55
そうか。私はもう取り返しのつかないところまで来てしまっていたのか。
言うことの聞かない体を眺めながら、私はぼんやりと考えていた。
薄々、勘づいてはいたのだ。
シャンの能力が、単に記憶を移植したり、人格を凶暴化するだけの力ではないことに。
それらだけにとどまらない、もっと根源的な何かを変えてしまう能力だということに。
シアに関する八木山医師の記憶を見たとき、その疑念は確信へと変わった。
彼の記憶のなかで、シャンの力は平和を愛する心を人々へと分け与えるために使われていた。
つまり、シャンの持つ真の能力は、記憶の移植でもなければ、人格の凶暴化でもないのだ。
「良く気付いたな。その通りだ」
遠くから、八木山医師の声が聞こえる。
シャンの女王を通して、私に話しかけてきているのだろう。
「それらの現象は、あくまでもシャンの真の力による副産物に過ぎない」
では、真の力とは一体何なのか。
記憶を共有し、あまつさえ、その思考すら変えてしまう力。
それは……。
「人格そのものの移植だ」
八木山医師がそっと囁く。
「宿主の人格の一部を複写して、それを別の人間に上書きする能力。それが、シャンの持つ真の力の正体だ」
八木山医師は続ける。
「きみにも、身に覚えがあるだろう?」
そうだ。
神府町を訪れたときに感じた、あの懐かしさ。
喪六希咲に対して感じた、親愛の情。
それらは、決して記憶を共有しただけでは生まれない、本物の感情だった。
「それだけではないはずだ」
八木山医師が先を促す。
夢の中で感じた、人を絞め殺すことへの興奮。
喪六紫杏への
そして、遊間大に対して湧き上がる殺意の感情。
「それらはすべて、シャンの力によるものだ」
八木山医師は諭すように囁いた。
「そして、もう気付いているだろうが……」
そうだ、私はとうに気付いている。
ただ、その現実から今まで目を逸らし続けてきただけだ。
「きみは私の人格移植実験における被験者の一人だったのだ」
――。
私は、声にならない悲鳴を上げる。
自分が、自分の知らない間に、別人に成り代わりつつあった。
その事実が、恐怖が、私の心の中へ一気に押し寄せてくる。
だが、そのような事実など、今さらどうでも良いことなのかもしれない。
「そうだ。この実験が成功した暁には、すべての人類の人格を、紫杏のような快楽殺人者の人格で上書きする。すると、どうなると思う?」
八木山医師が、興奮した様子でまくし立てる。
そんなこと、決まっている。
ゴーツウッド村での悲劇が、世界規模で繰り返されるだけだ。
「そう、人々は気の赴くままに殺し合いをし、やがて人類は絶滅する」
八木山医師は、これまでにないくらい上ずった声を上げた。
「そして、滅びという結末へと至ることによって、人々は神という理不尽な存在から真に解放されるのだ」
そう。彼の言っていた「私を救う」とは、こういうことだったのだ。
世界が終わることで、私のこれまでの苦しみも、これからの苦しみも、すべてなかったことになる。
あるのはただ、幸も不幸もない永遠の平穏で、そして無だ。
人生に絶望し、すべてを諦めてきた私にとって、彼の提案も案外悪いものではないのかもしれない。
しかし……。
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