緑の海域-5

 その夜。航海日誌と日記を閉じて、奏澄は自室で大きく伸びをした。

 ライアーが追われるハプニングはあったが、そう大きな騒ぎでもない。急いで出航することもないので、コバルト号はまだ島に停泊している。宿を取っても良かったが、念のため奏澄は船の方にいることにした。


 今日の日記は、少し長くなってしまった。反省点や、思ったことなどをつらつらと書いていたら、文章がどんどん伸びてしまった。しかし、文字にすることで、多少気持ちが整理できたような気がする。

 事前に可能性を考慮していたから、手配書を見た時、大きく動揺するようなことは無かった。それでも、まさか自分が罪人として手配されるようなことが人生の内にあるとは思ってもみなかった。至って善良な一市民として生き、生涯そのままだと思っていた。

 元の世界に戻った時、自分は自分のままでいられるだろうか。

 今の自分は、昔ほど嫌いではない。失敗も多いが、大切な仲間がいて、仲間も大切にしてくれて、試行錯誤を繰り返す中で成長も感じていた。楽しい、と感じる時間が、確かにある。


 壁にかけられた、ライアーが選んでくれた服を見る。ライアーの手腕は、魔法のようだった。わくわくした。思い返して、笑みが浮かぶ。

 元の世界でだって着飾ることはしたが、どちらかと言うと体面を気にして、みっともなくないように、同行者に迷惑をかけないように、という意識が強かったように思う。着飾って、それを誰かに見てほしい、だなどと。

 メイズの言葉を反芻して、奏澄はにやけそうな顔を手でぐにぐにと伸ばした。別に、深い意味はない。褒められたら誰だって嬉しい。こちらに来てからおしゃれなどしなかったから、少しテンションが上がっただけだ。

 それだけの、はずだ。


 コンコン、とノックの音がして、奏澄の肩が跳ね上がった。


「ど、どうぞ」

「入るぞ」


 訪ねてきたのはメイズだった。こんな時間に部屋に来るような人物は他にいないので予想はしていたが、今まさに考えていた相手だったので、動揺してしまう。


「どうしたの?」

「今日のことで、ちょっとな」


 それを聞いて、奏澄は気を引き締めた。ギルドに行ったのは、メイズの意向だったはずだ。今後についての、重要な話かもしれない。

 しかしメイズは、すぐに話を切り出さず、何か言いにくそうにしている。


「メイズ? 何?」

「いや……お前、何か俺に話したいこととかないか」

「話したいこと?」


 奏澄は首を傾げた。メイズが聞きたいことならまだしも、奏澄が話したいこと、というのはどういう意味だろう。


「えっと……手配書のこと? ライアーから聞いたんじゃなかったっけ」

「ああ、そっちは聞いてる。そうじゃなくて、ライアーと別れた後、何ともなかったか」

「ああ、うん。ラコットさんたちと合流できたから、特には」

「……そうか」


 そう言ったものの、納得いかない顔をしている。真意が読めなくて、奏澄は不安になった。もしかして、ラコットたちがあの出来事を話したりしたのだろうか。


「何か気がかり?」


 奏澄が問うと、メイズは逡巡する様子を見せた後、重い口を開いた。


「お前が、誰かに泣かされたんじゃないかと」

「えっ」


 それは誤解だ。奏澄は勝手に泣いただけで、誰にも泣かされてなどいない。驚いた僅かな沈黙をどう取ったのか、メイズは言葉を続けた。


「言いたくないなら、言わなくていい。ただ、お前は抱え込むところがあるから、俺に遠慮しているなら話を聞こうと思っただけだ」


 その言葉を聞いて、奏澄は胸がぎゅっとなるのを感じた。奏澄が、何か辛いことがあったんじゃないかと心配して、でもそれを無理やり聞き出すのも憚られ、わざわざ様子を見にきてくれたのだ。

 衝動的に抱きつきたくなって、ぐっと堪えた。これがマリーだったら、多分、遠慮なく飛びついていた。でも今、メイズ相手には、何故かできなかった。


「心配かけてごめん。でもそれ、誤解で、誰にも泣かされてないよ」

「……つまり、あいつの勘違いだと」

「あ、いや、えと、泣いたことは泣いたんだけど」


 あいつ、がライアーなのかラコットなのかはわからないが、伝聞なのだとしたら相手を嘘つきにしてしまう。それは避けたくて補足したが、余計なことを口走ったかもしれない。


「やっぱり何かあったのか」

「えーーっと」


 断片的に情報を出すと、誤解が加速しそうだ。奏澄は観念して、ライアーと別れた後のことを話した。


「そういう、感じなので……自業自得というか、とにかく、大丈夫だから」


 話を聞いたメイズは、理解はしたようだが、納得はしていない、という顔だった。


「男に絡まれたことには変わりないだろう」

「だから、絡まれてないから。善意だから」

「善意とは、限らないだろ。下心があったんじゃないか」

「……メイズ?」


 何故だろう。ラコットと出会った時と同じような不機嫌さを感じる。


「今後、ああいう格好はしない方がいいんじゃないか」

「なんで?」

「女に見える」


 予想外の言葉が出てきて、奏澄は一瞬固まった。変化に無頓着なのかと思ったが、そういうわけでは無かったようだ。


「私、最初っから、女だけど」

「そういう意味じゃない。わかって言ってるだろ」


 わかる。わかるが、わからない。それは、悪いことなのだろうか。そして、メイズに指摘されるようなことなのだろうか。

 少しだけむっとして、なのに、何故か僅かに喜びがあった。

 多分、ここは、怒るところなのだ。奏澄の服装をメイズに決められる謂れはない。たまにはおしゃれしたい時だってあるだろう。その度に嫌な顔をされたら、奏澄だって傷つく。

 それでも。メイズは奏澄を子ども扱いしている節があったから、年相応に見てくれた気がして、嬉しい、と思ったのだ。着飾って良かった。やってくれたのはライアーだが。


「じゃぁ、ああいう格好するのは、メイズといる時だけにする。それならいい?」


 そう言うと、メイズは微妙な顔をした。


「絡まれるのが心配なんでしょ? 一緒にいれば、問題ないじゃない」

「片時も目を離さずにいられるわけじゃない」

「お父さんか」


 思わずつっこんだ。幼児か。一瞬でも目を離したら消えるとでも思っているのか。

 しかしその言葉を受け取ったメイズは、むしろ得心がいった、という顔だった。


「そうかもしれないな」

「はい?」

「父親ってのは、娘に虫が寄りつくのを嫌がるものなんだろ」


 奏澄は呆然とした。何だろう、この、一歩進んで二歩下がったような感じは。

 今度こそむっとして、奏澄はメイズに枕を投げつけた。


「メイズのばーーーーか!!」


 部屋から追い出して、ドアを閉めた。肩で息をして、そのまま座り込む。


「何してんだか……」


 それこそ、十代の反抗期のような態度を取ってしまった。自分でも、何故こんな馬鹿な真似をしたのかわからない。

 十代と違うのは、奏澄は自制が利く方なので、すぐに謝る方向へ思考が向くことだろう。

 今日はもう恥ずかしさから顔も合わせられないが、明日になったら自分から謝罪しよう、と心に決めた。

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