逃亡者「俺!」

@bugi

第1話「俺、確保!」

 パトカーのサイレンの音が深夜の銀座の曇天に吸い込まれていく。

ここは銀座の裏通りの名も知らないビルの屋上の手摺の外側、わずか30㎝程張り出した渕にギリギリ立っている。


つま先はすでに建物の外にはみ出し、時折吹き上げてくるビル風がさらされた頬をヒヤリとさせ、後ろ手に冷たい手摺を握る手は生温い手汗で油断すると滑りそうになる。


思えば長野からここまで、よくたどり着いたものだ。

ここで捕まるわけにはいかない、あの女を見つけるまでは…。

しかしこれ以上、逃げ場のないところまで来た!


 大きく深呼吸してから右方向にカニ歩きで一歩二歩と移動すると

「やめろー!」

「早まるなー!」

と叫ぶ声とともに黒い人だかりも右に移動する。左に二歩三歩と戻ると黒い人だかりもゾロゾロと元の位置に戻って来る様は磁石に集まる砂鉄のようだ。


 手前ではしゃいでいるのはユーチューバーだろうか?こっちを指さし、大げさな身振り手振りで動画を撮っている。

「直撃!逃亡犯、逮捕の瞬間!!」とでも言うのだろう。


 ビルの横をチラッと見ると非常階段を制服の警官数人と背広の襟と何やら話しながら昇ってくるのは刑事だろうか?

中にはジャケットの袖口に話しかける者もいる。


「へぇ本当に使っているんだ、あんな通信機」


 ドラマだとここら辺りで身内が説得役で駆り出されるシーンを見かけるな…と思っていると、

「来た!」

グレーのワンボックス車が横付けされ、刑事に促されるように降りてきたのはリアル母さんだ。


手渡された拡声器のスイッチを入れメガホンを軽く叩いている。

カラオケでも歌う前にマイクを叩くのはなんの確認なのだろう……。


 大きく息を吸い込むと

「修ちゃん!落ちたら死んじゃうんだよー!痛いんだよー!」と母。


すると隣の刑事がメガホンを横取りし、

「聞こえるかー。おふくろさんだぞー」

そんなの見ればわかる。


次は自分の番と言わんばかりに刑事とメガホン争奪戦で揉みあっているのは”小日向あおい”という俺の母親だ。


赤ちょうちんが並ぶ新橋のガード下で『ひまわり』という小さなスナックのママを務め、母一人子一人のシングルマザーである。


昼過ぎに起きだし、夕方になると化粧をはじめ開店準備に取り掛かる。

そんな忙しない時間に警察がやって来て、息子の説得のためここまで同行させられたのだろう。


 どこから持ってきたのか紅白の横断幕を広げ「いつでも来い!」と言わんばかりに仁王立ちするふたりのオヤジがいる。

家の近所の富田酒店の”トミー”とすし辰の大将”辰ジィ”で昭和生まれ。

二人とも物心ついたころから顔なじみの店の常連客だ。


 強いビル風が吹きシャツやズボンの裾がバタバタとはためき、ポケットの紙切れが空中に舞い飛ぶ。


あわてて紙を掴もうと両手をのばしたその瞬間、凍り付いたように辺りはざわめき、警察の動きが止まる。

悲鳴とともに母の葵は両手で顔を覆い口を開いたまましゃがみ込む。


「落ちる!」


覚悟を決めたその時、群衆の中に探しているあの女の姿が目に飛び込んできたが、もう遅い。


ゆっくりと眼を開けると「あれ?落ちてない」


振り返ると後ろから羽交い絞めにされ、気づいた時には空中を一回転して、手摺の内側に投げ飛ばされていた。

ほんの一瞬の出来事だった。


「確保ー!」


と叫ぶ声が聞こえたかと思うと屈強な警察官数人に抑え込まれ、曇った夜空があざけ笑うかのように、こっちを睨む。


俺の名は小日向修。なんでこんなことになってしまったのかーー!


 


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