第8話 弁理士・鴨志田

 深川図書館で調べ物を終えた登美彦はスタジオへまっすぐ戻ろうとしたが、お隣から声がかかった。リバーサイド・カフェのテラス席で林田と妃沙子が見知らぬスーツ姿の男と談笑しており、妃沙子は明らかによそ行きの笑顔を浮かべている。


「奥野君、ちょっとこっちに来たまえ」


 林田がちょいちょいと手招きをして、登美彦を呼び寄せた。


 林田の格好はタートルネックにチノパンというラフな装いだが、トレードマークのウェリントン型サングラスを外している。サングラスを外すと意外にもつぶらな瞳をしており、業界人然とした威圧感はふわりとも漂っていない。


 店内から漂ってくるコーヒーの匂いの方がよほど濃厚だ。


「紹介いたします。こちらが奥野君。現在、動画を担当してもらっています」


 林田に紹介されたため、登美彦はわけも分からず小さく会釈した。


「私、有楽町で弁理士事務所をしております鴨志田と申します。以後、お見知りおきを」


 チャコールグレーのスーツにストライプシャツをびしりと着こなした男が颯爽と立ち上がり、流れるような動作で名刺を差し出した。わずか三席のテラス席でこそこそ商談しているのがまったく似合わない風格がある。


 年齢はおそらく響谷と同じか、少し上ぐらいに見えるが、寝袋に包まって眠る姿など想像できそうもない。堅苦しいスーツを着ているだけで、違う世界の人間のように見える。


「すみません。名刺を持っていなくて」


 登美彦が恐縮しながら名刺を受け取ると、鴨志田はうっすらと笑みを浮かべた。


「さっきの鳥の名前、分かりました。キンクロハジロです」


 妃沙子が立ち上がったので登美彦が耳打ちするぐらいの小さな声で告げると、妃沙子がいかにも大袈裟に言った。


「頼んでいたやつを調べてきてくれたの、さすが奥野君、仕事が速いね」

「……はい?」


 妃沙子は、さあ座れ、と言わんばかりに登美彦に席を譲る。


「グッドタイミング。あとよろしく」


 囁くような声が耳に届いた。


「貴重なご提案どうもありがとうございました。納期が近い原画が溜まっておりますので、私はこれで失礼いたします」


 登美彦が着席すると、妃沙子は鴨志田に会釈してから去っていった。


「奥野君にコーヒーがなかったね。ちょっと注文してくるよ」


 妃沙子が去り、林田はコーヒーを注文しに店内へ入っていってしまった。


 コーヒーを淹れるのにおそらく数分はかかるだろう。その間、見ず知らずの男と二人きりでは間が持ちそうにない。せめて林田が早く戻ってきてくれないか店内をちらりと見るが、あいにく今日は満席で、マスターもコーヒーを淹れるのに忙しそうだ。


 注文さえまだの林田が戻ってくる気配はない。


 テラス席に残された登美彦は、仕方なく名刺に目をやった。


 そもそも弁理士とはどんな仕事なのかもよく分からないし、名前の似ている便利屋とどう違うのかもまったく分からない。名刺には事務所の所在地と電話番号があるだけで、業務内容など書いていない。弁理士とはどんな仕事か、と訊ねるのも失礼だろう。


「ぜひ名刺を裏返してみてください。イラスト作家の方々と戦略的なパートナーシップを組みたいという思いも込めて、キャラクターはオシドリにいたしました」


 一瞬、鴨志田がなにを言いだしたのか理解できなかったが、名刺を裏返すとよく分かった。名刺の裏面に二匹のオシドリが寄り添って並んでいるイラストが印刷されていた。


「いわゆるオシドリ夫婦というやつですね。ライセンスビジネスにおいて弁理士とイラスト作家は夫婦のようなものです」


「なるほど。それでオシドリなんですね」と登美彦が分かったような相槌を打つ。


 オシドリもカモ科なので、先ほど鳥類図鑑の中で何回も見かけた。


 雄の方がカラフルで目立っていて、雌は地味。


 一般的には夫婦仲良く寄り添うイメージが強いが、雄は毎冬ごとにパートナーを取っ替え引っ替えする大変な浮気性で、雛が育つとさっさと離婚して浮気に走る、というトンデモな記述があった気がする。


 弁理士という仕事がいったいどんな仕事かは知らないが、喜々として名刺にオシドリを印刷するセンスは狙ってやっているとしたら危険極まりないし、知らずにやっているとしたら少々間が抜けている。そう思うと、目の前の鴨志田がいきなり胡散臭く感じた。


「失礼ですが、奥野さんは一枚の絵にどのぐらいの報酬を得ていますか」


 あまりの直球の質問に、登美彦が面食らう。


「一枚百五十円から二百円ぐらいですかね」


「それは少ない。いくらなんでも少なすぎますね。原画担当の大塚さんでも一枚三千円から四千円とお聞きしましたが、それでも安すぎるぐらいだ」


 鴨志田が右手を大きく広げた。


「一枚の絵に五万円を出しましょう。スタジオ・ハバタキに所属するアニメーターの皆さんの絵にはそれだけの価値があります」


 妃沙子の報酬は絵一枚ではなく、一カットあたりの報酬だ。


 絵一枚に換算すればもっと安い報酬になるだろう、ということはあえて訂正せず、登美彦はただひたすら林田が戻ってくるのを黙って待っていた。


「ハバタキは手堅い仕事で有名で、納期には絶対に遅れないと評判です。林田社長が独立前、制作進行を長く務められていたためでしょう。所属アニメーターに決して無理はさせないスケジュール管理、緩めるときは緩め、締めるときは締める手綱捌きは職人芸の域と聞いております。それほど実力ポテンシャルのあるスタジオなのに、自社所有オウンドメディアもなければ企業ロゴもないなんて信じられませんね。早急に着手すべきです」


 鴨志田は早口でべらべらと喋り続けている。


 登美彦は店内の様子をちらちらと見ながら、「はあ、そうなんですか」とだけ答えた。


 林田の前歴など知らないし、ハバタキの仕事ぶりの業界評など聞いたこともない。


 ただ目の前にある仕事をこなすばかりの毎日だ。


「お待たせいたしました。鴨志田さん、よかったらコーヒーのお代わりをどうぞ」


 紙のコーヒーカップを二つ抱えて、ようやく林田がテラス席に戻ってきた。


 一つを鴨志田の前に置き、もう一つは登美彦の前に置く。


「恐縮です」


 鴨志田が早速、コーヒーに口をつけた。


 湯気の立つコーヒーをさして味わうでもなく飲み干すと、鴨志田が立ち上がった。


「次回打ち合わせで貴社の企業ロゴデザインをいくつか提案させていただき、パートナー契約の手続きを進めさせていただきます。お手数ですが、次回は当事務所までお越しいただきたく存じます」

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