ごし

倉井さとり

ひぃ

 私の住むアパートの部屋からは、古ぼけた商店街が見下ろせる。


 たとえちく百年だと言われてもどうにか納得できそうなほど、このアパートはボロボロだけれど、なぜか、近所に建ちならぶアパートよりも背が高く、階数も多かった。私はそのなかでも、最上階に住んでいる。私はそのことに、すこしの優越感ゆうえつかんを持っていた。自分でもいやしいと思うけれど、根が倹約家けんやくかだからと納得しておくのがいいのだろう。べつに誰かに文句を言われるわけじゃなく、しかも、無料でいい気分になれるのだから。


 身を起こし、目をこすりながら窓をのぞくと、夜はけているらしく、街の明かりは、意図して距離をとったかのように散在さんざいし、そのどれもが、灯篭とうろうのようにぼやけていた。


 恋人と駆け落ちしてこの街に来て、まだ三か月と経っていないけれど、地元にいるように感じるくらい、私はここに居着いてしまっていた。思えば、異邦人いほうじん気分だったのは、この街に来るまでの旅路たびじのあいだだけだった。まあ、おなじ言葉を話しているような地で、そんな気分にひたろうなんて、すこしばかり欲張りというか、がめつい。


 外の景色をよく見るため、身をのりだし、窓枠に両ひじをのせて腕を組むと、腰かけていたベッドが、ほうけたようにひとつきしんだ。

 また今日も、彼女は来ていた。


 寝苦しさに耐えかね窓の外をながめるときには、決まって彼女が目についた。べつに私は不眠症というわけではないから、毎日そうというわけじゃない。しかし、こうも毎回のように目にしていると、彼女は毎日やってきているんじゃないか、と、そんな想像をしてしまう。さすがにそれはないだろうと思うけれど。


 彼女はいつも、商店街のなかにひとつだけポツンと設置された公衆こうしゅう電話に入り、そこで、小一時間ほども通話をつづけた。なにか、わざわざ公衆電話を使うような理由があるのだろう。それでも、毎日使うなんて、やはりありえないように思う。彼女の身なりは小ぎれいだったし、スマホを持てないなんてことはないだろうから。


 おそらく彼女は私と同年代だろう。でも、私よりずっときれいで、なにより、あか抜けているようだった。なぜだか後者のほうに嫉妬しっとをおぼえる。垢抜けるだけなら誰にだってできそうなものなのに。あるいは、だからこそこんな感情が起こるのだろうか。そうはいいつつ、たびたび目にしているからか、嫉妬よりも親近感のほうが勝っていた。この地では友人も知り合いもいない私に、唯一ゆいつそうした感情をいだかせるのが、彼女だった。


 仕事にかず、少ない貯金を切り崩しながら生活して、かといいバイトをするわけでもない。そんなだらけた日々を過ごす私にとって、彼女をながめることはいい気晴らしになった。


 適当な当て推量ずいりょうだけれど、彼女は恋人に電話をしているのだと、私は踏んでいた。それはなぜかといえば、電話をするためだけにしては、どことなく、彼女の服装や化粧けしょうに、力が入りすぎているように思えるからだ。


 彼女はいつもとまったくおなじように、シャッターの下りた通りを早足で歩き、脇目もふらずに白い薄明かりのなかへと入っていく。そして、左手で受話器を手にとり、上着のポケットからとりだした小銭こぜにを電話機に入れ、右手の人さし指でプッシュボタンをつつくように十一回押しこみ、ガラスの壁面へきめんからだをあずけ、右手に持ちかえた受話器を耳にあてると、ひとつみをつくった。対する私は、右手の人さし指にかみを巻きつけて、彼女とおなじような笑みをつくった。


