桜の木の下で
夏秋郁仁
笑うあの子を探してる
桜の花びらがはらはらと振っていたのを覚えている。くすんだ空が水色だったのを覚えている。まだ着慣れない学生服が窮屈だったのを覚えている。あの子の、嬉しそうな笑顔を覚えている。
彼女に一目惚れした入学式を、サクラは一生忘れないだろう。
……忘れない、だろうけれど。
今はもう五月。桜はとうに散った。入学式から一月近く経ったのに、サクラは彼女を見つけることすら出来ずにいる。
――どこにいるの、妖精さんは!
小柄で華奢で、とびきりかわいい。色素の薄いロングヘアが風に揺れ、その拍子に覗いた笑顔の愛らしいこと愛らしいこと。だからサクラはあの女の子のことを心の中で妖精さん、と呼んでいた。
「……今日も見つからなかったなあ」
一通り校舎を探すという日課が終わった放課後。教室でそう呟いた瞬間だった。
「何が?」
「――っ?!」
突然の声に、サクラは飛び上がるほど驚いた。ばくばくと脈打つ心臓を押さえ、そっと声の方を振り向く。
「あ、
「こんにちは、サクラ君」
ひょろっとした印象を持つクラスメイト、音成が立っていた。変人であることは、もはや印象ではなく事実として知っている。彼の名前はクラス全員がまず最初に覚えた名前だ。
「で、サクラ君は何が見つからなかったの?」
いつもと同じ笑顔のまま、音成は首を傾げた。情報通だが口が軽そうな彼に打ち明けるかどうか、サクラは数秒考えた。
――いや、でも。会えない方が嫌だ。
「とある女の子を探してるんだよね……入学式で見かけただけの子なんだけど」
「はー、なるほど。一年生の中は全て探した?」
「うん、だいたいは。最近は上級生のクラスまで見ていたんだけど、それでも見つからない」
サクラはそう言って憂い顔で口をつぐんだ。未だに一度も見かけてすらないことに落ち込み、自分の探し方が悪いのか、と思い始めていた。
そんな様子のサクラを哀れに思ったか、音成がことさら優しい声で
「どんな子なの? 外見は? ほら、僕は見たことあるかも」
と言った。そう問われてあの日のことを思い出す。妖精さんと出会った、運命の日。
「えっと、背が低くて、背中の真ん中くらいの長さの髪で、小動物みたいな雰囲気のかわいい子」
音成は笑顔のまま考えを巡らせるように顎に指を掛けていたが、結局思い当たらなかったらしい。
「知らないなあ」
と眉を下げて言った。
「力になれず申し訳ないよ」
「いや、こっちこそごめん。名前すら分かってないのは問題があるよね……」
がくり、とサクラは肩を落とす。それを見て音成が慌てたようにこう言った。
「代わりに面白い話を一つ紹介するよ!」
「面白い話?」
首を傾げてうながせば、彼は意気揚々と話し出した。
「そう。ほら、この学校の桜って、すごく大きくてキレイじゃん」
「うん。最初見たときは驚いたよ」
「なんでそんなに美しいか知ってる?」
「なんで美しいか? ……うーん、なんでだろう。ここの土地がいいから、とかじゃないのかな。栄養がいっぱいあるとか……」
そう言うと、彼はにんまりと笑った。
「正解!」
「そうなんだ! よく知ってるね」
「死体が埋まってるから、らしい」
「……は?」
あまりの衝撃に言葉が出ない。口を開けては閉じ、を数度繰り返したのち
「死体で土ってよくなるんだー」
というズレた台詞が飛び出した。
「部活の先輩が教えてくれたんだ。『あの桜がとびきりキレイなのは、根元に死体が埋まっているからなんだ』って」
「……それは、この学校の七不思議とか噂話ではなく、本当の話ってこと?」
恐る恐るたずねるが、彼はひょいと軽く肩を竦めるだけだった。
「さあ? ただ、それが真実なら納得するなって思っただけ」
確かに納得はいく。入学式に、雨のように花びらを降らせていたあの桜。主役であるサクラたちの背後にどっしりと立ち、素晴らしい世界を作り上げてくれた。自分は添え物であるように静かに、けれど華やぐように咲いていた。
そう、今でも鮮明に思い出せる――妖精さんの笑顔といっしょに。
「っていう、面白い話! ……元気出た?」
サクラの口から、あはは、という乾いた笑いが漏れた。音成はニコニコと自慢げな顔で笑っている。彼に悪意は一切ない。「それは面白い話じゃなくて怪談だ、怖い話だ!」なんて、半泣きになりながら当たり散らすことなんて出来なかった。サクラは笑顔が引きつらないことを祈りつつ、彼に礼を言うために口を開く。
「あ、ありがとう……」
しかし祈りは聞き届けられなかったらしい。
「あれ、面白くなかった?」
と音成が眉を下げた。ぎくりと身体を揺らし、顔の前で手を振る。
「い、いや、そういう訳じゃないんだけどね!」
「じゃあ大サービスでもう一つ面白い話を!」
ちょっと待って、と静止するが、親切心に満ちた彼には届かなかった。
「身体が弱くて入学出来なかった女の子がいるらしいよ! 生まれつき病弱で、やっと高校生になれたのに入学式に来れなかったらしい」
「……それは、つまり……」
病気で亡くなったから、ってこと?
