食の連鎖

寅蔵

プロローグ テニスへの挑戦

 夏の陽射しは容赦なく照りつける。だから地元の人間は昼間、ほとんど外出しない。しかし、夏休みを使って遊びに来る本土の観光客たちは、その強烈な日差しの中でもネットや雑誌で紹介されたスポットをひとつでも多く周ろうとする。昼寝から目覚めた海藤雪は、そんな慌しい観光客の姿を眺めるかのように海沿いに建つ大浦玄吉の家の窓から外を見ていた。

「玄吉おじさん、本土から来る人たちってなんで昼間も海に入ったりいろんなところへ行こうとするのかなぁ。」

「ん、そりゃぁ、限られた時間しかないんだから少しでも多く楽しみたいんだろ。」

「だけど、この日差しの中で泳ぐと、日焼けがすごくて後が大変だよ。」

「あはは、そうだな。だけどな、雪、それでも今、この時を楽しみたいんだよ、きっと。まあ、俺には理解出来ないけどな、あいつらの心情は。」

「ふーん、そこまでして泳ぎたいのかなぁ、私にはわからないな。」

「そりゃ、雪、おまえは生まれてからずーっと、毎日この海を見て、この海で育ってきたから、この海の素晴らしさが当たり前過ぎてわからないんだよ。だけど、彼らにしてみればこんな素敵な場所はない。だから、少しでも多くの時間を使って楽しみたいんだよ。」

「ふーん、そうなんだ。なんだか変なの。」


沖縄本島の北部に位置する東村はいまだに未開拓の地が多く残り、小学校四年生の雪が遊ぶ場所はもっぱら海になることが多かった。当然のことながら雪にはその海の素晴らしさを考えるようなことはなかった。


「あ、平貝だ。おじさん、また取ってきたの?」

「ああ、今朝、珊瑚の様子を見るついでに取ってきたんだ。だけど、雪、今日はちゃんと家で夕飯食べろよな。」

「え~、いいじゃん。せっかく新鮮な平貝があるんだから一緒に食べようよ。玄吉おじさんの作る貝料理はお母さんが作るのより何倍も美味しいんだから。」

「だからぁ、毎日のようにうちで食べてるってお前のお母さんに怒られるんだよ。」

「あはは、玄吉おじさんもうちのお母さんには頭があがらないもんね。他の人の言うことなんて全然聞かないくせに。」

「こら、何言ってんだ。そんなこと言うと、もう、うちで食べさせないぞ。」

「あ、うそうそ、そんなこと言わないで一緒に食べようよぉ。そうだ、食べる前にひと泳ぎしてくるね。」

「あ、雪、、、しかし、いくら北国に憧れてるからって何だって”雪”なんて名前にしたのかねぇ。赤ん坊の頃から海が大好きで、年がら年中真っ黒じゃねえか。ま、しかし、なんだって俺になつくのかねぇ。」


雪は小さい頃から活発で明るい心根の優しい少女だった。そして、他人に対しても分け隔てすることなく接した。そのせいかどうかはわからないが、少し偏屈な叔父も雪にだけは気を許していた。



【宮里藍への憧れ】


 雪は沖縄出身の女子プロゴルファー、宮里藍が大好きだった。小学校二年生の時、地元の子供達が集うイベントに宮里藍がゲストに招かれ、子供達と一緒にゲームをやって楽しんでくれた。雪がゲームで失敗をして泣きそうになった時、柔かな笑顔を見せつつ雪を応援してくれたのである。その時の笑顔が心に沁みた雪は、その後、宮里藍が出場するゴルフ番組を見るようになった。そして、ゲームの時に見せた表情とはまるっきり違う、その真剣な眼差しに惹かれ、自分もプロゴルファーになりたいと思うようになった。たまたま家の近くに練習場があったこともあり、雪は毎日のように通うようになった。


「雪、今日も来たのか、関心だなぁ。」

「だって、藍ちゃんみたいなプロゴルファーになるためには毎日練習しないとなれないって玄吉おじさんが言うんだもん。」

「そっかそっか、それじゃ今日もちょっとだけお手伝いしてくれるかな。」

「うん、いつものようにボールを洗っとけばいいんだね。」


練習場を経営する与那嶺は、生まれた頃から雪を良く知っていた。だから雪が初めて練習場に来た時、とても嬉しく感じたが、どうせ1〜2回もやれば飽きるだろうと、それほど気にも留めなかった。一緒に来た母親に、客が忘れていった女性用のクラブ1本とボール購入用のコインを2枚渡して、仕事の合間に様子を伺っていた。ところが、雪は小学校から帰ってくると、すぐに練習場に顔を出した。翌日も、その翌日もやってきて、与那嶺が渡すコイン2枚分のボールを打って帰って行った。そして、1週間ほど経った頃、母親が与那嶺のところにやってきた。


