26
目を覚ますと、そこには見知らぬ天井が広がっていた。
見覚えのない木目模様。ほのかに漂う、杉の香り。
首を動かして周囲を見回してみると、むき出しの木の柱に、ふすまと障子が見える。
今どきは随分と少なくなった、木造建築の古民家のようだ。
あの山で意識を失った私を、親切な誰かが自分の家まで運んできてくれたのだろうか。
だとすれば、その家主にお礼を言わなければ。
私は寝返りを打って、起き上がった。
起き上がると同時に、清々しいイグサの香りが辺りにふわりと舞い上がり、私の鼻孔を優しくくすぐった。
布団から手を出して、床を撫でてみる。畳のつるつるとした心地よい感触が手のひらに広がっていく。
なぜだろう。どこかとても懐かしい感じがする。
その懐かしさは、古民家の作りや畳の香りから想起されるような、日本人なら誰もが感じる一般的な郷愁、では決してなかった。
それは、もっと強烈な、まるで魂の根源を揺さぶるような懐かしさ。
この家で過ごしたことがかつてあったと錯覚してしまうような、そういう生々しさを感じさせる懐かしさであった。
しばらくの間、その懐かしさに浸っていると、ふすまの向こう側から、とことこと誰かの歩く音が聞こえてきた。
耳を澄まして聞いていると、その足音の主がこちらへ近づいてきていることに気付く。
足音は、どんどん大きくなっていく。
やがて、その足音がこの部屋のすぐ手前のあたりで止まったかと思うと、突然がらりと音を立ててふすまが開き、端整な顔立ちの女性がその隙間から顔を出した。
「あら、もう、お目覚めでいらっしゃったのですね」
その顔を見た瞬間、私は心臓が止まるかと思うほどの衝撃を受けた。
その女性とは、確かに初対面であった。にもかかわらず、なぜか、その顔には見覚えがあった。
自然と涙が溢れ、止まらなくなる。
年齢こそ違えど、それは、まさしく、あの前世の記憶における母の姿であった。
「あ、あの。どうかなさいましたか?」
私が唐突に涙を流したものだから、彼女は困惑した表情を見せた。
「いえ、何でもありません」
私は涙を袖で拭い、彼女に向かって無理やり微笑んでみせた。
そんな私の笑顔を見て彼女は少し安心したのか、この部屋で待っているよう私に言い聞かせると、部屋を後にした。
数分後、彼女はお盆に白がゆと卵スープを載せて部屋に戻ってくる。
「大した料理も出せずに申し訳ありませんが、よろしければ、どうぞ、召し上がってください」
「そんな、助けていただいた上にお食事まで出していただいて」
「半日以上もお眠りになっていたのです。さぞかし、お腹もお空きになっているでしょう。遠慮なさらずに、さあ」
彼女は微笑みながら、私の手のひらの上にスプーンを載せて、それから私の両手を優しく握った。
その慈愛に満ちた様子は、夢で見たあの母とはまったくの別人のように見えた。
前世の記憶では、あれだけ憎しみに駆られていた私の心も、今は驚くほど落ち着いている。
「それでは、お言葉に甘えて。いただきます」
私はそういうと、白がゆをよそって、口の中に運んだ。
白米の素朴な甘みが、口の中に広がっていく。
続いて、卵スープを口に含める。
その味もやはり、とても懐かしいものであった。
スープの温かさに、ほっと一息ついたところで、私は自己紹介も兼ねて、彼女について探りを入れることにした。
「あの、名乗るのが遅れてしまってすみません。私は魔門、魔門愛と申します。それで……差し支えなければ、あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」
「あら、ご丁寧にどうも、魔門さん。私は喪六、
彼女は丁寧に名乗り返した。
「喪六さんですね、ありがとうございます」
喪六。聞いたことのない苗字であるにもかかわらず、まるで遠い親戚であるかのような親近感を覚えてしまうのは、やはり記憶のせいか。
彼女と話をしているだけで、何か得体のしれない感情が、心の底からじわじわと込み上げてくる。
私は、気を取り直して話を続けた。
「私、昨日はあの山を上っている最中に意識を失ってしまって……喪六さんがここまで運んでくださったのですよね?」
彼女はにっこりと頷いて肯定した。