ヒヤリとする話だった。さっきの桜の木の下には、という話はわりとどこでも聞く話だ。確かに納得してしまいそうなほどあの桜は美しい。けれど、その病弱な子は同じ年の子供だ。だからどこか身近な悲しさがサクラを襲った。
「悲しい話だね……それは何年前のことなの?」
なんだかんだ作り話なんだろうな、と思いつつもしんみりと言ったサクラだったが、次の音成の台詞に硬直した。
「詳しいことは知らないんだよ。ていうか、その先輩がそれ以上は教えてくれなかったんだよね。僕が個人的に調べたところによると、今の三年生から始まった話らしくて、実際に花が飾られた机が置かれているクラスがあるとか」
……あれ、なんか、本物っぽくないか?
ぞわぞわ、とサクラの背筋に冷たいものが走る。しかし音成はこんな時ばかりサクラの様子に気付かず
「じゃあ、僕はこれで! 部活に行くからごめんね! また明日!」
と去って行った。
――え、怖いんですが。
サクラの頭の中からはもう桜の木の下の話は抜けていた。音成がさらりと言ったことも先輩がそれを多くは語らなかったことも、話がやけに具体的だったことも、変に情報が与えられたぶんサクラにはひどく恐ろしいことのように思えた。
いや、待って。よく考えよう。そんな怖い話を聞いてしまったらもう探検に行きたくなくなる。それは困る。妖精さんに会えないのは、絶対にいやだ。ほら、その女の子は実は入学式には来てた、とかかも知れな――って、もしかして。妖精さんがその子だったり?
ふと、サクラの頭にストーリーが駆け巡った。
――そうだ。小柄で華奢なのは病弱だからで、桜の木の下にいたのは入学式には来れたけれど参加出来なかったから。つまり彼女は人間じゃなくて、妖精さんと呼んでいたことに間違いはなかった!
