八神奇譚~藍沢探偵はヤクザの用心棒~

静沢清司

第1話

     八 神 奇 譚    

      ──始章──


 八神達也は当時、高校三年生で、大学生へとなる境目に立っていた。

 高校の卒業記念と大学の合格記念で、八神一家は遠出をした。八神家は神奈川の横浜に家を置いている。そこから北海道まで車で行っていた。

 かつての八神家なら別の交通手段もあったが、今となっては過去の栄光やその象徴であった財力はあまりない。人よりはあるものの、名家と呼ばれるほどはもうない。


 そして八神家は父、母、達也、そして弟が車に乗って、崖のある道路を走っていた。崖にはきちんとガードレールが作られている。ただ道が蛇のように曲がりくねっている。

 少し怖くて弟は泣き出していたが、達也はそれを必死になだめていた。


 そろそろ弟が泣き止んで、寝かせようとした瞬間。


──その車はガードレールにぶつかり、破壊して、二度か三度回転をしながら下へと落ちていった。


 のちにこれは大スクープとなった。

 なぜなら、一人生き残ったのだ。

 八神達也。ただ独り、重傷を負いながらも息を保っていた。



 一章 恋慕れんぼ 十月二十日 



 天上には、星の海ともいえるような、まさに奇跡が空に広がっていた。とても奇麗な瞬間だ、と男は思う。

 それに対して地上──男がいる路地はじめじめとしていて、その場にいるだけで吐き気がする。

 男はある者に呼ばれたのだ。ある者、というのは友人のことで、長らく連絡を取り合っていなかった。心配していたものの、男は仕事で忙しかった。

 仕事──その男は裏社会で身を張っていた。いわゆる暴力団組織の一員であった。彼のその友人も同じ境遇であったが、所属する組が違い、交流することはあまりなかった。

 そのため、久しくメールが来たと思えば、この場所に来いという文。

 なんだろうかと思って、その指示どおり、指定されたこの路地まで来てみたが、友人の姿はどこにもない。電話をかけても、どうやら電源を切っているらしく、出ることはなかった。

「ったく、もう終電じゃないか……」

 男は深くため息をついた。

「もう──」

 帰るか、という声が出ることはなかった。男の口から出てくるのは苦悶の声。酸素を欲する声。痛みに悶える声。声にもならないくらいの声。

 男の首には、ズボンにつけるベルトのようなものが巻き付かれていた。それで首を絞められているのだ。血管が浮き出て、男の眼球は飛び出しそうだった。

 じきに苦悶の声は止んだ。

 そして、同時に男の命の鼓動も止んだ。

 殺人鬼は男から一旦離れると、ナイフのようなものを出して、男の頬に浅く傷口を作り、りんごの皮を剥くように、殺人鬼はその男の顔の皮を剥いでいった──。



2  十月二十一日


 俺は大学の最後の講義を終えて、あくびをしながらその講義室から出てきた。

 あとから出てきた女性がとなりに来る。

「ねね、今からおうち行っていい?」

 名前は水川有紗みずかわありさ。俺と同じく大学二年生。また俺と同じく文学部文学科。彼女には二つ下の妹がいるらしく、今現在、あまり連絡はとっていないとのこと。しかし妹は名家で立派に仕事をこなしていると有紗から聞いている。

「朝子に迷惑はかけたくないから嫌だ」

 八神達也。八神、というのは神奈川県横浜市に位置する宝竜会のうち八神組という大規模な組織を支配していた。


──俗的に言うと、ヤクザである。


 しかし二年半ほど前の事故で八神家は俺を残して壊滅。今はもう八神とその組は関係のないことになっている。

 あくまで表面上──の話だが。


「朝子さんはほら、あたしが来るとすごく喜んでくれるじゃない?」

「いや喜んでいな──いや、あながち間違いじゃないか」

「でしょ? ならいいじゃない、ね?」

「だとしても、だ。俺はどうなる俺は。別にお前が来たところでうれしくもなんともないんだが?」

「あ、ひど。それ彼女に言うセリフ?」

 実際、有紗は俺と交際している。高校二年生のころから有紗は片思いだと思って諦めていたらしいのだが、だめでもともとのつもりで俺に告白し──それを俺は了承した。それは高校三年生になったころの出来事である。

「可愛くねえからな」

「あー、やっぱ顔で選ぶんだ」

「……顔、ねえ」

「うん、どうかした?」

 俺にとって見た目などどうでもいい。

 あの事故を経た俺の視界は、虚無きょむに満ちている。人の姿など、もう長らく目にしていないだろう。

「じゃ、結局どうなの?」

「悪い。無理だ。このあと俺、病院に行かなくちゃいけなくてな」

「……そ、そう」

 有紗はさも残念そうに顔をうつむかせた。だが有紗はすぐに顔をあげて笑顔で、

「うん、わかった。じゃまた今度ね」

と言って、俺のもとから離れていった。



 俺は大学をあとにし、最寄りの総合病院へ向かった。そこには俺の担当医がいる。

 総合病院の入り口に入って、受付の前に立つ。

「予約していた八神ですが」

「ああ、はい。八神さまですね。あちらにいらっしゃいますよ」

 受付の娘らしきそいつは右側の廊下の奥、つまりは診察室のほうを指した。同じ方向に顔を向けて、そこへ歩いていった。

 もともと場所はわかっている。なにせ俺にとってはなじみ深い場所であり、これから会う人は俺が事故にあった二年半前からの付き合いだ。

「……失礼します」

「ああ、来たか」

 女性だ。成熟していて、それでいて若々しい外見と聞いている。まるで女優みたいな人だ、とも。長い黒髪は後ろでっていて、前髪はかき分けて綺麗な額を見せている。顔はやはり大人の顔。しかし目立ったしわはなく、何一つとして老いを感じさせるような要素はなかった。そんなふうに話好きなナースが言っていた。

 あと、白衣がよく似合う女性らしい。

「真紀子さん、いきなりどうしたんですか、こんなところに呼びつけて」

「大した用じゃないよ。私はただ、君の状態を見たくてね」

 真紀子さん。笠井真紀子かさいまきこという、八神達也の担当医である。もとは笠井という苗字ではなく、京極という苗字だったらしいが、俺にとってはどうでもいい情報。だからその事実以上をたずねることはしなかった。

「状態もくそもないさ。いつだって変わりやしない」俺は卑屈そうに苦笑しながら言った。「誰を見ても、いつもいつも空っぽだ。結局、俺の視界に映る奴らはいつまで経ってもその姿を変えない」

「だろうね」真紀子さんはなぜか嬉しそうに笑いをこぼして言った。

「なんで嬉しそうなんです」

「いやね。まだまだ研究し放題ってのが嬉しくてね」

 真紀子さんは女性らしい見た目に反して、男勝りな性格が目立つ。その象徴として真紀子さんは男口調である。

「ところで最近物騒だねぇ、八神くん。ここの近くで連続殺人事件が起こっているらしい」

「へえ。いったい、どういうものなんですか」

「被害者は顔の皮をはぎ取られ、死んでいる。あとこれは今朝のニュースでわかった共通点なんだがね、殺された二人は同じく『八神の分家筋』らしい」

 俺は肩を少し跳ねさせ、顔をうつむかせる。でも、それからすぐに顔をあげて真紀子の顔に視線を移した。

「そう、ですか」

「ああ、そういえば君にも──いや、この話はやめておこう」真紀子さんは察して言った。「まあ本題に移るけど。やっぱり人の姿が〝影〟にしか見えないのかい?」


──はい。

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