『こんばんは。私よ』、と私は、彼女の口のうごきにあわせて、そう言った。

「ああ、待っていたよ」

 すこし落とした私の声は、静まりかえった部屋によくひびいた。

『変わりない?』と私は、つづけて彼女に声を吹きこむ。きょうにのっているのが、自分自身ではっきりとわかった。『元気?』

「ああ。そっちはどうだ?」

 彼女は楽しそうな笑みを浮かべながら、歯切れよく、形のいいくちびるをうごかす。しかし私は、それに悲壮ひそうな声をあてがう。『あなたに会えないからなんだか病気になりそうよ』


 私はすこし返事をためらって、極力きょくりょく、困ったような口調を意識した。「しょうがないじゃないか、家庭があるんだから」

『……でもぉ』

「それは、きみだって最初から承知しょうちしてたろ?」


 彼女は口をつぐむと、目をわらせた。その表情はひどくいじらしくて、いまさらながらに、なにかいけないことをしているように思えてくる。


 私は、彼女に返事をうながすような声色こわいろで、「なぁ」と独りごちた。

『わかってる。わかってるわよ。だけど……』

「だけど?」

『あなたのほうだって、なかなか奥さまと別れてくれないじゃない』


 私が沈黙していると、彼女は、左手で自分の顔の左半分をおおった。で、小指から人さし指までの四指よんしで、ひたいをタップしはじめた。四指には、およそ同調しようという気配がない。それぞれが独立して、それぞれが個別の意思を持ち、ついばむように、痙攣けいれんするように、愛撫あいぶするように、ノックするように。


 私をわれにかえしたのは、ひとみかわきだった。


「まえにも言ったと思うが、そう簡単な話じゃないんだよ。穏便おんびんに事を運ばなきゃ、会社での信用だって落とすことになる。時期をあやまったなら、出世にだって関わるかもしれない」

『仕事仕事って……いったいなんの関係があるのよ。公私混同こうしこんどうなんて、ひと昔まえのことじゃない?』

「そうでもないさ。〝女〟のきみにはわからないよ」


 私のはっした声は、思いのほか語気が強かった。彼女の反抗はんこうが、そしてなにより、彼女の声にあざけりがまじるのが気に入らなかった。


 独り芝居しばいでなにを感情的になっているんだ、と、我にかえる。それと同時に、ほんの一瞬でも、独り芝居であることを忘れてしまった自分自身を、心底気持ちわるいと思った。自分にあきれてため息をこぼしそうになったその折、まるでそれをさえぎるように、彼女はわずかに体勢を変えて、私の注意をひいた。


 頭を背後のガラスばんにあずけているのだろう、彼女のあごは持ちあがっていた。そのため彼女の視線は、ちょうどこちらを向く形になる。こんなに暗い部屋にいて、それもガラスごしなのだから、あるわけもないことだけど、彼女が私のことを、はっきりと認識しているように思えてならなかった。私の杞憂きゆうにもまして、彼女の表情がそうさせる。薄く笑った口許と、やや見開かれたそのまなざしに、目くばせの意図があるようで。


 彼女はわずかに頭を左に傾けると、口を結びながらニッコリと笑ってみせた。その口が開かれるような気配を感じ、私は慌てて息を吸いこんだ。


『男だからとか。女だからとか。そんなことはまったく問題じゃないのよ。〝人〟が恋するにはね。そんなこと関係ない。これは、いまに始まったことじゃない。ずっと昔からよ。私たちが生まれるよりもずっとまえから』彼女はそこでひと呼吸おくと、浮かべていた薄ら笑みを、含み笑いに変えた。『恋愛事に性別なんて関係ないのよ。私は、あなたが、好き。重要なのは、ただ、これだけよ』


 それきり彼女は、息を殺すように口を結び、受話器をかたく握りしめ、相手の息ぎさえ聞きらすまいとするように、受話器に耳をこすりつけながら押し当てた。


 対する私は、自分で語ったことの意味が自分でも理解できずにいて、それについて頭をめぐらしつつ、向こうから切りだしてくれないかと期待して、彼女とおなじように沈黙をつづけるのだった。

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