冷静に考えてみればめちゃくちゃな理論でも、現実逃避のこじつけに必死なサクラからしてみれば上等な理由だった。だから、そんな混乱した頭だったから、こんな結論に至るのも仕方なかったのかも知れない。
「つまり、入学式みたいに桜を用意すれば妖精さんに会えるのでは?!」
***
「これで、咲いたって判断されるかな」
そこには一面の桜が舞っていた。中央にはどっしりとした幹があり、その周りを踊るように花びらが落ちる。そんな、ひどく美しい光景が、黒板いっぱいに広がっていた。
「上手くは描けたけど……絵でも桜って認めてくれるのかな。妖精さんは、桜の木の下にしか出てこないんだもんね」
不安で小さく呟く。
――これでいいのかな。
ふと、指輪がチョークでまだらに汚れていることに気付いた。無我夢中で描いていたからか、制服まで粉がついている。白とピンクに染まった指と制服を綺麗にするために、一度教室を出てトイレへ向かうことにした。
ざばざばと手を洗い、ぱたぱたと制服を叩きながら、サクラはぐるぐる考える。
――本当に妖精さんはいるのかな。
先ほど音成から聞いた話が頭を回る。美しい桜。木の下の死体。病弱で入学出来なかった女の子。机上に花が飾られた教室。
けれど結局、サクラの目的はただ一つ。真実が何であれど叶えたいことは一つだけ。
「妖精さんの、笑顔が見たい」
少し冷えた頭でトイレから出る。たどり着いた自分の教室の扉を重たく開けた、その瞬間。
「こんにちは」
ぶわりと風が吹いた。強い風に思わず目を細めて、黒板の前に立つ小柄な人影を見る。
「こんにち、は……」
花びらが舞った気がした。空は先月と違って青い。セーラー服は身体になじみだした。目の前の彼女が、嬉しそうに笑う。
「これ、桜?」
その笑顔に見惚れて、反応が遅れた。
「は、はい! 桜に見えますか?」
「見えるよ。上手だね」
彼女は小さな手を黒板に伸ばして、触れる寸前で止める。
「触ったら、消えちゃうよね」
そう言って静かに笑った。その笑顔がどこか儚く悲しく見えたから、慌てて叫ぶ。
「また咲きますから!」
教室に響いた大きな声に、きょとん、と目を丸くした彼女がサクラを見つめた。
「あの、また来年も、桜は咲くので。毎年、綺麗に」
彼女の驚いたような表情は変わらない。まだ足りないか、と更に付け足してみる。
「私が描いてもいいですし!」
次は黒板じゃなくて紙でもいい。大きな紙に、彼女のことを考えながら、色鮮やかに描くのはきっと楽しいだろう。
「あはははは!」
拳を胸に当てて叫んだ言葉は、大きな笑い声に飲み込まれた。
「あはは! 面白いね、貴女!」
何を笑われているのか分からないが、サクラは恥ずかしくて顔を赤くした。思わずスカートの裾を握りしめると、慌てたように彼女が付け足した。
「ああ、ごめんなさい! 馬鹿にしてる訳じゃないよ! 初めて言われたことだから、少し驚いて楽しくなっちゃったの」
「……そう、ですか?」
確かに彼女の顔に嘲りはない。安堵して肩の力を抜き、息をつく。
「ようせ……あなたは、桜が好きなんですか?」
妖精さんと言いかけて、ごまかすように口早にたずねる。サクラの言葉に彼女は楽しげに笑った。
「うん、大好き。花はどれも好きだけど、桜はいちばん好き」
また彼女は黒板に咲く桜を眺めた。本当に好きなのだろう、その瞳はキラキラと輝いている。
「貴女も好きでしょ? こんな上手に描くくらいなんだから」
そう問われて、はたと思う。
――描く間、何を考えていたっけ?
現れてくれるかな。美しいと思ってくれるかな。気に入ってくれるかな。笑って、くれるかな。
サクラはそれに気付いた瞬間、顔だけでなく全身を真っ赤に染め上げた。
――ああ私、妖精さんのことしか考えていなかった!
急に緊張してきた。頭がぐちゃぐちゃになる。そんな混乱した頭でも彼女に伝わるように、丁寧に言葉をつむぐ。
「好き、です。すごく」
「そうだよね! 伝わってくるもの。大好きなんだなって思うよ」
これはある種の拷問だろうか。ひどく恥ずかしい。けれど、それを見て彼女が笑うなら、もういいような気がした。
「あの、また来年も会ってくれますか?」
知らず声が震えた。桜の木の下でしか会えない妖精さん。次も会って、笑って欲しい。
勇気を振り絞って出した質問を、彼女は楽しそうに笑った。
「来年でいいの? いつだって会えるのに」
……いつだって会える?
