第三章 月影の修道院 6
気絶した修道女の姿を見た途端、タマルは「サラ」とつぶやき、そのまま膝から崩れ落ちた。院長は一瞬目を丸くしたが、タマルを施療院に、元傀儡魔の修道女――サラを客間に運ぶよう、静かな声で修道女たちに指示をした。
院長は初め、イザヤから逃げるように院長室に閉じこもり、報告を聞こうとしなかった。が、ラザロの仲介でようやく落ち着き、二人の回収人を自室に招き入れるに至った。
彼女は、サラが魔力に取り憑かれたらしいことには気づいていたが、男を眠らせていたことは知らなかった。
「あろうことか、タマルは鍵を持っていることを利用し、鐘楼で若い職人と逢い引きをしていたんです」
院長は、口に出すことすら汚らわしいとばかりに、苦い顔で首を振った。
「サラはタマルの妊娠に気づき、ひどく取り乱しました。彼女を追放しろと私に迫ってきたんです」
ザカリアの推理どおりだった。犬から回収できた魔石は「ディアナとエンデュミオン」のみ。魔石として出てこなかったということは、「ディアナとカリスト」の魔力は存在しなかったのだろう。妊娠発覚からの流れと元から彼女の中にあった変化への恐怖が、「ディアナとエンデュミオン」の魔力を引き寄せたのだ。
ラザロは院長に同情するように息をついた。
「妊娠の事実をどれだけ隠そうとしたところで、人の口に戸は立てられませんからね。タマルさんは唯一の肉親であるお姉さんが嫁いだのを機に、修道院入りした方です。帰る場所がないのだから、追放などすればすぐに噂が広まってしまうでしょう。客間への幽閉は、サラさんを落ち着かせるために仕方がなかった処置だと言えますね」
「しかし、彼女を幽閉したところで、タマルさんに宿った命は消えません」
イザヤが言うと、院長は眉間に皺を寄せた。
「ですから、お腹の子がいなくなれば、すべて解決することだったんです。サラの考えも変わるだろうし、タマルも何事もなかったように修道生活に戻ることができます」
「中絶は大罪ですよ、ミリアム院長。教会を代表する立場として、修道院内で罪が犯されるのを見過ごすわけにはいきません」
そう言ったラザロを、院長は鋭く睨みつける。
「そんなことはわかっています。でも、それ以外にどうしろと言うのです? 私が人生を賭したこの修道院が廃れるのを見るに任せろと?」
「そうは言いませんよ。方法は他にもあると言いたいんです」
そう言うと、ラザロは院長室の扉を開けた。
「まずは、彼女たちの話を聞いてみようじゃありませんか」
客間に入ると、修道女サラが寝台に身を横たえたままこちらに目を向けた。傀儡魔だった頃の尊大さは微塵も感じられない。
「サラさん。ご自分がしたこと、覚えていますか」
ラザロに問われたサラは、半身を起こしてううなずいた。
「はい、なんとなくは。私は、魔力に取り憑かれていたんですね」
「それは、なぜだと思いますか」
「……愛するタマルの姿が変わっていくのが、耐えられなくて」
サラは、布団の上に投げ出した両手をぎゅっと握った。
「私は、時間を止めたかったんです。ずっとここで、若くきれいなまま、タマルといっしょに睦み合っていたかった」
サラはそこで言葉を止め、苦しそうに目を瞑った。
「でも、タマルは違ったんです。タマルは、愛をくれる相手なら誰でもよかった。あの子は、愛を甘いお菓子みたいなものだと思っているんです。差し出されれば、ぜんぶ受け取る。うれしいし、楽しいから。そして、気持ちがいいから」
サラは、変化が怖かったのだと言う。どんな美も、満たされた気持ちも、幸福な瞬間も。進み続ける時間の中では、確実に変化し、崩れていってしまう。
その恐怖が、屋根裏の隙間から覗き見た「美」を眠らせ、時を止めようとする行為に繋がったのだろう。
「罰なら、受けます。追放されてもかまいません。ここにはもう、私の居場所はありませんから」
サラはとぎれとぎれにそう言った。院長の顔に、にわかに影が差す。
するとラザロが「実は」と明るい声を出した。
「ここに来る前に施療院に寄って、タマルさんとお話をしてきました。彼女は、必要とされることがうれしかったそうです。自分が価値ある存在だと感じられたと。けれども、それは愛の本質ではなかったと気づいたそうです」
「本質?」
サラが怪訝そうに眉根を寄せる。
「愛というのは、自分と相手の境界線を取り去ることです。相手の幸せを、自分の幸せだと感じることです。タマルさんは、ずっと苦しんでいたのですよ。あなたを傷つけてしまったこと、そして、あなたを変えてしまったことを」
そのとき、客間の扉が開た。タマルが、遠慮がちに入ってくる。
「タマル……」
「サラ。ごめんなさい。私、あなたと会えなくなって、ようやくわかったの。私に必要なのはサラだったんだって。私が愛していたのは、あなた一人だけだったんだって」
