第二章 新しい生活を始めよう
第1話 最低限のスキル上げ開始
朝目が覚めて、トイレから出たあと。洗面所で歯ブラシを握る左手、しっかり前を見て鏡の中に映る左目。介助なしで立てている左足をさすった育江は呟く。
「――痛くないって最高っ、生きてるって素晴らしいわ……」
PWOに似た世界へ転移したんだと、育江は改めて認識した。
あちらの世界に、育江の親族はもういない。ただ心残りがあるとしたら、彼女がお世話になっていた看護師の礼子と連絡がとれない。『ありがとう』も『ごめんなさい』も言えないことだ。
昨晩、アドレス帳からメールを送ってみたのだが、未読のままステータスが変わっていない。直接メッセージを送りもしたが、同じく既読がつかない。焦っても仕方がないと、疲れて眠りに就いた。
パジャマも一着、服も一着しかない。下着もそうだ。何をするにも先立つものは必要。
昨日買い物をしてみた感じ、忘れてはいたが、銀貨一枚あたり、日本円で千円設定のようだ。銅貨が百円。金貨が一万円。
この宿は、ご飯なしで一日千円程度。こんなに綺麗なのに格安だったのは、懐の風通しが良すぎる育江にはとてもありがたい。
昨日のうちに、買って残しておいたパンを、インベントリから取り出して朝食代わりにする。飲み物はもちろん、大量にストックしてある『とまじゅー』ことトマトジュース。
これを飲んでいるうちは、育江の選んだネタ種族、ハーフヴァンパイアの種族特性でもある喉の渇きが発生しないはず。それにとまじゅーは、彼女の好物でもあったから。飲み終わった缶も、インベントリへ。こうしておけば、ゴミを出すこともないからだ。
育江は早い時間にギルドへ向かう。その途中にある区画で、衣類関係のリサイクル品が扱われている店へ立ち寄った。
新品を買うには、今の手持ちでは少々厳しい。なにせ残金は、銀貨八枚。おおよそ八千円ほどしかないから。
服がこれ一着ではさすがにまずい。せめてシャツくらいはスペアが欲しい。けれど下着だけは新品にしたい。そういう懐事情から、リサイクル品をと思ったわけだった。
あっちで愛用していた魔道士調の帽子があった。かなり古いものだが、綺麗に洗ってあり、縫製もしっかりしている。値段を見ると、銀貨一枚。悩んだけれど、『依頼を受けたらなんとかなるだろう』、そう思った育江は、外套と帽子買った。失ったものは銀貨三枚で、残りは五枚。シャツは依頼を受けられたら、帰りにでも買うつもりだ。
「――言ってくれたらよかったのに」
「え?」
カウンター越しに、カナリアが苦笑する。
「あのね、私の妹が置いていった服でよければ、明日持ってくるけれど?」
「すっ、……ごく助かります」
「いいのよ。困ってるときはお互い様なんだから、ね?」
口調が昨日と違ってくだけているのは、育江がカナリアの膝でお茶をごちそうになったからだろう。話に聞くと、彼女には十八になる妹がいて、今は城下町にあるギルド職員をしてるという話だ。
「そういえば、イクエちゃんのスキルって、平均いくつくらいなの?」
「まだ一ですね……」
「あらま。それでもね、大丈夫。依頼は間違いなくあるはずよ。掲示板見てみるといいわ。じゃ、明日持ってくるわね」
「はい、ありがとうございます」
「いえいえー。はい、次の方どうぞ」
丁寧にお礼をして、育江は掲示板の前に立った。上から順になっていて、一番下が初級の依頼が貼ってある。
昨日、カナリアから説明を受けた際の話だが、中級者になれば、ダンジョンへ入ることができる。第一階層入り口付近であれば、何かあれば付近にいる職員の助けを呼べる。パーティを組んで、一階層で稼ぐ人もいるとのことだ。
掲示板を見ると、『第一階層で一緒に稼ぎませんか?』のような、パーティ要員も複数募集が出ている。けれど、どれを見ても育江は苦笑せざるを得なくなってしまうのだ。
(何これ? 『
掲示板を上に見ても同じだった。どの等級でも『テイマーを除く』とある。
確かに、ダンジョンへ入る際は、登録されているカードの提示が必須。その際に、杞憂されている職業を隠したりするような誤魔化しはできない。
(先人さんたちは、いったい何をやらかしたんでしょうねぇ……)
育江はそう、内心呆れるばかり。スキルレベルがほぼ初期に戻ってしまっている育江は、元々ダンジョンに入るつもりがない。
(お、あるある。初級の依頼はこんな感じでしょう?)
