未来

春雷

未来

 窓を開ける。空は快晴。鳥の囀る声が聞こえ、木も風に揺れている。

 街はいつものように活気がある。皆素敵な毎日を過ごしているみたいだ。

 アパートの五階。家賃は二か月分滞納しているけれど、大家さんは優しいから、いつまでも待ってくれている。でもそろそろ支払わなければ。大家さんの優しさにいつまでも甘えているわけにはいかないし。

 僕は中学を卒業してすぐ、親に無断で家を飛び出し、この街に来た。お金もツテも何にもなかったけど、その日その日を色んな人に助けてもらいながら、何とか食い繋いできたのだ。

 僕はサーカスに入りたくて、この街にやってきた。

 この街はサーカスで栄えている街なのだ。様々なサーカス団がこの街にやってきて、公演をしている。街にはいつでもサーカスの人々と、獣と、観光客がいる。街はカラフルな色に彩られていて、住居の屋根は赤や黄や緑など、たくさんの色が並んでいる。

 今日こそはどこかのサーカス団の団長に認めてもらうんだ。僕はその思いをいっそう強くした。

 僕は昔から病弱で、一週間に一回は熱を出して寝込むような子どもだった。今でも体調を崩すことが多い。でも僕は気力だけは昔からあって、何事も諦めない子どもだった。意地で学校へ行き、一度皆勤賞を取ったこともある。周りが止めても、押して学校へ行ったのだ。皆休んだ方がいいと言ってくれたけど、僕はその声を振り切って、自分のしたいようにした。

 今思えば、意固地なところがあったかもしれないと思う。でもその時の僕にとっては、学校へ行くということが、何よりも重要だったのだ。多少無理してでも成し遂げたいことがあったのだ。

 そして今成し遂げたいことは、サーカスに入ることだった。

 昔から僕は目立ちたがり屋だった。周りの人を笑わせることが好きで、冗談を呼吸をするように言っていた。冗談を言いすぎて、一度先生に冗談禁止を言い渡されたくらいだ。でも僕は冗談をやめなかった。最終的には先生も笑い転げて、許してくれた。

 僕は人の笑顔を見るのが好きなのだ。

 小学生の時に、初めてサーカスに行った。衝撃的だった。全てが刺激的で、面白くて、僕は胸が熱くなった。こんなに感動したのは初めてだった。

 それ以来、何度もサーカスを見た。近所の店の手伝いをして稼いでは、サーカスのチケットを買った。観客は皆笑顔で、楽しそうだった。僕はその嬉しそうな顔を見ると、素敵な気持ちになれた。サーカスには幸せが溢れていた。僕はサーカスに入ろうと思った。

 中学を卒業して、この街に来て五ヶ月。レストランで働きながら、何度もサーカス団に入団させてくれと頼んでいるのだけれど、どこも首を縦に振らない。僕は何度もお願いした。何でもしますとも言った。でもどうしても入れてくれなかった。

 今日も新たなサーカス団が来る。僕は公演が終わった後、楽屋用のテントに入って、入団したいと団長に言った。団長は長身で、痩せていて、髭の生えた四十代の男性だった。シルクハットを被り、タキシードに身を包んで、ステッキを持っている。英国紳士的な格好をしていた。

「無理だ」

 低く野太い声でそう言われた。

「どうしてですか」

「無理なものは無理なのだ」

「納得できません。僕は確かに病弱ですけど、情熱は誰よりもあるし、何だってします。雑用も進んでやりますし、獣の世話もきちんとできます。とにかくこの団に入りたいんです」

「無理だ」

「どうして」

 僕は泣き出しそうになった。挫けそうだ。

 団長は葉巻とマッチを胸ポケットから取り出して、葉巻に火をつけ、吸った。二口吸ってから、気だるそうな目を僕に向けた。

「君は子どもじゃないか。それに、何日も風呂に入っていないんじゃないか?」

「アパートに風呂がないんです。それに、それは入団できない理由にはならないでしょう?ちょっと前までは子どもの団員もいたじゃないですか」

 団長は沈黙した。しばらくして、少し俯いて呟くように言った。

「サーカスはもう、死んだ」

「死んだ?」

「斜陽産業なんだよ。サーカスに未来はない。世の中には様々な娯楽がある。もはやサーカスは時代遅れの娯楽だ。費用がかかる割に、利益が少ない。資本家から見捨てられつつある産業だ。この街もいずれ朽ちていくだろう。活気は薄れ、錆び付いていくはずだ」

「いや、でもまだこんなに客は来ているじゃないですか」

「この街はまだ客が来る方なのさ。巡回地によっては客席が半分も埋まらないこともある」

「そんな」

「そういうわけだ。普通に働いて、普通に暮らす方が幸せだよ」

 僕は目の前が真っ暗になった。サーカスが、死んだ?

