第10話 暗黒期

 二月末までの数日間は、あっという間に過ぎた。


 登美彦と妃沙子の仲が怪しい、という噂はすでにスタジオ内に知れ渡っていたらしく、おかげで響谷のご機嫌がすこぶる悪くなっていた。


「完全な安牌アンパイだと思っていたのにトミーに裏切られた。好感度アップ作戦が台無しだよ」


 などとぶつくさ言いながら、寝袋に包まって駄菓子を貪り食っている。


 新人教育の頃から好感度は地に堕ちていたはずだが、いったいいつ好感度アップ作戦が発動していたのかは不明である。バレンタインデー当夜に妃沙子をタクシーで送り、自身はあっさりと身を引いたことを指しているのだろうか。女性宅までのこのこと送っていくよ


 うな薄鈍うすのろよりもよほど紳士的な振る舞いだ、とでも思ったのかもしれない。


 めっきり仕事量が減り、作画スピードは亀のように鈍くなった響谷の様子を見て、林田が仕事をあちこちに割り振っている。手の空いていそうなフリーランスのアニメーターに電話をかけまくり、外注された業務をさらに外注してまで納期に遅れまいとする姿勢にプロの矜持を垣間見た気がした。


「大塚さんのプライベートが充実すると、響谷君が暗黒期に入るんだよね」


 林田は嫌な顔ひとつせず、各アニメーターのスケジュール管理をしている。


 ハバタキ専属ではないアニメーターは他社の仕事を掛け持ちしているので、体調を崩していないかそれとなく伺いつつ、電話で意見交換した上でスケジュールの微調整を行い、作業時間にある程度の余裕を持たせる、という細やかな配慮までしている。


「スタジオの社長って大変なんですね。優雅にコーヒーを飲んでいるだけかと思いました」


「若い子からピンハネしているだけのプロダクションもあるけど、俺は制作進行が長かったからね。こういうことには慣れているよ」


 登美彦の失礼な物言いにも林田は意に介していないようだった。


「新人は制作進行を二、三年やったら制作デスクにステップアップして、将来は監督や演出、プロデューサーを目指すものだけど、俺は七年ちょっと制作進行だった」


 林田の説明によれば、分業制のアニメ制作において、その全工程に関わるのが「制作進行」という役職であるそうだ。


 制作進行は絵も描かないし、音も作らないし、色も塗らないが、各セクションのスケジュールをたった一人で管理している。制作進行のおかげで遅滞なくアニメーションが作られていき、制作進行の能力次第で作品のクオリティが劇的に変わるという。


 制作デスクというのは複数の制作進行を管理する立場で、林田はこちらも三年ほど経験しており、都合十年も制作進行をやったという経歴は業界では相当長い方らしい。


 原画が遅れる、作監からカットが出ない、背景があがらない、作業担当者に連絡が取れない、アニメーターが風邪を引いた、通勤中に事故に遭ってしばらく入院、彼女にフラれて、さっぱりテンションがあがらない……、といった山のように発生するアクシデントすべてに対処し、スケジュール通りに現場が動くように管理するのが仕事だそうだ。


「アニメーションは集団創作だから、クリエイター一人一人の性格や作風を知るのはもちろん、お菓子の好みや服装まで把握して、ふだんはどんな作品が好きで、将来どんな作品を作りたいのかをきちんと把握しておかなければならない。制作進行は車の免許さえあれば誰でもできるなんて言われるけど、なかなか胃の痛い仕事だよ」


 先ほどから妃沙子はヘッドフォンを付けて作画に集中しており、響谷は相変わらず寝袋に包まったままゴロゴロしている。やる気をなくすと、とことんなくす性質らしい。


「そういえばハバタキのロゴはどうするんですか」


「ひとまず鴨志田さんの提案を聞こうと思っている。響谷君は猛反対しているけど」


「響谷さんの案だと、『戦艦ハバタキ』ですよね」


 登美彦はちらりと響谷のデスクを見る。作画資料と戦艦のプラモデルだらけのデスクは、お世辞にも片付いているとは言えない乱雑ぶりだ。


「ロボとかメカのイメージが強過ぎて、他の仕事が来なくなっちゃうと困るんだよね。うちはメカニックデザインに特化しているわけじゃないし、得意なのは響谷君だけだし」


 一昨日、キンクロハジロを社のマスコットキャラにしようと林田が提案すると、妃沙子は「いいんじゃないですか」とあっさり同意したが、響谷が強硬に反対した。


「ロゴは戦艦じゃないとぜったいに認めない! 波動砲を撃てないならイヤだ」

「白と黒なんて、のらくろのパクリみたいじゃん!」

「後頭部のポニーテールが妃沙ちゃんみたいでイヤ!」


 などと子供のようにごねていて話はまるで進展しなかった。林田は「うんうん、分かった」とうなずき、ごねる響谷を叱るでもなく窘めるでもなく、ただそのまま放っておいた。


「ひとまず鴨志田案を聞きにいこうか。奥野君も同席してくれる?」

「はい、分かりました」

「じゃあ今から行こうか。今日の午後三時に事務所に伺う予定になっているんだ」


 林田はキンクロハジロのラフ画とコラムをブリーフケースに入れると、登美彦を引き連れてスタジオを後にした。


 有楽町に向かう車中で、登美彦はかねてより疑問に思っていたことを林田に訊ねた。


「キンクロハジロのコラムを書いた皆川という人は、妃沙子先輩の待ち人のカメラマンと同一人物なのでしょうか」


 社用車のハンドルを握っていた林田の手がぴくりと止まる。


「制作進行の頃にはテレビ局にも出入りしていたからそれなりに伝手はあるし、報道されていない情報も小耳に挟むことはある。コラムを書いたかまではさすがに分からないけど、皆川氏のその後の消息については聞いているよ。中東の武装勢力に拘束されたらしい」


 信号待ちの合間、横断歩道を若い夫婦と小さな子供が手を繋いで渡っていく。


 杖をついた白髪の老女がよたよたと歩いているが、信号はもうすぐ変わりそうだ。


 濃い色のサングラスをかけた林田がどんな表情をしているのか、助手席からはいまいち判断できなかった。


「知らなくてもいいことはあると思う。知らないほうが幸せなこともあると思う。ジャーナリスト連中はそうじゃないと言うかもしれないけれど、あいにく俺はジャーナリストじゃない。平和ボケした国で毒にも薬にもならないアニメを作ってるだけだ。心に平和がなきゃ、アニメなんて作れやしないよ」


 信号が赤から青に変わった。


 老女はまだ歩道を渡り切っておらず、林田はハンドルに手をかけたまま車を発進させようとはしなかった。


「ほんとうのことを教えるつもりはないのですか?」


 登美彦が低い声で尋ねると、車がゆっくりと動き出した。角度のせいで助手席からは見えなかったが、歩道を渡り切った老女は盲導犬を連れていた。


「奥野君が来る前の話だけど、彼女、一時期まったく描けなくなってね。俺は真実を知っているけれど、それを伝えるつもりはない。彼女から絵を奪う権利はないもの」


 車内にBGMはなく、ふいに林田が黙ると水底に沈んだように静かになった。


「目が見えないと、生活するのも大変だろうね」


 林田がぽつりと言った。


「入れ込み過ぎると、彼女もちょっと目が見えなくなっちゃうことがある。だから奥野君が支えてあげてよ」


 咄嗟になんと返事していいのか分からず、登美彦は窓越しに盲導犬を見つめていた。

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