「優さん、いつもすまんねぇ。毎日、雪が来て邪魔をしていないかい。」

「いやぁ、雪があんなに熱心にゴルフをするとは思わんかったよ。だけど、必死になってクラブを振ってる様子を見ていると、本当にプロになるんじゃないかと思えてくるよ。」

「あはは、それはないでしょ。そのうち飽きるさ。それよりも、いつもただで打たせてもらってばかりじゃ申し訳ないから、今日はいくらか払っていくよ。」

「いいよ、そんなもの。」

「だけど、雪にはボールを打つことにお金が掛かることを知ってもらいたいと思って。」

「うーん、確かにそれはあるな。それじゃこうしたらどうだ。練習場に来たら、何か簡単なお手伝いをしてもらう。それが終わったらコインを2枚渡す。まあ、まだ小さいから本当に簡単なことしかやらせないけど。」

「そんなんでいいの?他のお客さんに迷惑になったりしない?」

「いいって。それで雪がプロゴルファーになったら自慢話にもなるし。」

「だから、それはないって。」


母親の予想に反し、雪は練習を続けた。土日は他のお客さんが大勢来場するので、母親から平日だけにするように言われていたが、その分、庭での素振りはいつもの倍になっていた。3ヶ月後、雪に思わぬプレゼントが届いた。憧れの宮里藍が、ジュニア用のクラブを贈ってくれたのだった。毎日、熱心に練習をする雪を見ることが嬉しくなった与那嶺が、感謝の想いを伝えるべく宮里藍にお礼状を書いたところ、それを読んだ宮里藍がプレゼントとして、クラブと藍の名前が刻印されたボールを贈ってくれたのである。


「うわぁ、藍ちゃんからだぁ!」


喜びも束の間、まだ幼い雪の心のうちに”やらなければいけない”という、ある種、義務感が生じたことに当人は気付くこともなく、練習にのめり込んでいった。クラブが届いてから3ヶ月、宮里藍が出場するトーナメントのTV放送を食い入るように見つめ、見よう見まねでクラブを振り続けた。最初はクラブにきちんと当たらないことが圧倒的に多かったが、毎日クラブを振り、ボールを打つことで徐々にクラブの芯に当たるようになっていった。



【上達の壁】


「大分いい球が打てるようになってきたな。」

「うん。だけど、なかなか藍ちゃんみたいな球が打てないよ。」

「あはは、そうそう簡単に藍ちゃんみたいには打てないよ。彼女は日本はおろか、世界でも戦える選手なんだから。」

「でも、雪は藍ちゃんみたいになりたいんだもん。こんな、右にギューンって曲がる球はやだよ。」

「そうだな、確かにみんなスライス球だな。」

「スライス?右に曲がる球のこと?」

「ああ、ボールに横回転が掛かって右に曲がっていっちゃうんだ。」

「どうやったら横回転が掛からなくなるの?」

「それは、一言じゃ言えないよ。そんなに直したいなら、今度レッスン受けてみるか?」

「ううん、いい。自分で考えて頑張ってみる。」


雪はクラブをもらった時に心に決めたことがあった。

“藍ちゃんみたいになる。だけど、そのために他人を頼ることはしない。自分の力だけでやっていこう。”