突然落とされた言葉にサクラの頭は更にめちゃくちゃになる。だから、何も考えられずにこう言った。
「桜の木の下でしか会えないんじゃ?」
それを聞いた彼女は愉快そうな顔になる。
「やっぱり貴女、何か勘違いしてるね? ――うん、自己紹介をしようか。まだ名乗っていないもの」
彼女の色素の薄い、長い髪が揺れる。小柄で華奢なのに、どこか言うことを聞かせるような迫力があった。
そんな雰囲気に飲まれて頷いた拍子に、また風が吹き込んだ。ぶわりと髪が、スカートが舞う。
「わたしは二年生の、榊コマリ」
告げられた台詞がサクラを再び惑わせる。
――二年生? あれ、何かが変だ。
どういうことだと気を取られたから、するりと返答が滑り出た。
「私、一年の橘です」
……なにか、何かがおかしい。決定的な何かが噛み合っていない。大切なことに気付いていない。
回りだした思考が違和感を訴える。けれどサクラが理解するより先に、コマリが笑いを含んだ声で歌うように答え合わせを始める。
「もしかして何か、怖い噂を聞いたかな? 『この学校の桜の木の下には死体がいる』『病弱で入学出来なかった女の子がいる』『花が飾られた机がある』。まあ答えはぜんぶ繋がってるんだけど――一つずつ、真実を言おうか」
ガタン、と机を動かして、コマリはその上に座った。足を揺らしてまた笑う。
「死体はね、ないよ。よく根本で昼寝をしている生徒がいるだけ。あんまりにも桜が立派だったからか、話が勝手に変わっていったんだろうね。寝ている子がいる、から死んだ人がいる、へ」
サクラは深く息を吐いた。死体はない。よかった、と安心する。
「病弱な女の子は死んでないよ。入学式には行けなかったけどね。たまに保健室に行きつつも楽しく生きてる」
サクラはへたり込みそうになった。噂というのは本当に勝手だ。根も葉も尾ひれもついている。
「花が飾られた机は二年の教室にあるよ。その机の生徒が大の花好きなもので、季節の花が置かれるの」
あはは、とサクラの口から乾いた笑いがこぼれた。口調から分かる。たぶん、これらの話の登場人物は一人だ。
「先輩たちも困ったものだね。知らない間に噂話を作ってしまってた――でも、真実としてはこういうこと。わたしは桜が大好きで、病弱で、花好きな、普通に生きてる女子生徒……がっかりした?」
「いいえ」
考えるより先に否定が飛び出した。残念だなんてかけらも思っていない。むしろ喜びに満ちている。
――だって、あなたに会えるもの。
サクラは姿勢を正してまっすぐにコマリを見た。彼女は目を細めて視線を受け取る。
「私、コマリ先輩に会いたくて桜を描いたんです。桜の木の下でしか、あなたに会えないのかと思って」
ちらりと黒板を見る。妖精さんへの思いのこもった絵。勘違いしていたことは恥ずかしいけれど、彼女に会えたと思えばなんともない。
「本当のことを知れて嬉しいです――だって、会おうと思えば会えるってことですよね? 桜が無くても、いつだって」
「……そうだね。時々保健室にいるけど、桜の時期限定ではないよ」
「だから、すっごく嬉しいです」
サクラは嘘偽りなくそう言った。笑顔を一目見ただけの人を探し続けてやっと会えて。また笑顔を見ることが出来ればいいと、それだけでいいと思っていたのに、叶っただけでなくいつでも会えることが判明して。
サクラは心の底から喜んでいたから、いつの間にか笑っていた。
「そっか」
そのサクラの幸せそうな笑みにつられて、コマリも口元を緩める。
桜の木の下で、二人は幸せそうに笑っていた。
そういえば、とサクラはコマリとの出会いを思い出した。
「ところで、二年生なのにどうして入学式にいたんですか?」
そのせいで、彼女に会うのに時間がかかってしまった。そんな恨むような視線にも気付かず、コマリは何でもないように言う。
「ああ、桜を見たかったからだよ。わたしは生徒会の副会長だから、すんなり侵入出来たの」
「……本当に好きなんですね」
なんだか拍子抜けしてしまってサクラは肩を落とした。妖精さんを探すために学校中を駆けた一ヶ月は何だったのか。
けれど、そんな不満もすぐにかき消えた。
「桜がいちばん好きだからね」
嬉しそうに、コマリが笑うから。
「――そうですか」
その台詞はサクラのことを言った訳ではない。それでも緩み、熱くなる頬に、現金なものだ、と思う。
サクラの隣でも、彼女が笑ってくれたらいい。
おわり
桜の木の下で 夏秋郁仁 @natuaki01
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