幸せは難しい

 梅華はゆっくりと酒を口に含んだ。

 口の渇きを潤す程度の量だけ含むとグラスを置いた。


「歳を重ねることに恋愛も結婚も、それに出産も難しくなっていくんだよ。今の幸せも大事だけど、未来の幸せも大事にして」


「わたしね……恋愛や結婚を幸せなんだと、思えないの」


 身体に溜まった息を吐くように桃子は言った。

 そして、吐いた息の分ビールを呑んだ。


「ほんとはさ、もう幸せって何なのかさえわかんないんだよね。仕事に生きるのが幸せなんて言ってみたものの、言ってみただけってところもあるし」


「何それ?」


「梅が言ったようにさ、弟も働いて家にお金入れてくれるようになってさ、わたしもわたしの為に生きれるんだと思ったんだけど。どう生きればいいのか、って全然わかんなくて。それこそ二十代の頃はさくらみたいに恋愛しようとしたり、梅みたいに結婚を意識した相手もいたんだけど……」


「え、何それ? 聞いてない」


「言ってないもの」


「ええー、そういうの隠さず言うのが私たちの暗黙のルールじゃん」


「短いバイトみたいなもんだから、報告省いていいかと思って」


 話していない事なんて、たくさんある。

 桃子はそう言ってやりたかったが、言葉を飲み込む事にした。

 自分の事を親友とまで言ってくれた梅華をこれ以上傷つけたくはない。

 桃子自身も、梅華とさくらの事を親友と思っている。

 だからこそ、言わないでいる事がある。

 二人に無用な心配をかけたくはなかった。

 過去の恋愛はそれほど些細な出来事だった。

 今も当時も、恋愛と呼べるほどの現実感のないおままごとの様な付き合いだったと思っている。


「出産……子供を産むこと、それに家庭を持つこと。梅を見てると素敵だなって素直に思えるんだけど、自分に置き換えちゃうとそれを幸せだと思えなくなっちゃうんだよね」


「桃子の家族の様に、繰り返しちゃうとか思ってんの?」


「うーん、そう、かな。漠然とした不安めいたものなんだけどね。でも、その不安めいたものっていうのが様々なものを不透明化させてるっていうか。幸せなビジョンってのがわかないの」


 ビールに浮かぶ泡が小さく弾けた。

 

「幸せってさ、難しいよね」


 桃子の言葉に梅華は首を少し捻った。

 頷ける話ではないが、かといって完全に否定する話でもない。


「難しい、か。さくらみたいに何でもかんでも幸せだって言えるぐらいの単純さが欲しいところね」


 梅華は小さく寝息をたてるさくらの頭を撫でる。

 羨ましいぐらいの寝姿だ。


「この子、今日ここ来る前にロト6買ってたの。三等でも当たれば幸せがピークかも、だって」


 ロト6の三等なんて大体百万円いくかどうかの当たり額だ。

 百万円なんてさくらが働いている安いアルバイトだって、一日八時間一年働けば余裕で手に入るお金だ。

 桃子には長い人生のたった一年の些細なお金の様に思えた。

 それでいて、その些細な金額のくじがなかなか当たらないのだから当たるとしたら幸せなのかもしれない。

 そして、その桃子にとっては“かもしれない”幸せをさくらはピークだと言う。

 幸せの価値はわからない。


 

 だいぶ酔っぱらってきたということで、今度こそ桃子は帰ろうと梅華に言った。

 本当はまだまだ酔いは深くないのだが、今夜は悪い酒になる気がしてお開きにしたかった。

 梅華はまだ話し足りなかったのか一度うーんと唸ってから、渋々頷いた。

 梅華はさくらを揺すって起こそうとする。

 さくらがなかなか起きそうになかったので、桃子は先に会計を済ませてくると言って席を立った。

 さくらが起きないからもう少しだけ、という延長の言葉を聞きたくはなかったから。



 桃子は居酒屋の前で二人と別れ、帰路につく。

 眠りから覚めたさくらは酔いも少し覚めた様で、今夜は誰も誰かを頼らずにそれぞれの帰路につけた。


 駅前の市営有料駐輪場。

 二十四時を過ぎ無人となった駐輪場から一人静かに自転車を取り出す桃子。

 財布から一時駐輪用の券を取り出すと、それを入り口の横にある機械に差し込む。

 機械音声のガイダンスが場内に響くと、小さなシャッターが開いた。

 機械が稼動する音だけが聞こえる場内から、桃子は静かに出ていった。


 駐輪場を出ると夜の肌寒さに桃子は身震いした。

 秋になり寒くなった夜の気温、そして深まる夜の静寂に桃子は孤独を強く感じた。

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