第7話 羽ばたけない理由

 寝癖鳥の正式名称を知るべく、登美彦は清澄庭園に隣接する深川図書館に赴いた。


 図書館というよりは旧銀行といった方がしっくりきそうなレトロな石造りの三階建てで、カーブした木製の階段はお城の舞踏会のシーンに登場しそうな雰囲気だ。踊り場の壁には西洋の教会にありそうな幻想的なステンドグラスがはめ込まれ、アンティークランプが柔らかな光を投げかけている。


 登美彦は二階の動物、植物の図鑑類が収蔵された書架の前で立ち止まると、背表紙の文字を目で追った。


「ひと目で見分ける野鳥図鑑」「水辺の鳥」「野鳥ウォッチングガイド」などの野鳥識別関係と思しき本もあれば、「野鳥撮影バイブル」「デジタルカメラによる野鳥撮影テクニック」といった写真撮影系の本もあり、「鳥の描き方マスターブック」といった絵の描き方指南本まであった。


 野鳥はざっくりひとまとめなのにペンギンだけは特別扱いで、絵本があったり、フォトエッセイがあったり、ペンギンツアーガイドなるものまで蔵されていた。登美彦の手はまず鳥の描き方本に伸び、それから愛らしく描かれたペンギンの絵本に伸びた。児童向きの絵本に添えられた文章はごくわずかで、パラパラとめくるだけでも内容は把握できた。


 だが内容どうのこうのよりも、皇帝ペンギンとアデリーペンギンがフリッパーを揺らしながらちょこちょこ歩いている様はそれだけで可愛く、腹這いになって雪の上を滑走するレースシーンはそれこそアニメ映えしそうな一枚絵だった。


 このペンギン特有の腹這いの滑り方は、「トボガン滑り」というらしい。


 トボガンとは小型のそりの総称で、こんな滑稽な滑り方をするのにもちゃんとした理由があり、雪上を歩くより滑った方が楽ちんだからだそうだ。とはいえ、レース最後尾でリタイアしたジェンツーペンギンは、ふかふかの雪に頭っから突っ込みトボガンしようとするもほとんど進まず、よちよち歩いていた方がよっぽど速そうである。


「なんかペンギンって和むな」


 アクリル絵の具で着色された見開きの絵は一目惚れしそうになるぐらいチャーミングで、妃沙子の描いた寝癖鳥に近いタッチを感じる。ちらりと妃沙子の描いた速写画を見て、ようやく本来の目的を思い出した登美彦は、慌てて書架に絵本を差し戻した。


「ええと、こいつの名前は……」


 目についた野鳥図鑑をパラパラとめくるうち、カモの仲間の中に寝癖鳥らしきフォルムを発見した。


 特徴的なぴょこんとはねた寝癖、金色の目、全身は黒く、羽根の下半分だけが白く、陸地に立っている姿はまるでペンギンのようなそいつの名は、キンクロハジロ。


 漢字で書くと、金黒羽白。

 カモ目カモ科ハジロ属。

 湖沼、河川、河口などに生息。


「ほんとうにそのまんまだな。長男にイチローって名付けるぐらいそのまんまだ」


 登美彦は妃沙子の描いた速写画の下に「キン、クロ、ハジロ」と名前の由来を三つに区切って書き込み、野鳥図鑑を書架に差し戻した。調べついでにキンクロハジロについて書かれた記述を探して何冊かの書物を手にとると、次々と興味深い生態が浮かび上がってきた。