幼い少女が何故そんな風に考えたのかは本人にもわからないことだった。ただ、生来、負けず嫌いの気性を持っていたことが少なからず影響しているのは確かだった。


その後も雪はスライス球を打ち続けた。初めてゴルフクラブを握ってから、二年が経ってもボールは右に曲がっていった。


「玄吉おじさん、なんで雪が打つボールは右に曲がっちゃうのかなぁ。」

「ん、そんなん知らん。」

「あ〜、冷たいなぁ、その言い方。かわいい姪っ子が悩んでるのに。」

「あはは、何がかわいい姪っ子だ。頑固で人の言うことなんて聞かないくせに。」

「あ〜、ひど〜い。でもまあ、確かに与那嶺のおじさんに勧められたレッスンも受けてないからなぁ。」

「そんなこと気にしなくていいんじゃないか。自分が決めたことなんだし。」

「でも、このままじゃ、藍ちゃんみたいなプロゴルファーになれないよ。」

「雪、どんな世界でも努力をしない奴はその道で成功することはないけど、努力だけでは突破出来ない壁があるのも事実だぞ。って、まだ早すぎるかな、雪には。」

「それって才能が必要だってこと?」

「才能もそうだけど、運とか、環境とか、巡り会う人だとか、要は、ひとりではどうしようもないことが沢山あるってことさ。」

「ふーん、何だかよくわからないよ。」

「雪はゴルフボールを狙ったとところに打てるのか?」

「うーん、まあそこそこには打てるよ。たまに曲がり過ぎちゃうこともあるけど。」

「小学生でそれだけ打てるのなら大人になって上級者になるのはそれほど難しくないよ。だけど、プロになるんだったら、これから先、色んなことを模索して、試して、技術を習得しないといけないだろうな。他にも精神も鍛えないといけない。そういったことはひとりでは出来ないってことさ。」

「えー、じゃあどうすればいいの?」

「いっぱい考えてごらん。慌てなくていいから、ひとつずつ、しっかりと考えて自分の答えを見つけるんだ。わからなかったら周りの人に聞けばいい。でも、答えは自分で決めるんだ。」

「そんなこと出来るかなぁ。」

「出来るさ。現にこれまでお前は大事なことを自分で決めて来たじゃないか。」

「そうなのかなぁ。自分じゃよくわからないよ。」

「そんな大層なことじゃないさ。これまでは意識していなかっただけで、これからはそのことを少しだけ意識していけばいいだけなんだから。」


雪は玄吉に言われた通り、一生懸命に考えた。プロゴルファーになるために何をしなければいけないのか、どんなことを身につければいいのか。そして、わからないことは与那嶺に聞き、練習場でレッスンを担当するコーチに聞いた。そして、また考えた。


意識して考えるようになってから一年が過ぎても球は右に曲がっていった。いつも以上に球が右に曲がった翌日、雪は早朝の海に入り、思いっきり泳いだ。そして、泳ぎ終わると玄吉の家に寄り、玄吉が素潜りで取ってきた貝のチャンプルーを食べた。