「立て直しましょう。今からでも遅くないですよ」

「いや、無理だ」

「無理なんてことはない!まだやれるはずです」

「君がそう思うのは勝手だよ。でも私たちにそんな気力はない。そもそも今回の巡回を終えたら、解散するつもりなんだ。団員たちは別の仕事をする用意を進めている。私も今回の巡回を最後に芸からは身を引く。そういうわけだ。サーカスは諦めろ」

 諦める?諦めるわけにはいかない。僕の未来は、サーカスの未来は、こんな終わり方をするべきじゃないんだ。

 僕はテントを出た。そして走った。こんなことで挫けるものか。

 そうだ。自分でサーカス団を作ればいいのだ。

 僕は街を走り抜け、丘を登った。丘からは、街の様子が見渡せた。街はカラフルで、サーカスのテントが綺麗だった。

 

 その日から、僕は路上でピエロの格好をして、玉乗りや、お手玉、マジックなんかを披露することにした。部屋で練習していたから、ある程度上手くできたけど、誰も立ち止まってくれなかった。

 夕方。結局一銭も稼げないまま、初日は終わった。最初から上手くいくわけはないのだ。僕のサーカス団立ち上げの日は、虚しくラストを迎えた。

 毎日路上でパフォーマンスをした。日に日に上手くなっていくのが自分でもわかった。一人二人、少しの間だけど立ち止まって見てくれることもあった。そんな日は、花の匂いが優しくて、太陽が陽気に踊っているように感じた。

 でも生活をできるほど、お金は稼げなかった。

 寝る間も惜しんで、朝はレストランで働き、昼と夜はパフォーマンスをし、夜中は公園で練習をした。

 ふらふらになって、熱が出ても、路上に立ち続けた。一日も休まず、パフォーマンスを続けた。

 ある日、一人の少女が空き缶にお金を入れてくれた。十歳くらいだろうか。

「ありがとう」

 ピエロがそう言うと、

「うん。私ピエロ好きなの。だから頑張ってね」

 僕は涙が出そうになったが、堪えた。戯けて感謝を伝えた。

 その日から、だんだん立ち止まってくれる人が増えてきた。ピエロは磨きのかかった芸をお客さんに披露していった。

「ありがとう!」

 その声は大空に高らかに響いた。


 数年後、僕は正式にサーカス団を立ち上げ、巨大なテントを街に張り、最高のショーを披露した。観客は沸いた。僕は体調を崩していたが、何とかショーを続け、そしてショーは成功した。観客の拍手と指笛が、いつまでも耳に残り続けた。

 楽屋に戻り、一息ついていると、来訪者があった。

「やあ。久しぶりだね」

「あの時の。お久しぶりです」

 英国紳士の団長だった。屈強そうな男を二人引き連れていた。団長は以前のサーカス衣装ではなく、普通のスーツ姿だった。転職したのだろう。

「いや、まさかここまでの大舞台で君を見ることになるとは。たいしたもんだよ」

「もう斜陽産業なんて言わせませんよ」

「はは。そうだね。すまなかった。あの時は君を傷つけてしまったみたいだな」

「ええ。でもおかげで強くなれました」

「いや、君は元々強い人間だったよ。大人の私が驚嘆するくらいに」

「サーカスはまだ生きています。未来は明るいですよ」

「そうかもしれないな」

 楽屋に団員が入ってきて、僕に耳打ちした。

 英国紳士の団長は僕に向き直り、改まった口調で、

「さて、君はどうしてまだ生きているのかな?」

 と言った。

「どういう意味ですか?」

 僕の熱は上がり続けていた。団員は観客に医者をやっている者がいて、僕の様子を見て診察したいと言っていることを僕に告げた。

「君のことをちょっと調べてね。君は中学校を卒業する前に亡くなったそうじゃないか。君の両親にも会ったし、君を診察したお医者さんにも話を聞いたよ。君は確実に死んでいる。なのになぜここでサーカスの団長なんかしている?」