「やはりそうでしたか……ご迷惑をおかけしてすみませんでした。それと、助けてくださってありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして」
私が礼を述べると、彼女はそんなこと何でもないといった様子で、軽やかに微笑んだ。
「あの……おひとりで私をここまで運んでくるのは、大変ではありませんでしたか?」
私は率直な疑問を口にした。
遊間からも軽口を叩かれたように、私は背丈こそ高くないものの、少しばかり脂肪の目立つ体形をしている。
ここ一年で体重はだいぶ落ちたというものの、細身の女性が一人で背負って運ぶには相当な負担であっただろう、と私は思った。
「ふふふ、魔門さん、お軽いから全然大丈夫でしたよ」
そんな私の不安を察してか、彼女は右手を口の前に当てて、くすりと笑った。
まるで、そのような心配は私の杞憂だと言わんばかりの、優しい笑みだった。
そんな風にころころと表情が変わる彼女を見て、私は何だか可愛らしい人だと思った。
それはどこか、夢で見た少女に似ていて。
同時に、その表情ひとつひとつに対し、懐かしい感情が湧いてくる。
ここに長く留まったら、きっと私は私でなくなってしまう。そういう気がした。
「それに、あの山には週一で通っているので、山道を歩くのには慣れっこなんですよ」
先ほどから険しい表情を一向に崩さない私の心情を慮ってか、彼女は一言付け加えた。
「そうだったのですね」
私は慌てて安堵の表情をしてみせた。
私の表情の変化を見て、彼女もまた安堵の笑みを浮かべる。
――週一で通っている。
彼女の何気ない一言から、ふと、あの白い花の姿が頭をよぎる。
それだけ足しげく通っているということは、あの場に供えられていた花束は、やはり彼女が供えたものだったのだろうか。
だとすると、あの花はきっと……。
私がそのようなことを考えていると、彼女が唐突に口を開いた。
「ですが、あんなところに人がいらっしゃるのは珍しいから、少し驚いてしまいました。何か御用でもあったのですか?」
彼女としては、当然の疑問だ。
あのように、立ち入り禁止と言わんばかりのフェンスに囲まれた山奥へ、縁もゆかりもない人間が、用事もなしにふらりと立ち寄るはずがない。
「はい、実は……昔、あの山で起きた事件について調べていまして……」
そこまで言ってから、私はしまったと思った。
さすがに、前世の記憶の正体を探っている途中で、あの場所に引き寄せられたなどと言えるわけがない。
しかも、目の前にいるのは、その事件の犯人の母親かもしれないのだ。
私は、咄嗟に聞き返していた。
「喪六さんは、どうしてあの場所に?」
しかし、その質問も失敗だった。
彼女は少し困ったような表情をして、一瞬、沈黙した後、遠い目をして答えた。
「あの場所で亡くなった方へのお参りでして……」
その一言で、すべて合点がいった。
間違いない。あの記憶は事実で、そして目の前にいる彼女は、前世の記憶における母親だ。
そして、あの花はきっと被害者の少女に捧げられたものだろう。
「それは、お辛いことを聞いてしまい、すみません……」
気付けば、重々しい空気が部屋の中を満たしていた。
私は気を取り直して、今回の旅の目的でもある、記憶の主に関する質問を切り出した。
「あの、喪六さんはここにおひとりで暮らされているんですか? お子さんとかは……」
私がそう聞くと、彼女は一層悲し気な笑みを浮かべて言った。
「かつて、息子が一人いましたわ。
私は、またしても自らの軽率な発言を悔やんだ。
あの記憶が、もし前世の記憶だったとしたら、その記憶の主がとうに死んでいる可能性は十分にあったのだ。
「そうですか……」
それ以上、何かを言うことは躊躇われた。
「お食事、食べ終わったらおさげしますので、お盆はそのままにしておいてくださいね。私は少しおうちのお仕事をしてきますので……」
彼女は寂し気な笑顔でそういうと、部屋から静かに立ち去って行った。
私は、冷めたお粥とスープを口の中にかき込んで、しばらくの間、天井の木目を見つめていた。
死肉にたかる蛆虫の大群のような、黒々とした気味の悪い木目模様が天井に浮かんでいた。
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