「何だ、また練習が上手くいかなかったのか。」

「そんなことないよ。玄吉おじさんがひとりじゃつまらないだろうから、話し相手になってあげようと思っただけだよ。」

「ふーん、俺は別につまらないなんてことはないけどな。」

「また、そんなひねくれたことを言うとお母さんにブツブツ言われちゃうよ。」

「あはは、確かにそうだな。」

「でしょ。」


雪は食べ物の味にとても敏感な少女だった。幼い頃は自覚していなかったが、小学校四年生の時、母に発したひとことで自分が味に敏感なことに気づいた。


「お母さん、今日のチャンプル、いつもとちょっと味が違うね。」

「あら、よくわかったわね。スーパーに珍しいお塩が置いてあったから試しに買って使ってみたのよ。味見した時はいつもと変わらないと思ったのに。」

「ふーん、そうなんだ。何だかよくわからないけど、いつもよりほんの少ししょっぱさがやさしくなったみたい。」

「へー、雪は味に敏感なんだねぇ。」

「それとね、これも何となくなんだけど、このチャンプル作ってる時、お母さん、楽しかった?」

「あらやだ、作るとこ見てたの?」

「ううん、見てないけど、一口食べたらそんな気がした。」

「すごいわねぇ。雪は食べ物の味だけで作った人のことがわかるんだね。」

「私、変なのかな?」

「そんなことないさ。楽しかったことを雪が知ってくれて嬉しいよ。」

「ほんと?良かった。」


残業から帰ってきた父親が晩酌をしている時、母親からそのことを告げられた。父親は不思議そうな顔をしながら改めてチャンプルを口に運んだ。


「うーん、いつも通りの味にしか思えないけどなぁ。」

「でしょ?作った当人にもわからない違いを一口で感じ取ったのよ、あの子。それに料理しているときの私の気分までわかるって。」

「まあ、子供はたまに鋭い感性を持ったりするみたいだから、その手の一種なんじゃないか。」

「そうね、それに味に敏感なことは悪いことじゃないしね。」

「ん、待てよ、味覚と言えば、玄吉も結構鋭いよな。もしかしてお前の家系の血なんじゃないか。」

「まさか。だって、私はわからなかったのよ。」

「家系の血といっても、顕在化しないケースもあるさ。」

「何よそれ、何だか私だけ劣ってるみたいに聞こえるんですけど。」

「あはは、そんな意味じゃないよ。たまたまだよ、たまたま。」


雪の母親と玄吉は少し離れているものの親戚関係にあった。ただ近くに住んでいる割に付き合いはそれほどでもなかった。そんなこともあり、雪は玄吉の歳を正確には知らなかったし、何故独りで暮らしているのかも知らなかった。雪の父親は少し離れたリゾートホテルの従業員として毎日働きに出掛けたが、玄吉はほぼ毎日、家にいるようだった。そのことを知っている雪は、何かと言うと玄吉の家を訪れた。たまに玄吉が留守にしている時も勝手に上がりこんで昼寝をしたり、あちこちに散らばっている、海や貝の写真が沢山掲載されている外国の雑誌を眺めたりしていた。そんな雪に対して玄吉は叱るでもなく雪の好きにさせていた。


「おじさん、また海の話聞かせて。」

「え、またかよ。もう沢山話してやったからいいだろ。」


最初は渋る玄吉だったが、いつものように雪が何度かせがむと仕方ないなといった振りをして、ボソボソと話し始めるのが常だった。玄吉の話は雪が知ってる誰の話より何倍も輝いて聞こえた。玄吉は世界中の海のことをよく知っていた。それぞれの海がどのように出来てきたのか、そこでの生態系がどうなっているのか、そこで暮らす人々がどんな暮らしをしているのか、雪にもわかるように丁寧に話してくれた。中でも、その海に生息する貝のことについては、子供の雪でも想像が出来るほど、とても詳しかった。


「おじさんは何でそんなに貝のこと知ってるの。」

「そりゃ、好きだからな。」

「貝のことが?だから毎日潜って取ってくるの?」

「あはは、あれは食費節約だよ。俺一人が食べる分くらいなら海も多めに見てくれるだろうしな。」

「雪、おじさんの取ってくる貝、大好きだよ。お刺身も美味しいし、出汁の効いたスープにくぐらせて食べるのも大好き。」

「まあ、取り立てで新鮮だからな。」

「何だかお腹空いてきた。」

「しょうがねえなぁ、それじゃ少しだけ食べていくか?」

「やったぁ!かーい、かーい。」

「あーあ、これでまたお前の母さんに怒られるな。」



【怪我、そして挫折】


 小学校生活が残り少なくなった頃、いつも通りに練習をしていた雪に異変が起きた。最初は練習が終わった後に左腕が少し痺れる程度だったが、その後も練習を続けていたら、ある日ボールを打った瞬間に左肘に激痛が走った。


「痛い!」

「どうした、雪。」

「左腕が、痛い。」

「どれ。」

「うっ。」


与那嶺は痛がる雪を車に乗せてすぐに病院に向かった。総合病院にいる知り合いの外科医に診てもらったところ、「上腕骨外側上顆炎」という診断が下った。所謂、ゴルフ肘だった。


「痛みはいつ頃からあった?」

「うーん、2ヶ月くらい前かなぁ。」

「そんなに前から痛んでいたのか。もう少し早く先生のところに来ればここまで酷くならなかったんだぞ。」

「ごめんなさい。でも、練習の後、暫くすると痛みはなくなってたから大丈夫かと思って。。。」

「この怪我はそうやって重症化しがちなんだよね。」

「先生、私、ゴルフ出来なくなるの?」

「ん、そんなことはないよ。きちんと安静にしていればじきに回復するよ。」

「どれくらい?」

「うーん、1ヶ月は休んだ方がいいかな。まあ、様子を見ながらだけどね。」

「えー、1ヶ月も。。。」

「仕方ないだろ、ここまで悪化させちゃったんだから。」


帰りの車中、雪はこの先1ヶ月をどう過ごせばいいのか思案を巡らせていた。宮里藍に憧れて始めたゴルフは、これまでクラブを握らない日がないほど練習に明け暮れてきた。それを1ヶ月間、ゴルフに関しては何もするなと言われてしまった。それでなくてもスライスが直らない日々に悶々としており、もっと沢山練習をしなければと思っていた矢先だっただけに、練習以外のことで日々を過ごす自分を想像することが出来なかった。


「おじさん、つまらないよぉ。」

「何言ってんだ、自業自得なんだからおとなしくしてるしかないだろ。」

「だってぇ。。。」

「だってもへったくれもない。って言うか、なんでお前ここでゴロゴロしてるんだよ。家に帰って宿題でもやってろ。」

「えー、宿題なんて夜にちゃちゃっと済ませるから大丈夫だよ。それよりまた海の話聞かせてよ。」

「だーめ。今は来月に迫った国際海洋シンポジウムの論文提出期限までに論文を仕上げないといけないからそんな時間はない。」

「えー、つまんないよぉ。」


玄吉は知らん顔をして原稿に目を走らせていたが、暫くすると、視線はそのままで雪に声をかけた。


「お前、ボールが打てないからって、そんなとこでゴロゴロしていていいのかよ。」

「えっ、だって、先生が安静にしてろって言うから仕方ないじゃん。私だって好きでゴロゴロしてるわけじゃないよ。」

「安静にと言うのは肘に負担を掛けるなということだろ。今のお前に出来るゴルフの練習、他にもあるんじゃないのか。」

「えっ。」

「ゴルフは他のスポーツと違って俊敏性とかずば抜けた筋力は無くても大丈夫だけど、何時間も歩いたり、一打に集中するためにマインドのコントロールが必要だったり、いろいろと鍛えなくちゃいけないことがあるじゃないか。」

「それはそうだけど。。。」


痛いところを突かれた雪は珍しく玄吉の言葉を素直に受け止められなかった。すると玄吉は雪の気持ちを見抜いたかのように、再び口を閉ざし、机の上の原稿に集中した。その後ろ姿は中途半端に甘える雪を拒絶しているかのように見えた。暫くその姿を見ながら思案した雪は、何かを吹っ切るようにすっと立ち上がった。


「おじさん、ランニング行ってくる。帰ってきたらゴルフに必要な筋力やメンタルについて教えて。じゃぁね。」

「おい、雪、何言ってるんだ、俺はゴルフのことなんか。。。」


玄吉が言い終わる前に雪の姿は玄関を飛び出し見えなくなっていた。


「やれやれ、いつもながら我が姪殿には感心させられるばかりだな。」


呟く玄吉の足下には隠すようにゴルフの専門誌が何冊も置かれていた。

ゴルフボールを打つことは出来なかったが、雪は足腰の強化やメンタルトレーニングについていろいろと調べ、手探りながら取り組んでいた。そして初めて病院に行ってからひと月が過ぎた頃、雪は外科医の元を訪れた。


「大分良くなったようだね。」

「はい、痛みも全然無いし、もうボール打っても大丈夫だよね、先生。」

「そうだね。最初は少しずつ、様子を見ながらにするんだよ。」

「やったぁ!!」

「しかし、ずいぶん日焼けしてるなぁ。」

「あはは、毎日走ってるからかなぁ。」

「足腰の強化かい?ゴルフには大事なことだね。」

「はい、玄吉おじさんに教わりながら走ってます。」

「いいおじさんだね。」


家に帰った雪は母親や与那嶺と相談をして、翌週の月曜日から練習場に通うことにした。ところが、前日の日曜日、思わぬ出来事が再び雪を襲った。日曜日、雪は小学校の友達5人と一緒に美ら海水族館に遊びに行った。人工のひれを着けたイルカ、ユイを見るためだった。事故で尾びれを失ったイルカ、ユイは美ら海水族館で人工の尾びれを装着し、ジャンプが出来るまで回復した貴重なイルカだった。そのことを知った雪たちはユイを間近で見ようと訪れたのだった。ユイが飼われている水槽の前に来ると、ユイは人工尾びれを着けて気持ちよさそうに泳いでいた。暫く間近で様子を見ていた雪たちの前で、ユイが急に大きくジャンプをした。その突然の行動に、雪の前にいた友達がびっくりして後に倒れそうになった。


「あっ。」


咄嗟に友達を支えようとした雪は、友達もろとも後方に倒れてしまった。


「痛いっ!」


倒れた拍子についた雪の左腕の上に友達が重なるようにして倒れてきた。苦痛に顔を歪める雪は、ひと月前に感じたものとは比較にならない痛みの中、漠然と「もうゴルフは出来ない」と感じていた。


診断の結果下されたのは「上腕骨顆上骨折」だった。医師は母親に、骨折自体は時が経てば直るものの、たまに、神経障害や可動域が小さくなるなどの後遺症が出ることがあると伝えた。


ギプスを着けて1ヶ月半、流石にその状態で走ることは周りから止められた。やることのなくなった雪が再び叔父の家に入り浸るようになったが、玄吉は何も言わなかった。あまりにも不憫な姪に掛ける言葉が浮かばなかった。ところが、当人である雪は意外とサバサバした心情にある自分がちょっと不思議だった。医師は怪我が直れば再びゴルフが出来ると言ってくれたが、自分の心の中ではプロゴルファーの夢は断たれたと感じていた。気力を失うとかではなく、路を断たれたことを、何故だか確信していた。そして、プロになれないという確信は心の中を空っぽにし、感情の揺れを平坦なものにしていた。


2ヶ月後、骨折が治癒して練習を再開した雪は、クラブを握る左手に力が入らないことに気づいた。何とかクラブは振れるものの、飛距離は怪我をする前に比べて半分にも届かなかった。最初は時間が経てば直るかと思ったが、1週間が過ぎ、ひと月が過ぎても力は戻ってこなかった。


「骨折が起因となっていることはほぼ確かだと思われるのですが、検査の結果はどこにも異常が見られないのです。」

「それじゃ雪の左手はもう力を入れることが出来ないのですか。」

「原因が見つからない限り、医師としては何とも言いようがないのです。」


その後も、医師の勧めで那覇市内にあるスポーツ整形外科に行ったり、鍼灸師の元を訪れたりしたが、雪の左手に力が戻ってくることはなかった。それでも雪は周りの誰に対しても怒りや愚痴の矛先を向けることはなかった。心が空っぽになってしまったせいなのか、骨折した瞬間に無意識のうちにプロゴルファーの夢を断念したせいか、当の本人にもわからなかった。


半年ほどが過ぎたある日、雪は玄吉の家の窓から沈みゆく夕日を眺めていた。玄吉は普段通り放っておいたが、ふと書きかけの論文から顔を上げ雪の後ろ姿に目をやった。すると雪の背中が微かに震えていることに気づいた。


「雪、、、。」


その声に応えることはなく、雪の背中は夕日が海の向こうに沈んだ後も止まることなく、いつまでも続いた。


大好きなゴルフが出来なくなった雪は、これといって何をするでもなく、日々を過ごした。小学校の卒業が近くなり、クラスメートと卒業記念の切り絵作りも何となく手を動かすだけで、楽しいといった感情は浮かんでこなかった。両親を始め、周りの者が気を遣って話し掛けたり、食事や遊びに誘うと柔かな笑顔で受け答えをするものの、その笑顔も一瞬だけで、すぐに感情を内に閉じ込め、とても寂しそうなそれに変わった。母親はその表情に不憫を感じ、与那嶺は悔いの念と責任を強く感じた。


「本当に済まなかった。俺がもう少し雪の練習量に気を掛けてやっていればこんなことにはならなかったのに。」

「優さん、そんなことないよ。あの子は自分で決めたことは最後までやりきる子だから、仮に優さんが練習量を抑えても、その分を他でやって結果は同じだったよ。」

「それでも、体調をもう少し気遣っていれば、ここまで酷いことにはならなかったと思うと、もう、何とも雪に申し訳なくて、、、。」

「優さん、それは私の方だよ。母親として、何で、あの子の異変にもっと早く気付けなかったのか、これじゃ母親として失格だよ。」


ゴルフを断念することになった事故は不可避の事態だったが、母と与那嶺はその前に起きた左腕の故障が原因だと思い込み、自分たちに責任があると思い込んでいた。雪の怪我は本人の心を閉じ込め、そして母と与那嶺の心に大きな傷を作った。


雪は海に行くこともなくなり、自然と玄吉の家に寄ることもなくなっていた。家で手持ち無沙汰に時を流す雪を見て、母親は心の内にまた一つ大きな澱が溜まるのを感じたが、何をすることも出来なかった。今は、雪が心を開き、前を見る日が来るのを辛抱強く待つしかないと考えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る