「さあ。死んでないからじゃないですか」

「嘘だな。君からは微かだが、腐敗臭がする。消臭剤かなんかで誤魔化しているのだろうけどね。最初会った時もその臭いがしていた。おい、服を脱がせてみろ」

 二人の男が僕の服を脱がせにかかった。僕は抵抗したが、彼らの腕力は凄まじく、僕は床に押さえつけられた。そして、僕の服は剥ぎ取られた。

「これ、は」

 僕を押さえつけた男が驚いた表情をしている。

 団長が彼らに言う。

「そうだ。腐っているだろう。こうして活動できているのが奇跡だ。こいつは確実に死んでいるが、意志の力のみで活動を続けているのだ」

 好き勝手言ってくれる。僕は反論を試みた。

「生きてようが、死んでようが、関係ないでしょう。せっかく僕の夢が叶いかけているのに、邪魔をするのですか」

「君は本来、居てはならない存在なのだ。理から外れてしまっている。そうした存在がいると、世界の秩序が掻き乱される」

「僕には夢があるのです」

 男たちは黙った。僕は話を続けた。

「僕の夢は、人を笑わせることです。世界中の人を笑わせる。それが僕の夢です。僕は常にどうすれば人は笑ってくれるのか、考え続けました。究極の滑稽とは何か。僕はそのことを考え続け、そしてついにわかったのです。

 究極の滑稽とは、人が死ぬ瞬間です。

 わざわざこの世界に生まれてきたのにも関わらず、呆気なく死にゆく命。これほど笑えるものはありません」

「君は何を言っているのか、わかっているのか」

「ええ。わかっています。そして僕は、明日、僕自身を殺すショーを開催することにしたのです」

 男たちは顔面蒼白になった。僕にはその表情がおかしく、笑ってしまった。

「狂っている」

 団長がそう評した。

「そんなショーを、開催させるわけにはいかない。君は人としてやってはいけないことをしようとしている」

「僕はもう人ではないのでしょう?なら人の倫理は僕に通用しません」

「しかし、そのショーが人民に与える影響を考慮すれば」

「馬鹿だなあ、団長。いや、元団長。今、社会に求められているのは笑いです。笑い。笑いが必要なのですよ。究極の笑いのショーを開催する。これは純粋な社会貢献です。僕を逮捕する理由もないでしょう?社会を混乱に陥らせる意図は僕にはない。それに、僕がすでに死んでいるとすれば、死者を裁く法律はないわけだ」

「君が死者なら、君を監禁しても私たちは裁かれない」

「そうなりますね。僕を捕らえますか?でもそれは無理ですよ」

 元団長の目にその光景が写ったみたいだ。僕を押さえつけた男の手が腐っていく。男は思わず僕を解放した。僕はその隙に逃げ出した。


————————————————————————————————————


 彼のショーは秘密裏に地下で開催された。そのショーのチケットは即日完売で、転売されたチケットの値段は富豪でなければ手が出ないほどの値段になっており、実際、観客は富豪ばかりだった。

 元団長は刑事とともに、そのショーの開催地を調べ、その場所が判明したのは、ショーがクライマックスを迎えた頃だった。

 元団長と刑事はその地下の開催場に足を踏み入れた。

 円形の闘技場のような場所で、舞台の周りを観客席がぐるりと囲んでいる。すでに舞台は血まみれで、何か残酷なショーが行われた後だと思われた。

 四角い黒い箱に入ったあの少年が出てきた。歓声が上がった。天井から巨大な剣が太いロープで吊り下げられており、少年の入った箱は、その真下に据えられた。剣は1メートルほどあり、刃先はどこまでも鋭かった。箱には穴が開いていて、そこから腕を出せるようになっていた。

 少年は歌うように声を上げた。

「本日はお忙しい中、私の素晴らしいショーに来てくださり、感謝致します。本日のクライマックスは特別です。ご覧のように、私の真上に剣が吊り下げられております。このロープを、観客の皆さんの中から一人ずつお呼びして、ナイフで切っていただきたいのです。

 ただし、ロープに刃を入れることができるのは私とじゃんけんをして勝った者だけで、一人一太刀です。私が3連勝すれば、私は生還です。その時点で私は解放されます。

 では、始めましょう!」

 歓声がまた上がった。 

 観客席の最上部にいる元団長と刑事は、どうやってこのショーを止めるか、策を練っていた。

 ロープに刃が入れられていく。ロープは頑丈だが、だんだん刃を入れた部分が細くなっていき、ついに、その瞬間は訪れた。

 ロープが切れて、剣が落ちた。

 少年は真正面を向いていた。少年の頭に剣が刺さり、少年の体は剣を丸呑みした。柄だけが少年の頭から飛び出していた。

 遅れたように血が全身から吹き出し、箱から溢れ出した。

 観客は一瞬息を呑み、悲鳴も上がったが、徐々に笑いが込み上げてきて、会場は笑いに包まれた。皆が腹を抱えて笑っていた。

 元団長と刑事は、その光景を眺め、人の業について思いを巡らせていた。

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未来 春雷 @syunrai3333

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