6
私が人を殺したかもしれない。
その恐怖が、真綿で首を絞めるかの如く、じわじわと私の心を苦しめていた。
私は救いを求めて、意味もなく天を仰いだ。
私の気持ちとは裏腹に、雲ひとつない青空だ。
太陽の眩しさに、私は思わず目を瞑った。
本来は清々しく感じるはずの真っ直ぐな日差しも、私には、まるで太陽が罪人を炙り出すために地上へ放った断罪の光のように思えた。
チラシに記載されていた住所は、私の住むアパートからそう遠くないところにあった。
その一角に、遊間探偵事務所は存在しているらしい。
道の途中、たまにお弁当を買ったりする最寄りのコンビニ前に、パトカーが一台停車していた。
どうやら、今朝の事件について聞き込みをおこなっているようだ。
あれは夢だ。私が殺したわけではない。そう強く自分に言い聞かせるが、足がすくんで前へ進めない。
私は仕方なくコンビニ前の通路を迂回して、商店街へと急いだ。
コンビニを通り過ぎて、しばらく真っ直ぐ歩き続けると、ようやく駅のホームが姿を現す。改札を横切り、踏切を渡ると、そこはすでに商店街の入口だ。
平日の昼間にもかかわらず、買い物客で商店街は賑わっていた。
私は人目を避けるように、俯きつつ早足に歩いた。
商店街の大通りをしばらく進み、少し道を外れたところに、悪魔通りと呼ばれる通りはある。
人ひとりがようやく通れるほどの大きさの通路で、周囲は建物に囲まれており、日がほとんど差し込まず、昼間だというのにやけに薄暗い。
通りの入口に立つと、煙草と香水の混ざりあったような甘苦い香りが、生温かい風とともに鼻孔をくすぐった。
悪魔通りは、その通称が示すように、あまり表には出せないことを生業としている住人が多いらしく、地元では治安が良くないことで有名だった。
私は意を決して、悪魔通りへ一歩足を踏み入れた。
薄暗く細い通路を進んでいくと、「オカルト事件専門、遊間探偵事務所」と書かれた看板が目に入ってきた。
その場所には似つかわしくない和洋折衷の小洒落た二階建ての建物で、一階はバーになっている。チラシを確認すると、例の探偵事務所はこの建物の二階に構えているようだ。
私は二階へ上る階段を探すために、建物の裏手に回り込んだ。しかし、それらしきものは見当たらない。
階段を探して、しばらく建物の周りをうろうろしていると、準備中の掛札がかかっていたバーの扉が突然開いた。
「ごめんなさいねぇ。ここ、開店は十六時からなのよ」
低音の良く通る声とともに、扉からがたいのいい男性……いや、女性と言った方が良いのだろうか、が現れた。バーテンダーのようなピシッとしたスーツを着ており、恐らく、この店のマスターだと思われる。
「いえ、あの私、あまりお酒は飲めなくて……じゃなくて、この建物の二階にある、遊間探偵事務所に用があってきたのですが……」
「あら、大ちゃんのところのお客さん? 珍しいわねぇ。それなら一度、うちのお店のなかを通っていかないといけないのよ。ほら、奥に階段があるでしょ? 不便でごめんなさいねぇ」
マスターはそういうと、私を店内へと案内してくれた。
店内は小ぢんまりとしており、飾り気も少なく、キャンドルライトによる程よい薄暗さが心地よい、落ち着いた雰囲気のバーであった。カウンターの後ろの棚には、私のような下戸には到底馴染みのない珍しい銘柄のお酒が大量に並んでおり、私は思わず感嘆のため息をついた。
悪魔探偵というくらいなので、どんな怪屋敷に住んでいるのか戦々恐々としていたが、この様子なら遊間なる人間も案外まっとうな人物なのかもしれない、と私は思った。
しかし、二階から現れたその異形の姿を目にしたとき、私のその浅はかな幻想は儚くも打ち砕かれた。
「にゃあ」
「あらバエルちゃん、どうしたの?」
鳴き声のした方向に目を向けると、そこには、血まみれになった黒猫の姿があった。
しかも、ただ血まみれになっているだけではない。
本来、右前足がついているはずの場所には何もついておらず、右目も潰れているのか、目玉があるはずの場所はがらんどうの空洞になっていた。
右前足がないせいで、歩くことすらままならないのか、身体を引きずるように移動している。
それは、あまりに痛ましい姿だった。
「誰がこんな酷いことを……」
その異形……ひとつ目、三本足の黒猫は、その青い瞳で私を一瞥すると、おぼつかない足取りで、ふらふらとどこかへ歩き去ってしまった。
その黒猫の後を追うようにして、二階から痩せぎすで背の高い男がひとり、階段を下って現れた。
長く伸びた前髪で、片目を隠した陰気そうなその男は、右手を強く握っており、その拳の先からは赤い血がぽたぽたと滴り落ちていた。
まさか、この男が先ほどの黒猫を……。
男が黒猫を痛めつけて愉しんでいる光景が、まざまざと脳裏に浮かんでくる。
男は黒猫を探しているのか、きょろきょろと辺りを見回していた。
私はその不気味な男に気付かれぬよう、必死に息を押し殺した。が、ふとした拍子に視線が合ってしまう。
男は私の存在に気付いたのか、不気味な笑みを浮かべながら、ふらふらとした足取りでこちらに近づいてきた。
その足取りは、さながらパニック映画に登場するゾンビのようにたどたどしく、その細長い体躯も相まって、骸骨の怪物を彷彿とさせた。
「い、いや。来ないで」
次の瞬間、猛烈な破裂音が室内に鳴り響いた。
私は無意識のうちに、男の頬をひっぱたいていた。
「い、痛い」
男は左頬を抑えながら、泣きそうになるのを必死に堪えていた。
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