「嘘よ」
サラが首を振る。
「私は、あなたを追放しようとしたのよ。一時の感情で」
「当然だわ。今なら、あなたの気持ちがわかる。私は本当に無知で、幼かった。許してもらえるとは思っていないわ。でも、聞いてほしいの。私の気持ちを」
タマルは寝台に歩み寄ると、サラに顔を寄せるように跪いた。
「もしできるのなら、これからは、あなたを愛していきたい。あなたの幸せを、私の幸せにしたい」
「でも……私は、前とは違うのよ。もう前みたいには、あなたのこと、愛せない」
サラはタマルから逃げるように顔を背けた。タマルはサラの腕にそっと自分の手を載せ、静かに言った。
「それでいいの。私に、あなたを愛する許可をちょうだい。あなたが何歳になっても、私はあなたのこと、ずっと愛し続けるわ」
「でも……私は……」
サラはおそるおそる院長に目をやった。
「愛は救世主のお恵み。われわれ人間に授けられた、最も尊いものです。そして誰かを愛するにはまず、自分自身を愛する必要があります。タマル」
「はい、院長」
「あなたは、そのおなかの子をどうするつもりですか」
「それは……」
タマルは、両手を下腹部に添えた。伏せた目に、諦めと苦悶の色が広がる。すると、
「いっしょに育てます」
サラが言った。タマルが驚きに顔を上げる。
「門前に捨てられていた孤児を引き取ったということにすれば、何の問題もないはずです」
「その通り。元々ここは外界から隔絶された場所ですから、中での出来事が外に漏れる心配は少ないですしね。もちろん、僕もご協力します」
ラザロが言うと、タマルが院長を懇願のまなざしで見つめた。彼女は観念したように深く息をついた。
「わかりました。あなたがたの過ちを許します。きっと、必要なことだったのでしょう。タマル。あなたの改悛を信じ、その意志を尊重します。この修道院を、愛で満たすのです。できますね、サラ」
「はい」
「ありがとうございます、院長」
タマルの頬を、涙が伝う。サラはそれを拭うように、そっと唇を押し当てた。
「よかったです、無事に解決できて」
教会への道中、ラザロが言った。修道院を後にしたイザヤとザカリアは、ラザロの教会に寄り、そこのハルピュイアに今回の魔石を託すことにしたのだ。
「しかし、面白いですねえ。神話と同じような出来事が、魔力を引き寄せるなんて」
「それも推測に過ぎないがね。魔力に関しては、まだまだわからないことのほうが多い」
ザカリアの言葉を聞きながら、イザヤは手袋の下の魔石をぎゅっと握りしめた。
とっさに放たれた、ユダとは異なる魔術――プシュケーの「蝶」。
おそらく大丈夫だろうと思いながらも、ザカリアに勘付かれたのではとイザヤは内心怯えた。しかし先輩回収人は、始終晴れやかな顔と態度を崩さなかった。教会でラザロと食卓を囲んだときも、医者の家で目覚めた息子たち被害者を確認し、父親に感謝をされたときも。機構で無表情のエリアスに報告をし、任務完了を言い渡されたときも、彼は満足げな笑みをたたえ続けていた。
「使える独房を用意してある。イザヤはそこに泊まってくれ」
エリアスが言うと、ザカリアはイザヤを見た。
「ここでお別れだな。僕は報告がてら、教会に戻る」
「支部長によろしく伝えてくれ」
エリアスが会議室を出て行く。それに続こうとしたザカリアを、イザヤは引き留めた。
「あの。今回は、たくさん助けていただき、本当にありがとうございました」
「先輩なんだから、当然だろう? また一緒に仕事ができる日が来るのを楽しみにしてるよ」
ザカリアはそう言うと、イザヤに手を差し出した。イザヤはあわててそれを握り返す。
「またな、イザヤ。そして、イザヤの『目』も」
そうして黄色い左目を見ると、にっこりと微笑んだ。
独房に入ると、エレミヤが懐かしそうに部屋を見回しながら言った。扉に鍵はかかっていない。
ここに来る途中、独房の並ぶ廊下を通ったが、そのほとんどは使われていなかった。どうも稀人の数はだんだん減ってきているらしいな、というエレミヤのつぶやきが、イザヤの頭には残っていた。イザヤが「仲間」と呼べる人々は、そもそも絶対数が少ないのだ。
『魔石のこと、気づかれてないみたいだな』
「ええ」
疲れとともに答える。
『プシュケーの魔術も、見られてはいなかったはずだ。ひとまずは安心だな。しかし、不思議だ』
「そうですね。私も予想外でした」
一つの魔石に、複数の主題の魔力が入り込む。屋根裏で咄嗟に放った魔術「蝶」は、どう考えてもユダの魔石の力ではなかった。
『魔術を向けられたとき、あるいは回収の際に、相手の魔力を取りこんでいる、ってことなのか』
「おそらく、そうでしょう」
『「サロメ」のときには、魔石がそこまで育ってなかったってことか。魔石が育つなんて、考えたこともなかったな』
そこで黙りこんだ左目に、イザヤは試すような言葉を向けた。