初級の依頼は思った以上にあった。例えば、『畑の雑草抜き』、『屋敷の雑草抜き』などの、定番依頼から店番、薬草などの採取もそうだ。しばらくは依頼に困ることはないだろう。育江はその中で、薬草の採取を選んだ。
昨日飲ませてもらった、魔力茶に使われているホウネンイソカズラなどは、林の奥へに自生している。だが、今の育江では自殺行為だ。そのため町の外側に自生している、薬湯などに使われるものを採取するのが安全。
PWOでもそうだったが、等級が上がっていくと、討伐系の依頼も増えていく。同時に報酬も増えることから、採取をする人も減っていく。
採取系の依頼はギルドが直接出していることもあり、依頼書を持って行く必要もない。常時買い取りが可能なため、何かのついでにささっと簡単にできていた採取は、育江にとっても良い小遣い稼ぎだった。
ギルドの外にある塔のベンチに座る。中空に指を立てて、心の中で『ぽちっとな』と呟く。これでもシステムメニューは立ち上がるのだ。
(あ、やっぱりね)
見ると、魔力総量の数値が若干上がっていた。昨日、カナリアの目の前で枯渇して倒れたせいで、偶然スキル上げになっていたというわけだ。
魔力や体力系の基礎スキルは、減らしたり、枯渇させたりすると上がりやすい。これはPWOのプレイヤーなら誰でも知っていること。
支援系
PWOには『バフ』と呼ばれる上昇効果がある。下降効果は『デバフ』とも呼ばれている。生肉を食べて腹痛になる『あれ』は、デバフのようなものであり、昨日飲ませてもらった魔力茶の魔力回復効果はバフと呼ばれている。
やや『ネタ種族系』でもあるハーフヴァンパイアにとって、とまじゅーこと、トマトジュースは必須アイテム。ハーフヴァンパイアはとまじゅーを飲むと、一定時間だけ魔力の回復効果が現れる。喉の渇きを癒やすと同時に、便利アイテムでもあったりするわけだ。
あらかじめとまじゅーを飲んでおき、薬草をみつけて、しゃがみ、採取して、立ち上がる。それだけでも若干ではあるが、体力は減っている。
育江は右手を自分の胸に当てると、『こう』するわけだ。
「『ライトスタム』」
育江の右手のひらが一瞬光った。彼女が発動させた魔法は『ライトスタム』。治癒魔法の初級呪文で、微量の体力の回復を促すもの。
魔法が発動したとわかった理由として、一瞬くらっとするが、すぐに魔力が回復したのだろう。薬草の採取を再開する。
とまじゅーのバフ効果が続いている間、こうして採取、移動、魔法発動を繰り返す。結果として、持久力、魔力、治癒魔法が上がりやすくなり、ついでにしゃがむと立つを繰り返すことでスクワット効果が出て、筋力も微量に上がるというコンボが形成される。
スキルというものは、発動すれば、消費すれば、動けば、必ず上がるというわけではない。スキルだけでなく、経験値も同様だ。
あくまでも『上がり判定を受けられる』というだけ。だから、効率よくひたすら繰り返して、上がることを祈るしかない。それをいかに、楽しく続けるか。それが育江たちゲーマーのスキル上げだったのである。
(ぽちっとな)
一時間に一缶、とまじゅーを補充。そうすることで、常に魔力回復微量のバフが継続される。そうして採取とスキル上げも継続。昼ご飯を食べたあと、採取とスキル揚げを夕方まで続けた結果、インベントリへはそれなりの数だけ薬草類が集まっていた。
綺麗そうな岩に腰掛けて、システムメニューを表示させる。
(それなりに上がってるねー。けれど焦ってはいけないぞ。スキル上げは一日にしてならずですから)
育江はスキル上げの結果に概ね満足していた。というより、楽しんでいたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます