線を前方に移す。

 手前には見慣れた首相官邸、奥には皇居の敷地が雪化粧をほどこされていた。

「綾乃ちゃん、執務室にもどるわよ!」

 先代から声をかけられる。

 私は雪に染まる都内を背にして歩きだした。

 このあと、先代に提出しないといけないアヤカシに関する調査報告書の作成が残っている。

 それらをどうすれば効率よく片付けられるかなんて、今日から配属された新人調査員の私にわかるわけもなかった。

 私は表情を変えることなく、足早に先代のいるヘリポート出入り口に向かうのだった。



 ――了――

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