「報告、しますか」
『なんでだよ。こんな面白いこと、途中で終わらせるわけねえだろ』
予想通りの答えに安心し、イザヤは独房の隅に横たわった。小さな窓からは、柔らかな月の光が差し込んでいる。
『なあ、イザヤ。ちょっと、話しておきたいことがあるんだが。いいか』
「なんですか」
エレミヤの緊張気味な声に、イザヤは驚きとともにまばたきをした。
『前にも話したと思うが、おれはかつて、回収人として活動をしていた』
どくん、と心臓が波打った。
エレミヤの過去。知ろうと思わなかったそれに興味が出始めたのは、いつ頃のことだったろう。
リシャール邸で見た、シジフォスの夢。あのことも含め、尋ねるタイミングをすっかり逃したまま、ここまで来てしまった。
『おれは、ある問題を起こした。それを報告しなかったおれの「目」もろとも、おれは機構に連れ戻され、処刑された。おれの罰は、「夢刑」――夢の中での十年間の苦行だ』
はっと、息をのんだ。夢の中での、苦行。十年。
「もしや、エレミヤさんの『目』は――ヨナさん、というのではないですか」
へ、と左目が見開かれる。
『なんで知ってるんだ、おまえ』
「夢を見たんです」
『夢?』
イザヤは、シジフォスの夢のことを話した。聞き終わった途端、エレミヤははあっと大きな息をついた。
『それは、間違いなくおれの記憶だ。だが、なぜおまえが?』
「わかりません。左目の交換と、何か関係しているのではないかと思うのですが」
『魔石の魔力の影響が、おれの左目に残っていたのかもしれねえな。やはり魔石については、まだまだ知らないことが多いようだな』
ひとり言のようなつぶやきの後で、「とにかく」とエレミヤは続けた。
『とにかくおれは、十年の刑を受けたんだ』
「十年も、あれを……」
夢の中で見た汗や血を思い出す。その途方もない苦痛に、エレミヤは十年間耐えきったのだ。
『夢を見たとき、なぜ聞かなかったんだ。おれの過去の記憶だと、おまえならわかりそうなものだが』
「すみません。おそらく、怖かったんだと思います。エレミヤさんの過去を……つらい経験をしていたことを、はっきりと知るのが」
『もう終わったことだ。それに、十年とは言うが、それは夢の中での体感時間だ。現実での時間は、わずか一週間だからな』
「一週間?」
『そうだ。つまりおれの精神は、肉体より十年老けてるってことになる』
あまりのことに、想像が追いつかない。肉体年齢が若いままであれば、それほど年は離れていないということなのだろうか。
「それも、魔石の力なのですか。ヒュプノスと、シジフォスの」
『そうだ。魔石を額に埋め込まれることで、おれたちは魔力の影響を直に受けちまう。おれたちの弱点とも言えるな。だが問題は、おれではなくヨナのことなんだ』
「ヨナさんも、刑を受けたのですか」
『ああ。何らかの刑を受けたことは確かだと思う。その影響なのかどうかわからないが、ヨナは消えちまったんだ』
「消えた?」
思いがけない言葉に、眉間に皺が寄る。
『ああ。文字通り、存在が消えた。職員に聞いても「そんな人間はいない」としか言わねえ。記録を見てみたら、あいつの名前だけ全部黒塗りされていた。この世から、完全にいなくなっちまったんだ』
――消えた。それは、極刑を意味しているのだろうか。エレミヤの歯ぎしりを聞きながら、イザヤは騒ぐ鼓動を落ち着かせようと胸を押さえた。
『何が起きたのかはわからねえが、魔石を使ってヨナがどうにかされたことは確かだ。おれたちはおれたちのやり方でしか魔石を使うことができないが、機構の職員は、おれたち以上に魔石の使い方を知っている。だからな、イザヤ』
左目が興奮したようにぐるりと回転した。
『おれは、おまえに期待してるんだよ。おまえの魔石がこのまま強くなり続ければ、奴らも、ザカリアたちも知らない何かが起こるんじゃないかってな。そうすりゃおまえ自身を切り札に、ヨナがどうなったのかを知ることができるかもしれない。事実、おまえの魔石は他の魔石の魔力を取り込み、成長している』
興奮気味の声の後で、左目がぐるりと回転した。
『おれは、おれ自身の運命も、ヨナの運命も、まるごとおまえに預けたいんだよ』
「私に……」
言葉を失ったイザヤに、エレミヤはからりとした笑いを漏らした。
『そう気負うな。まずは、寝ようぜ。記念すべき、初帰郷の夜だ。ゆっくり休めよ』
吐息とともに、左目のまぶたが閉じられる。イザヤは口元がゆるむのを感じた。
「はい。おやすみなさい、エレミヤさん」
最後にもう一度窓の夜空を見てから、イザヤは目を閉じた。
魔力に侵されていない純粋な月光の下、毛布にくるまったイザヤは、静かに眠りに落ちていった。
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