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「なんだ、まだそれだけしか調べられていないのか?」
遊間が、私のパソコン画面を背後から覗き込んで言った。
「利き手が手錠で繋がれているせいで、パソコンの操作がしづらいんです」
私は苛立ちを抑えながら、ぶっきらぼうに答えた。
「それがどうした。仮に、その不利な条件を考慮に入れたとしてもだ。きみが新聞を一部調べている間に、僕はその十倍の部数を捌いているわけだが?」
いちいち癇に障る男だ、と私は思った。
しかし、その台詞の通り、確かに遊間の新聞を調べる速度は常人のそれをはるかに上回っていた。
パソコン画面に一面が表示されるたび、一秒の間も置かずマウスのボタンをクリックし、次の画面の読み込みを開始するので、最初はまったく記事を読んでいないのではないかと疑ったほどだ。
だが、私が記事の内容について質問すると、一字一句違わず正確に答えるので、その疑いはすぐに消え失せてしまった。
「ところで、あと少しでこの図書館も閉館の時間だ。続きは明日にして、そろそろ切り上げるとしよう」
遊間にそう言われて、私は部屋の壁時計に目を向けた。
この図書館の閉館時間は、午後六時。時計の針はその十分前を指し示していた。
私は、読んでいた新聞の発行日をスマホにメモすると、遊間とともにコンピューター利用室を後にした。
図書館から出ると、日はすでに暮れ始め、空は薄紫色になり、街灯には淡い明かりがともっていた。
「私、薬だけでも取りに帰りたいんですけど」
私がそういうと、遊間は一瞬だけ面倒そうな表情を見せてから、分かった、と答えた。
家に帰る道すがら、遊間がやたらと周囲を気にしていることに私は気付いた。
「先ほどから、ずっと辺りを見回していますけど、何か探しているものでもあるんですか?」
私が遊間に尋ねると、
「いや、なに、ただの観察だよ」
と、はぐらかされてしまった。
アパートに戻り、自室に入るや否や、遊間が呆れたように大声を上げた。
「これはまた随分と散らかっているなあ。きみ、自分の部屋くらい整理整頓したまえ」
この人にだけは言われたくない、と私は思った。
喉元まで出かかった謗言をぐっと飲み込んで、私は机の上の薬袋に手を伸ばした。
薬袋を手に取ると、彼はそれを食い入るように見つめて、質問した。
「これは何の薬だ?」
「お医者様から処方していただいた抗不安薬と睡眠薬です。怪しい薬ではないですよ」
「ふむ……」
遊間はそれを聞いて低い唸り声を上げると、何か考え事をするかのように、顎に左手を当てて、それきり黙り込んでしまった。
薬の他に、化粧品や小物をバッグに詰めてから、私たちは自宅を後にした。
アパートから出ると、日はすっかりと暮れ、藍色の空に黄色い月が小さくぽつんと浮かんでいた。
夜の虫の鳴き声がいつもより少しだけ騒がしい。
私たちは再び奇異の目に晒されながら、商店街の中央通りを抜けて、裏通りへと戻った。
その間も、遊間はやたらと周囲を見回しては、ぼそぼそと何事かを呟いていたが、私はそれを見て見ぬふりをしてやり過ごした。
バーへ戻ると、マスターが厨房に立って、鍋で何かを煮詰めていた。
鍋の近くへ寄ると、少し甘みを帯びたスパイスの刺激的な香りが鼻孔をくすぐった。
どうやらカレーを作っているようだ。
「あら、二人ともおかえりなさい。お夕食できてるから、先に手を洗ってきてちょうだい」
「私もいただいていいんですか?」
「いつも大ちゃんに作ってあげてるから、一人分増えるくらい大した手間じゃないのよ。それに、ご飯はみんなで食べた方が美味しいっていうでしょ? 遠慮せず、召し上がって」
「わぁ、ありがとうございます!」
私がお礼を言うと、マスターはこぼれんばかりの笑顔を見せた。
「遊間さんは、自炊とかされないんですか?」
洗面所で手を洗いながら、私は遊間に訊ねた。
「しないな」
遊間は、しれっとした顔で答えた。
「少しもしないんですか?」
「ああ、まったく」
この様子だと、本当に食事はすべてマスター頼りなのだろう。
「いい大人なんですし、マスターに頼ってばかりいないで、自分のご飯くらい自分で用意しないとだめですよ?」
「うるさい依頼人だなぁ」
遊間はタオルで手を拭きながら、ぶつぶつと文句を言った。
「遊間さん、歳はおいくつなんですか?」
私は、かねてから気になっていたことを尋ねた。
見た目と言動の幼さから察するに、私とそう変わらないか、私より少し年下くらいだろうか。
少なくとも、私より年上ということはなさそうだ。
「三十一だ」
「私より二つも年上じゃないですか」
予想がまるっきり外れて、私は驚きの声を上げた。
「なら、もう少ししっかりしてくださいよ」
私がたしなめると、なぜか遊間は誇らしげに、
「僕は持てる力のすべてを探偵としての能力に費やしているんだ。他のすべてのことについて僕は無力だ」
と、言った。
「そんなどうしようもないことを胸を張って言わないでください」
遊間はそれを聞いて、ふん、と鼻を鳴らした。
洗面所からカウンターへ戻ると、カレーライスが盛られたお皿と小洒落たデザインのシルバースプーンが人数分、テーブルの上に用意されていた。
ゴロゴロのチキンとじゃがいもがふんだんに投入された、ボリューム満点のチキンカレーだ。
「さあ、食べて食べて」
マスターはテーブルを指さして微笑んだ。
「はい、いただきます!」
私と遊間はテーブル前の椅子に隣り合って腰かけた。
カレーを一口、スプーンによそって口に含めると、口の中に濃厚な甘みと旨味がぶわっと広がった。続いて、スパイスのピリリとした辛さが舌を心地良く刺激する。辛さは感じられるものの、決して辛すぎるといったことはなく、程よく旨味を感じられる絶妙なバランスだ。
見た目は少々不格好だが、高級ホテルでふるまわれるカレーにも引けを取らない本格的な味わい。それでいて、どこか家庭的な温もりもほんのりと感じられる、そういう優しい味であった。
「うわあ、美味しい」
「そう言ってもらえると、手間暇かけて料理した甲斐があるわ」
マスターは満面の笑みを浮かべた。
ふと隣を見ると、遊間は私のことなど気にも留めない様子で、美味しそうにマスターのカレーをパクパクと口に運び続けていた。
「いつもこんなに美味しい料理を作ってもらえて、遊間さんは幸せ者ですね」
「そうだろう。自慢の料理だ」
遊間は口をもごもごさせながら答えた。
「だから、なんで遊間さんが偉そうにするんですか」
私がそういうと、遊間はまたも鼻をふんと鳴らした。
食事を終えた私たちは、マスターにお礼を言い二階へと上がった。
濡れタオルで身体を拭き、お手洗いもなんとか済ませた私たちは就寝まで遊間の部屋で過ごすことになった。
私がスマホでゲームをしたり動画を見たりして時間を潰している間、遊間は一人で黙々と本を読み続けていた。
気が付けば、時計の針は十二時を回っていた。
朝から波乱に満ちた一日を送る羽目になり、すっかり疲れ切っていた私は、一足先に就寝しようと考えた。
遊間に布団の場所を尋ねると、
「ああ、普通の人間は寝るときに布団やベッドを使うんだったな」
と、意味ありげなことを言って、部屋の隅に置かれていたビーズソファを「彼の場所」の隣まで乱暴に引っ張ってきた。
「うちに寝具はないんだ。すまないが、それで我慢してくれたまえ」
「寝具がないって……遊間さんはいつもどこで寝ているんですか」
「もちろん、ここだ」
彼は、お気に入りの椅子を指さして言った。
私は不満を言う気力もなく、そのままソファにもたれかかり、目を瞑った。
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