 キンクロハジロは雌雄で羽色が違い、白黒はっきりしているのが雄、全体的に褐色なのが雌であるらしい。後頭部に寝癖があるのは雄だそうだ。


 日中は休息して夜間に活発に活動するが、公園などで餌付けされているものは日中でも餌を求めて動き回るという。


「なんだかアニメーターの生活に似ているな」


 登美彦が忍び笑いするが、図鑑の末尾に書かれた段落を読んで思わず素っ頓狂な声をあげた。そこには、さりげなくこう書かれていた。


 ――水深十メートル以上まで潜ることができ、水草などの植物や貝やエビなどの小さな水生生物を食べて生活している。


「こんなとぼけた顔して潜るの?」


 図鑑の中の写真では、キンクロハジロが頭から水中にダイブしていた。


 カルガモのように水面で餌を食べる水面さいガモと違い、キンクロハジロは水の中に潜って餌をとる潜水採餌ガモの仲間で、スキューバダイビングするように水中に潜る。


 水面の広い大きな川や沼、湖、お城の堀などの淀みにやる気もなさそうにぷかぷか浮いているばかりで、ほとんど陸にはあがらず、冬鳥のくせに積極的に飛び立とうしないのには、ちゃんとした理由があるそうだ。


「キンクロハジロが羽ばたけない理由……って、なんとなくうちの社名みたいだな」


 バードウォッチングが趣味というカメラマンが書いた寄稿コラムは軽妙で、図鑑にある学術的な記述とは毛並みが違った。



 キンクロハジロが羽ばたけない理由


 キンクロハジロが好む環境は「流れが弱い」場所で「広く開けた水面がある」という共通点があるが、これは身体の構造が水中に潜ることに特化してしまったがための反動である。

 キンクロハジロは水中に潜りやすいよう体重は重く、身体に比べて大きな水かきがついていて、水かきで蹴った力が効率よく伝わるよう、脚は身体の後方についている。

 余談だが、陸上にあがると姿勢がペンギンのように直立になる。

 無理矢理に例えるとすれば、東京湾に沈められるときに重しをつけられたり、スキューバダイビングのときに足ヒレをつけたり、船のエンジンが船体の後方についているのと同じようなものだ。重い方がよく沈むし、足ヒレは水中での推進力になる。船のエンジンが前についていたら、進むどころか後退しっぱなしだろう。

 水に潜るには便利なキンクロハジロの身体であるが、一つ難点がある。

 水面から容易に飛び立てないのだ。

 カルガモやオシドリは水面からすぐに離水できるが、キンクロハジロは身体が重いので助走が必要となる。飛び立つときには十数メートル、必死に走って水面すれすれに離水し、ようやく空中に浮上する。離陸時にヘリコプターは発着できる広場さえあればいいが、飛行機は滑走路が必要だという違いに似ている。

 それゆえキンクロハジロは、流れが弱く、広く開けた水面がある場所を好むのだ。

 決して「飛べない鳥」なのではなく、「飛ぶのにやたらと助走が必要な鳥」なのである。

 キンクロハジロは足が身体の後方についているため陸上でバランスを保ちにくいようで、カルガモのように頻繁に陸にはあがらない。そのため羽づくろいを水上で行うことが多い。特にお腹の羽根を手入れする際は水面上に白いお腹を出すが、このほのぼのとした仕草がラッコの毛づくろいに似ていて可愛らしい。

 天気のよい日に雄のキンクロハジロの顔をよく観察すると、顔の部分が濃い紫色に反射して美しい金属光沢に輝いて見えることがある。

 曇った日も、角度によっては輝いて見える。

 この金属光沢は大人の印で、若い個体では光沢が鈍いことが多い。

 派手な冠羽など、美しい色彩の羽毛をもつオシドリの雄とは違い、派手さには欠けるキンクロハジロだが、派手なことばかりが美しさではないことをしみじみと教えてくれる。



 最後まで読み終えた登美彦は、コラムの執筆者の名前を見て、目を見張った。


 そこにはただ「皆川」とだけ署名されていた。


「皆川って、まさか……」


 ただの偶然の一致かもしれないが、妃沙子を二年間も待ちぼうけにした戦場カメラマンの名が皆川だと聞いた。


 奥付を見ると、書籍の発行年月日は二十年以上も前の日付であることが知れた。


 登美彦は書籍を受付カウンターに行き、コラムのコピーをお願いした。

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